第3話
第3話
長い腕が、空気を裂いた。 その軌道は、俺の頭頂を、確かに、狙っていた。
体が、動かなかった。膝が、岩肌に、貼り付いた。一円玉を握った指の、第二関節だけが、震えていた。鈴木の泣き声が、耳の裏側で、薄く遠ざかった。 俺の視界に、赤い光が、横から、割り込んだ。
蓮華が、俺と鬼面の間に、滑り込んでいた。
彼女の左腕が、俺の頭の上で、振り上げられていた。掌から、炎が、半球状に、膨れていた。袖口の絆創膏が、ついに焼け落ちた。下から現れた皮膚は、白いはずなのに、すでに赤い血管が、内側から透けて見えていた。彼女は、振り下ろされる長い腕を、左の前腕で、受けた。
骨の音は、しなかった。 代わりに、もっと低い、湿った、咀嚼の音が、した。
鬼面の腕の先端は、爪ではなかった。三つ目の関節から先が、口だった。歯のない、円形の口が、蓮華の左の前腕に、噛み付いた。ブレザーの袖が、ぐしゃりと、内側へ吸い込まれた。蓮華の喉から、声にならない息が、ひゅう、と、漏れた。彼女は、それでも、右の掌を、鬼面の額に、押し付けた。
「玲」 彼女の声は、俺の名前を、呼んだ。 「下がって」
赤い光が、鬼面の額で、爆ぜた。
爆発の風圧が、俺の前髪を、後ろに、一斉に流した。鬼面の上半身が、黒い霧に、戻った。けれど、咥えた左腕は、放さなかった。蓮華の左肘の少し下、橈骨と尺骨が交差する、あの細い辺りが、ぶつ、と、低い音を立てて、ちぎれた。
肘から先が、無くなった。
血は、すぐには出なかった。一拍、置いて、噴いた。彼女の制服のスカートに、点々と、紅い線が、引かれた。蓮華は、倒れなかった。膝を、折らなかった。ただ、左肩を、深く、下げた。下げて、彼女は、俺を、振り返らずに、笑った。横顔の口角だけが、上がった。それは、俺が小学校三年の運動会で、泥のついた俺の手を握った時の、あの、笑い方だった。
「ごめん、ちょっと、不格好」
俺の喉から、出たのは、言葉ではなかった。 息でもなかった。 体の、一番奥にしまっていた、何か、だった。
指先が、燃えた。
熱ではなかった。冷たい。指の腹から、爪の先まで、薄い氷を一枚ずつ貼られていくような、鋭い冷たさが、皮膚の下を走った。冷たさは、指の関節を、一つずつ、数え上げるように、進んだ。第一関節、第二関節、第三関節。数え終えた瞬間、骨の、芯のもう一段、奥に、何かが、点いた。マッチを、水の中で、無理やり擦ったような、矛盾した、火花だった。火花は、消えなかった。消えずに、十本の指の根元で、同時に、燃え続けた。一円玉が、握っていた掌の中で、ぱき、と、割れた。アルミニウムが、内側から、黒い線に、縫われていた。線は、糸だった。漆黒の、髪の毛より細い糸が、俺の十本の指先から、噴き出していた。糸は、最初、指紋の溝を、なぞるように、出てきた。渦を、ほどくように、ゆっくりと、外へ、繰り出された。皮膚は、痛まなかった。痛む代わりに、指の腹が、自分のものではない、誰かの、知らない指紋に、書き換えられていく、奇妙な、感覚が、あった。
糸は、空気を、縫っていた。
縫われた空気は、視覚的に歪んだ。新宿駅東口で、渦の縁の空気が縒れて見えたのと、逆方向の現象だった。あの時、空気は黒い点に吸い込まれた。今、俺の指先で、空気は、糸に、縫合されていた。糸の通った跡は、薄い、銀色の縫い目になって、空中に、残った。縫い目は、消えなかった。風が吹いても、苔の匂いが流れても、その銀色の線だけは、空中に、刺さったまま、残り続けた。俺は、その縫い目を、指の延長のように、感じた。皮膚の続きが、空気の中まで、伸びている、そんな感覚だった。指を、ほんの一ミリ、動かしただけで、十メートル先の銀色の線が、同じ幅、同じ角度で、震えた。
鬼面が、こちらを、見た。 三体、同時に。
俺は、立ち上がった。膝の関節が、いつの間にか、震えを、止めていた。一円玉の割れた半分が、左の掌から、零れた。落ちる前に、糸が、それを、絡め取った。
「蓮華を」 喉の奥で、声が、出た。 「触るな」
