第1話
第1話
地下倉庫の湿気は、舌の裏に錆の味を残す。
古い札束の糊、焦げた霊符の炭、そして十二月なのに換気扇が回らない天井。氷室家本邸の地下三階、三百十二番書架の埃を、俺は今日も拭いている。和紙の背表紙に触れるたび、皮膚の薄い指先に微細な繊維が食い込んで、小さな痛点を作っていく。痛みは、俺が「居る」ことの唯一の証拠だった。
蛍光灯は三本のうち二本が死んでいる。生きている一本も、三秒に一度、瞬きをするように光量を落とす。その度に書架の影が長く伸びて、また縮む。影の伸縮に合わせて、自分の呼吸も浅くなっていくのがわかった。地下の空気には、人の居ない場所特有の重さがある。吸っても吸っても、肺の底まで届かない。
「空(から)、お前まだそんなとこにいたのか」
上から響いた声に顔を上げた。螺旋階段の踊り場に、兄の影が落ちている。氷室一絃(いっつる)。二十二歳、燈明(とうみょう)系統の術者。指先で蝋燭を灯せる程度には「視てもらえる」人間だ。
「整理、もう少しで終わります」
「別に急いでねえよ。ただ、父さんが夕餉に顔出すなって」
「……はい」
兄の靴音が遠ざかっていくのを、俺は数えた。踵の重さ、右足の爪先にわずかな庇い方。先週、稽古で左膝を痛めたのだろう。彼は自分で気づいていない。階段を一段上がるごとに、右の踵が〇・四秒遅れて着地する。それは三日前までなかった遅れだ。稽古場の畳に、兄の膝の形をした窪みが一つ増えていたのも俺は知っている。
俺は気づいていた。 俺だけが、気づいていた。
十六歳。退魔師の名門・氷室家の次男に生まれて、異能の発現がない。
兄の燈明、姉の水鏡(すいきょう)、従兄の蓮が纏う強化術式——家系の者は皆、十歳前後で「視える」側に立つ。式神を呼び、結界を張り、妖魔を斬る。俺だけが、その線の外側にいた。
家の者は俺を「空」と呼んだ。容れ物だけで、中身のない奴。
地下倉庫に押し込まれて三年。仕事は研究記録の分類と、霊符工房の雑用。人前に出すと家格に傷がつくからと、祖父の代から続く書架に埋もれて、俺はただ観察してきた。札の書き損じ、兄姉の稽古、父の来客、家紋の朱色に走る微細な歪み——視えなくても、視ることはできる。それだけが、俺に許された唯一の呼吸だった。
書架の奥から、古い研究日誌を引き出した。昭和四十七年、三代前の当主の筆。表紙の折り目に、赤黒い斑点がある。血のようにも、ただの染みのようにも見える。指の腹で撫でると、染みの縁にだけ盛り上がりがあった。凝固した何かが、和紙の繊維に吸い込まれる途中で止まっている。鼻先を近づけると、微かに甘い——古い鉄と、もう一つ、線香にも似た香りが残っていた。
ページを捲る指が、ふと止まる。
『氷室の血には、時として過剰観察者が生まれる。発現は遅く、場合によっては二十年に及ぶ——』
そこから先のページは、丁寧に切り取られていた。 刃物で、真っ直ぐに。
「……なんだよ、これ」
喉の奥で、声が掠れた。誰かが、俺の前に、何かを隠した。ページの断面に指を滑らせると、切断面が新しい。せいぜい半年、いや、もっと最近。切り口の繊維はまだ毛羽立っておらず、湿度で反り返る前の、硬い角を保っていた。三ヶ月以内だ、と直感が告げる。俺がこの書架を担当し始めてからの期間と、ちょうど重なる。
過剰観察者。その四文字が、網膜の奥で点滅した。視えない俺が、ではなく、視すぎる誰か——そんな血が、この家に流れていたのか。切り取られたページの向こう側に何が書かれていたのか、想像しようとして、頭の奥が鈍く痺れた。
指先で、切り取られた断面をもう一度撫でた。和紙の繊維が、俺の体温を少しずつ吸い取っていく。二十年に及ぶ発現。俺は今、十六歳。もし、これが俺のことなら。三年間、自分を「容れ物」と呼び続けてきた輪郭が、足元から音もなく崩れていく錯覚があった。歓びでもなく、絶望でもない。ただ、胸の奥の、今まで気づいてこなかった場所に、冷たい空気が一筋だけ通った。ページを切ったのは、誰だ。兄ではない。兄は俺を憐れんでも、俺の存在を塗り潰すほどの熱意は持たない。姉でもない。では——父か。祖父の代から続く何かを、父は引き継いで、俺の前から消したのか。指先が、勝手に震えた。
「耀!」
踊り場から姉の声が降ってきた。氷室凛(りん)。水鏡の術者、二十歳。
