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観相眼の少年

第3話 第3話

第3話

第3話

短刀の柄に、男の血が、まだ脈を打つように温かい。

掌に伝わる温度の中で、組紐の朱が、皮膚を通して俺の脈と同期し始めている。錯覚だ、と思う前に、視界の黄金色の格子が、ぐっと密度を上げた。

三点の核。三点の核を結ぶ、見えない線。

俺の視界の中で、それは数学の問題集の見開きのように、整って並んでいた。六本腕の個体——地点A。円形顔面の個体——男の左肩に触腕を刺したまま、地点B。四つ足の個体——空振りの後、再び体勢を低くしている、地点C。三体の核から伸びる術式の糸が、互いの体内で結節し、頂点で一本に絞られて、空中の一点に収束している。

ない、はずの点が、何もない場所に、ある。

路地の上、人の背丈の二倍ほどの高さ。アスファルトと古い物干し竿の間。何もない空間に、一点だけ、視界の黄金色がより濃く、ほとんど赤に近い色で凝縮していた。三体の連動の、結び目だ。見つめているだけで、こめかみの内側で、細い針が一本、ゆっくり回されているような痺れがある。

そこを、抜けばいい。

そう思った瞬間、俺の右手が、勝手に短刀を持ち直していた。柄の握り方を、誰にも教わったことがない俺の指が、勝手に決めている。母指球の付け根に柄頭を当てて、人差し指を組紐の結び目の凹みに沿わせる。三年間、書架の埃を拭ってきたこの手が、今、刃物の重心と握り角度を、〇・一秒で計算した。指の腹に残っていたはずの紙粉の感触が、いつの間にか、刃の鉄の匂いに、塗り替わっていた。

男が、俺の顔を見た。腹の血だまりに膝をついたまま、口の端だけが、わずかに歪んだ。

「——お前、それ、本当に初めてか」

答える時間はなかった。

地点Aの六本腕が、五本の青白い光を、再び持ち上げる動作に入った。一本失った右側の代わりに、左の三本が、空中で微妙な角度で配置を変えている。配置の変化が、術式の線の太さを、〇・〇二だけ変えた。俺の視界の数値が、自動的に再計算された。連動の頂点が、一センチ、左にずれた。

「——っ」

俺は、踏み込んだ。

膝を折り畳んだ反動で、アスファルトの上を、滑るように。三年間動いていなかった大腿四頭筋が、視界に映る神経の糸の通りに、順番に発火する。腓腹筋、ヒラメ筋、足首の腱。一つ一つの順番が、視えていた。順番通りに、点火していく。それだけで、俺の体は、地点Aと地点Cの間の、最も狭い隙間に潜り込んでいた。

短刀の切先が、上を向く。 連動の結び目——空中の、その一点へ。

切先が、空気を裂いた。 裂いた、はずだった。

宙の一点に届いた瞬間、俺の腕の骨が、肘から肩まで、一直線に痺れた。物理的な手応えは、何もない。空気を突いただけ。けれど、視界の黄金色の格子が、その瞬間、悲鳴のように震えた。三本の線が、結節点の位置で、ほぼ同時に、ぶつ、と切れた。

地点Aの六本腕が、立ったまま、止まった。

血の代わりに、口だったはずの場所から、青黒い粘液が、内臓の重みごと流れ落ちた。五本の腕の光が、一本ずつ、消えていく。残骸が、糸が切れた人形のように、横に倒れた。倒れる音が、ない。重みのあるものが倒れたはずなのに、アスファルトが、それを受け止める音を、出さなかった。代わりに、生臭い、鉄錆と腐葉土を混ぜたような匂いだけが、ふわりと路地に広がった。耳の奥が、無音にきりきりと鳴っている。

地点Bの円形顔面が、男の肩から触腕を引き抜いた。 地点Cの四つ足が、後退した。

二体は、繋がりを失って、初めて、別々の獣になった。

俺の右手は、まだ、上を向いたままだった。短刀の切先から、糸のように細い湯気が立ち上がっている。空気を斬っただけのはずの刃に、青黒い粘液が、薄く一筋、こびりついていた。視えない場所に、刃は、確かに、届いた。

俺の喉から、笑い声に似た息が、漏れた。笑ったわけではない。胸の底にあるはずの恐怖が、笑い方を間違えただけだ。

三年間、何も「視えない」と呪ってきた目が、今、妖魔の核を、結節を、空中の不可視の一点を、視た。視ただけではない。手が、追いついた。

「耀」

男の声が、俺の名前を、二度目に呼んだ。今度は、短く。命令の語尾だった。

「核を、二つ。残ってる」

俺の視線が、地点Bへ滑った。

円形顔面の頭部の、黒い穴の奥。そこに、黄色い光点が、一つ。男の血を吸った触腕が、まだ濡れたまま、震えている。術式の線は、もう、Aへ繋がっていない。代わりに、Bの内部で、線が再構成されようとしていた。崩れた連動を、自前で補おうとしている。修復に、二秒、要する。