十本の指の糸が、伸びた。射程は、俺の意思に、一拍遅れて、追従した。三十センチ。一メートル。三メートル。十メートル。糸は、まず、蓮華の左腕を咥えた鬼面の、首と思しき部分を、横に一本、縫った。次の糸が、その縫い目の上に、縦の十字を、刺した。三本目、四本目、五本目。糸が、鬼面の輪郭を、空間ごと、囲った。
縫い終えた瞬間、俺は、握りこぶしを、引いた。
絞り袋を、絞った。 鬼面と、その周囲の空気と、岩肌の一部が、糸の十字の縫い目の中で、内側へ、ぐしゃ、と、潰れた。咥えていた蓮華の左腕は、糸が、解いて、苔の上に、置いた。鬼面の本体は、トランプのカードを丸めたような体積に、圧縮された。圧縮されたものは、地面に、落ちて、それきり、動かなかった。
二体目の鬼面が、跳んだ。 三体目が、横から、俺の側面に、回り込んだ。
俺の指は、もう、動いていた。考える前に、糸は、空中に、罠を張っていた。蜘蛛の巣ではなかった。もっと、鋭い、直線の網。二体目が網に飛び込んだ瞬間、俺は、左手の親指を、軽く、握った。網の交点が、すべて、内側に、引かれた。二体目の鬼面の輪郭が、点滅して、消えた。三体目は、俺の側面、二メートルの位置で、長い腕を、振り上げた。
俺は、振り返らなかった。 振り返らずに、右手の小指を、後ろに、弾いた。
小指から伸びた一本の糸が、三体目の鬼面の、面の中央を、貫いた。糸は、面の裏側まで、抜けた。抜けた先で、糸は、結び目を作った。結び目が、鬼面の頭部を、内側から、外側へ、裏返した。鬼面は、自分の首から上を、自分で、脱いだ姿勢で、苔の上に、崩れた。
赤黒い暗がりが、上で、震えた。 震えは、笑い声の、形を、していた。
俺は、息を、吸った。吸った息が、肺の奥で、ざらついた。鉄錆の味が、舌の上で、熱を持っていた。指先の冷たさが、肘まで、上がってきていた。糸は、まだ、止まらなかった。指の腹から、勝手に、噴き続けていた。岩肌の上の苔を、糸が、薄く縫い上げ、岩そのものが、苔を、内側に、抱え込み始めた。
「玲」 蓮華が、俺の名前を、もう一度、呼んだ。 左腕が、無かった。右手で、左の肩の、千切れた断面を、押さえていた。指の隙間から、血が、糸を引いて、垂れていた。彼女は、それでも、立っていた。俺の方へ、一歩、踏み出した。
「玲、止めて、あんた、自分の、手」
見た。 左の掌が、銀色の縫い目に、半分、覆われていた。手首から先が、自分の出した糸に、縫い込まれ始めていた。
頭の奥で、機械の警告音に似た音が、鳴った。能力者育成校で年に一度受ける判定検査、あの時の判定盤と同じ周波数の音だった。脳の内側に、誰かが、計測器を、突っ込んでいた。判定値、D-、出力、〇・三。その数字が、俺の脳裏で、上から下へ、滝のように、流れた。〇・三。一・〇。八・五。四十二。三百。四桁。五桁。判定盤は、俺の出力を、測りきれなかった。
頭の中で、ガラスが、割れる音がした。 判定盤が、砕けた。 代わりに表示された四文字が、瞼の裏に、焼きついた。
——測定不能。
膝が、笑った。 視界の上半分が、白く、抜けた。
蓮華の右手が、俺の右の頬に、触れた。彼女の指は、血で、ぬるついていた。けれど、温かかった。俺は、その温かさを、最後の、岸として、掴もうとした。指は、もう、糸を、出していなかった。出ていない代わりに、銀色の縫い目に、内側から、引かれていた。
「ごめん、蓮華」 俺は、彼女の頬の血を、自分の頬で、受けながら、言った。 「ごめん、おそく、なった」
蓮華が、何か、言った。 その声は、もう、俺の耳の鼓膜まで、届かなかった。
赤黒い暗がりの、もっと、深い、底から、足音が、聞こえてきた。鬼面ではない、もっと、大きな、何かの。岩肌の朱い柱が、足音のリズムに合わせて、震えた。鈴木の泣き声が、止んでいた。スーツの女の血溜まりに、糸の縫い目が、銀色に、走り始めていた。
俺の意識は、その足音の、二歩目で、途切れた。 最後に視界に映ったのは、蓮華の左肩の、千切れた断面と、彼女の、それでも笑おうとした、口角の、ほんの少しの、上がり方だった。