「買い出し、お前行きなさい。札の原紙が切れてるの」
「……今からですか」
「日が暮れる前に戻れ。お前の姿が家にあると、客人の機嫌が悪くなる」
日誌を書架に戻した。切り取られたページのことは、後で確かめる。背表紙の位置を指一本分だけ奥にずらしておく。戻された形跡を、俺以外の誰かが確認しに来るかどうかを、後で見るためだ。俺は雑用袋を肩にかけ、地上への階段を登り始めた。
扉を開けた瞬間、冷えた外気が肺に流れ込んで、地下の湿気を一気に洗い流した。十二月の空は、鉛色だった。吐く息が白く、喉の奥がきりりと痛む。三年間、この「外」の温度に触れる機会はせいぜい週に二度しかなかった。だからこそ俺は、外気の匂いの微差にだけは敏感だ。今日の風には、焼き芋の煙にも、雪の予感にも似た、湿った鉱物の匂いが混じっていた。
原紙の仕入れ先は池袋の手前、雑司ヶ谷の裏道にある老舗だ。電車を乗り継いで、徒歩十五分。いつもの道、いつもの時刻。
駅を降りて、住宅街を抜ける路地に入ったとき、俺の足が勝手に止まった。
鉄の匂い。
視覚より先に、鼻が気づいた。工事現場の鉄骨とは違う。もっと粘性のある、温度のある鉄——血の匂いだ。二年前、祖父の遺体を清めた時、同じ匂いを嗅いだ。
路地の突き当たり、古いブロック塀の裏手。 黒い塊が倒れていた。
黒衣。襟の立った、丈の長いコート。男だ。二十代後半か、三十代前半。仰向けで、右手で腹を押さえている。指の隙間から、コンクリートに向かって血が一本の筋を描いている。その筋が、排水溝の金属蓋に触れて、ゆるく広がり始めていた。
血の温度が、湿った路地の冷気と触れて、薄い湯気を立ち上らせている。まだ新しい。数分、せいぜい十数分前。俺の踵が、アスファルトに張り付いたように動かなくなった。鼻の奥に、二年前の仏間の記憶が一瞬だけ甦る。祖父の、もう動かない胸の形。その時とは違う、違うはずなのに、肺の奥の動きが同じ速度で止まろうとしていた。
「……っ」
俺は一歩、後退した。携帯を取り出そうとして、指が震えた。通報。まず通報だ。救急車、警察、氷室の緊急連絡——思考が三つに割れた瞬間、男の唇が動いた。
「名前を言え」
脳の奥を、低い声が滑った。 倒れた男は、まだ意識があった。薄く開いた目が、俺を真っ直ぐに射抜いている。
「氷……」
「家の名は言うな。お前個人の名前だ」
血の通った声ではなかった。乾いて、刃物の背で撫でるような声。
「……耀、です。氷室耀」
男の唇が、わずかに動いた。嗤ったのか、痛みに歪んだのか、判別できない。瞳孔は左右で微妙に大きさが違った。右が開きすぎている。脳のどこかが、今、腫れている——そんな医学書の一節が、脈絡もなく頭をよぎった。それなのに、男の視線の芯だけは全くぶれない。
「視えるな、お前」
心臓が跳ねた。 爪が掌に食い込むのを感じた。この男は——初対面の男は、なぜそれを言う。俺の家族でさえ、俺を「視えない」と断じているのに。
「な、なんで——」
「お前の目の動き。俺の傷口より、俺の指の位置より、壁の影の勾配を先に数えた。視えてる奴の目だ」
指摘は、冷たい水を背骨に直接流し込まれたような感触だった。俺は、いつから息を止めていたのか、自分でもわからない。男の視線は、俺の目の奥を覗き込むように据えられていて、そこから逸らすことが許されていないのがわかった。掌の汗が、指の股から一筋、冷えたコンクリートの上に落ちた。
男は腹を押さえたまま、わずかに首を持ち上げた。背中の内ポケットから、布に巻かれた短刀の柄が覗いている。黒檀の柄に、古い朱の組紐。組紐の結び目は、氷室の家紋でも、俺の知るどの流派のものでもなかった。だが、結び方の癖に、妙な既視感がある。あの、切り取られた日誌の——和紙の繊維の毛羽立ち方と、同じ「硬さ」が、紐の角にあった。
「耀。一つだけ、言っておく」
男の視線が、俺の背後の路地の奥へ、ゆっくりと流れた。俺の肩甲骨が、冷たい手で撫でられたように粟立った。路地には、俺以外誰もいない。いないはずだった。だが、アスファルトに落ちた俺の影の輪郭が、ほんの一瞬、二重にぶれたように見えた。
「お前を視ているのは——お前の方だ」
背後で、排水溝の水音でも、風の音でもない、「呼吸に似た何か」が、確かに震えた。
俺の指が、ひとりでに、黒檀の柄に伸びた。