二秒の間に、刺せる。

そう、線が、教えてきた。

俺の足が、また、動いた。

三年間、家の者に「空」と呼ばれ続けた俺の体が、今、誰にも教わっていない歩法で、円形顔面の死角に回り込んでいる。アスファルトを蹴る感触が、奇妙に軽かった。地下倉庫から地上への階段を、逆に下りていくような、重力の符号が反転したような軽さ。呼吸の音すら、自分のものに聞こえない。鼓膜の内側で、誰か別の人間の脈拍が、整然と時を刻んでいるようだった。

頭の奥のどこかで、声がする。俺の声でもなく、男の声でもない。ただ、視界に映る黄金色の線が、次の動作を、勝手に組み立てて、俺の筋肉に渡してくる。渡された通りに、動く。動くと、刃が、届く。

円形顔面の触腕が、俺の頭を狙って、振り下ろされる軌道に入った。線が、視えた。〇・四秒後の到達点が、すでに、俺の左耳の三センチ脇を通過する曲線として、浮かんでいる。俺は、首を傾ける必要すら、なかった。触腕は、俺の側頭部を、線の通りに、空振りで通過した。風圧が、髪の生え際を撫でていく感触だけが、遅れて届いた。俺の右手の短刀の切先は、その時すでに、円形顔面の黒い穴の中——黄色い光点の真上に、〇・〇五ミリの誤差で、置かれていた。

刺す、と思った。 思った瞬間、俺の手首が、視界に映る最短軌道を、自動的に辿った。

二体目が、崩れた。

地点Cの四つ足が、最後に残った。後退したまま、肩の関節を、また逆向きに折り畳もうとしていた。跳躍体勢。視えている。〇・三秒後、跳ぶ。到達点の予測軌道は、すでに俺の網膜の中で、放物線として完成している。

俺の眼球は、もう、熱を感じなかった。 熱いという感覚を超えて、ただ、滑らかだった。

「——耀」

男の声が、三度目に、呼んだ。今度は、止めるための声だった。

俺は、止まらなかった。 俺の足は、四つ足の妖魔の方へ、もう、踏み出していた。

跳躍が、視界の黄金色の線の上を、忠実に滑る。三年間、書架の影の伸縮を数えてきた俺の目が、空気の歪みの線を、〇・〇一秒刻みで切り分ける。短刀の切先は、跳躍の頂点に、先回りして、置かれている。

そう。 俺は、置いていた。 俺の意志ではなく、俺の網膜が、そう、置いた。

刺さる、その音さえも、もう、聞こえる前に、視えていた。

「止まれ、小僧!」

男の怒鳴り声が、俺の意識を、ようやく、現実に引き戻した。

短刀の切先が、四つ足の核に、触れる、寸前で。 俺の右手は、男の左手に、骨が軋む音とともに、掴まれていた。

血で滑る指の力は、信じられないほど強かった。腹を抉られた人間の力ではない。俺の手首の骨が、軋んで、止まる。短刀の切先が、四つ足の妖魔の額の、皮膚一枚手前で、震えながら停止した。刃先と皮の間の、その一枚にも満たない隙間に、男の荒い呼気が、白く割って入ってきた。

「……離して、ください」

俺の口から、自分でも知らない声が、出ていた。低くて、平らで、温度のない声。視界の黄金色の格子は、まだ、消えていなかった。四つ足の核の位置が、〇・〇五ミリの誤差まで、視えている。あと、半歩。半歩、踏み込めば、終わる。

「——その目で、その目のまま、三体目を刺すな」

男の血まみれの顔が、俺の真横にあった。瞳孔の左右の差は、さっきよりも開いている。それでも、視線の芯は、ぶれていない。掴まれた手首から、男の指の震えが、骨を伝って俺の肩まで上がってくる。腹を抉られた人間が、なお俺を止めるために絞り出している、その震えだった。

「初めての奴が、視たまま殺し切ると、戻ってこれなくなる」

戻ってこれない、という言葉の意味が、わからなかった。 わからない、ということだけが、なぜか、わかった。

四つ足の妖魔は、跳躍の体勢を、解いていた。後退りに、路地の奥へ、退いていく。連動を失った獣は、単独では、男にも、俺にも、もう、踏み込めなかった。

男の手が、俺の手首から、離れた。

俺の右手が、ようやく、下がった。短刀の切先が、アスファルトに、こつ、と触れた。 その音を聞いて、初めて、俺の膝が、笑った。

「——お前」

男が、腹を押さえ直しながら、息を吐いた。

「家に、帰すわけには、いかなくなった」

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