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観相眼の少年

第2話 第2話

第2話

第2話

俺の指先が、黒檀の柄に触れた瞬間、男の腹の血だまりの表面が、別の色で震えた。

青黒い油のような粘性が、真っ赤な血の中から湧き上がってくる。排水溝の蓋の隙間から、湿った息が一つ、吐かれた。鼻腔の奥に、金属でも鉄でもない、内臓を長く乾かしたあとの苦い臭気が差し込んできた。祖父の葬儀で嗅いだ血の匂いとは別種の——生きているものが発する、腐敗臭。

「下がれ」

男が、腹を押さえた手の下から呻いた。声に力はなかった。ただ、視線だけは俺の肩越しを刺している。

振り返った。

ブロック塀の角から、三つの影が滲み出していた。 人の形ではない。人の形を真似損ねた、濡れた紙細工のような輪郭。

一体目は四つ足で、肩の関節が逆を向いている。 二体目は人の背丈の倍ほどあり、頭部に顔の代わりに黒い円形の穴が一つ。 三体目は最も小さく、子供ほどの大きさで、腕が六本あった。

六本の腕は、それぞれ関節の数が異なっていた。三節のもの、五節のもの、数えきれないほど折り畳まれたもの。指先の代わりに、細い針状の突起が束になって揺れている。見ているだけで目の奥が痺れ、視線を逸らしたくなるのに、逸らせない。瞬きすら、忘れていた。

妖魔。家の書庫で、禁書扱いの挿絵でしか見たことがない存在。教科書の線画では、この油染みた臭気までは伝わってこない。胃液が喉まで競り上がって、俺は奥歯を噛んだ。舌の裏に、再び錆の味が戻ってくる。地下倉庫で一時間前に嗅いだ、あの味だ。

「……なんで、こんな所に」

口から零れた声は、自分のものとは思えなかった。住宅街の路地。結界も、封印も、何も施されていない、ただの生活動線。そこに、家格の者でなければ相手にしないはずの外道が、三体。

男が、血で滑る手で短刀を引き抜いた。

「——運が悪い。お前は、見なかった顔をして帰れ」

そう言った男の右腕が、刃を構える前に一度だけ痙攣した。

男は立ち上がろうとして、片膝をついたまま止まった。腹の傷が新しく血を押し出し、短刀の切先が微かに下がる。三体の妖魔は、その下がりを見逃さなかった。

六本腕の個体が、先に地を蹴った。

アスファルトを削る音——いや、削るのではない。踏んだ箇所の路面が、一瞬だけ黒く濡れて、また乾く。通った場所だけ、コンクリートの組成が変質している。霊圧で、ではなく、もっと物理的な何かで。

男の短刀が、横に薙いだ。

金属音ではなかった。湿った布を裂く音。小さな妖魔の腕の一本が、根元から千切れて路地の壁に貼り付いた。血の代わりに、黒い粘液が飛び散る。それが俺のスニーカーのつま先にかかり、化学繊維を焦がすように薄く煙を上げた。喉の奥に、プラスチックを焼いた後の、ざらついた刺激臭が突き刺さる。

「——っ」

下がろうとして、動けなかった。足の裏が、アスファルトに糊で貼り付けられたように張り付いている。膝が震えているのは自覚できる。だが、踵が持ち上がらない。

三体いる、のだ。 一体を捌いても、残りの二体が必ず男の背中か横に回る。兄の稽古を三年間観察してきた俺の、唯一の「視てきた」知識が、そう告げていた。対多数戦の基本は、囲みを作らせないこと。だが、男は腹を抉られている。横に動けば、傷が開く。

四つ足の個体が、身を低くした。

助走が、短い。肩の関節が逆向きに折り畳まれ、次の瞬間に真っ直ぐ伸びる。跳躍の予備動作——視えた、今、視た、と叫びそうになった口を、俺は自分の手で覆った。

妖魔が、飛んだ。 男の喉を、狙って。

短刀が、届かない。距離と角度が合わない。俺は視ている。視えている。視えているのに、体が、動かない。 祖父の死に顔を見た時と同じだ。 俺は、見ることしかできない。 容れ物。 家で呼ばれたその二文字が、頭蓋の内側で、何度も跳ね返った。

男が、片手で地面を叩いた。押された反動で、上半身だけを、僅かに捩る。短刀の刃筋が、一本、斜めに立ち上がる。喉を狙う妖魔の前足が、刃の軌道に差し掛かった——その瞬間、背後に回り込んでいた円形顔面の個体が、男の左肩から、黒い針のような触腕を伸ばした。

血が噴いた。 男の膝が、崩れた。

残り二体は、もう俺の方に、顔を向け始めていた。

六本腕の個体——腕の一本を失った個体——の残る五本の腕に、それぞれ、青白い光が灯る。 そこに並んだ光の粒の「配置」が、なぜか、俺には、珠のひと連なりに見えた。 ネックレスの、真珠。 死んだ母の遺品の箱にあった、一筋の、真珠の連なり。 ——連動している。 この五つの光は、一本の紐で、繋がっている。

思った、瞬間だった。

妖魔の五本の腕が、一斉に持ち上がった。

視界が、裏返った。

裏返る、というより、捲られた、に近かった。世界の表面を覆っていた薄皮が、瞬きひとつの間に剥がれ落ち、その下に隠されていた層が、剥き出しのまま、俺の網膜に直接押し付けられてくる。上下も、遠近も、一度ほどけて、組み直された。

言葉が追いつかない。瞼の裏で、何かが焼き切れた。鼻の奥に、甘い鉄の味が一瞬だけ差し込んで、鼓膜の奥で、遠い鐘の音が鳴った。

路地の壁が、線になった。

コンクリートの表面が、幾何学的な格子に分解される。空気に、透明な繊維が走っている。妖魔の体は——赤黒い血管の地図だった。心臓に当たる場所が、左胸ではなく、腹の第三腰椎の前にある。そこから枝分かれした術式の線が、六本腕の各指先、四つ足の各関節、円形顔面の内側へと伸びている。

各個体の「核」と思しき点が、黄色い光点として、網膜に直接焼き付いた。

三点。 三点の核が、視えた。

そして、核と核を繋ぐ、見えない三角形。三体は連動している。一体が殺されると、残りの二体に負荷が走る設計。術式の末端が、互いに絡み合っている。三位一体——単独の三体ではなく、一体の獣が三つの肉体に分かたれているに過ぎない。核の位置、線の太さ、光量の濃淡。そのすべてが、一つの呼吸に合わせて、同じリズムで明滅している。

俺の眼球が、熱かった。 涙ではなく、眼球そのものの温度が上がっていた。指で触れたら火傷する温度だと、なぜか、わかった。

「——っ、耀!」

男の声が、遠かった。水の膜越しに聞こえる。けれど、声に混じった動揺は聞き逃さなかった。 この男が、初めて、驚いた。

俺の喉から、ひどく低い音が出た。自分の声と思えない声だった。

四つ足の個体の跳躍軌道——線として視えた放物線の上、〇・三秒後の到達点。その真下に、俺の膝があった。

膝が、勝手に折れた。

正確には、膝を曲げる筋肉のうち、どれを動かせばいいかを、初めて、俺の脳が直接「視た」。観察者だった俺の目が、初めて、俺自身の身体の内側を覗き込んだ。大腿四頭筋、腓腹筋。それぞれに走る神経の線が、黄金色の糸として浮かび上がる。

俺は、しゃがんだ。 妖魔の前足が、頭上を空振りする。 風圧が、髪を巻き上げた。

顔を上げた。路地の天井に——ありもしないはずの天井に——空間の歪みの線が、黄金色の格子で張り渡されていた。

「……ああ」

俺の唇が、勝手に動いた。

これが、視える、ということか。 視える、というのは、こういう意味だったのか。

三年間、地下倉庫で、書架の影の長さを数え、兄の踵の〇・四秒の遅れを数え、家紋の朱色の歪みを数えてきた俺の目が——今、妖魔の術式を、同じ粒度で、数え始めている。

男の視線が、俺の顔を見ていた。 いや、俺の眼球を、見ていた。

「——金色、だな」

呟きが、やけに鮮明に耳に届いた。瞳孔の色を、この男は、知っている。俺の眼球が、今、金色であることを、いつか必ず来ると予期していたような口調で、告げている。

短刀の柄が、俺の視界の端で光った。 男が、血で濡れた柄を、俺に向かって、放った。

「——核を突け、小僧!」

短刀が、空中で回転する。柄の朱の組紐が、黄金色の線の一本として、俺の網膜に残像を刻む。

俺の右手が、無意識に伸びた。 指が、柄を掴んだ。 血の温度が、掌にあった。まだ、温かかった。

三体の妖魔の核が、三点の黄色い光として、俺の視界に配列されている。

一突きで、どう繋げる—— その問いが、俺の脳の中で、初めて、戦闘として組み上がった。

息を吸った。 地下倉庫の錆の味は、もう、舌になかった。

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