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縫製者(テイラー)——最弱の糸

第2話 第2話

第2話

第2話

アスファルトの欠片が、頬を掠めた。 鉄の味。切れた内唇から、血が染み出している。

蓮華の指が、俺の制服の二の腕を掴んでいた。爪が、ブレザーの生地を突き抜けて、皮膚に食い込んでいる。彼女の袖口の絆創膏が、赤い光を帯びて発火寸前の温度まで上がっていた。信号機のランプが、もう一度、一斉に明滅した。タクシーがクラクションを鳴らしたまま、ドライバーはハンドルから手を離していた。ルミネエストの前、歩道のタイル——「みずほ銀行新宿東口支店」の看板が、視界の端で斜めに傾いた。

「蓮華」 「喋らないで。舌噛む」

渦の縁は、もう、俺の靴先から一メートルもなかった。縁のギザギザは、カッターで切り取られた紙のようで、その下は、底が見えない、純粋な黒。路面が、どくん、と脈打った。 地面が、息をしていた。

背後で、誰かが叫んだ。「逃げろ」という言葉ですらなかった、ただの、動物の悲鳴。新宿駅東口の雑踏が、一瞬で、意味を剥がれた塊になった。スーツの女が手に持ったアイスコーヒーを投げ捨てて走り、中国語観光客が両手でスマホを構えたまま固まり、小学生が母親のコートの裾に顔を埋めた。俺のブレザーの裾が、風ではない何かに、吸い込まれるように引かれた。

「走れって言ったでしょ!」 蓮華が、俺を、渦とは反対方向へ、引いた。

その一歩目で、アスファルトが、崩れた。

前触れなど、なかった。俺たちの立っていたタイル三枚分が、下向きに消えた。足の裏の感覚が、ふっ、と抜けた。胃が、喉のすぐ下まで持ち上がった。蓮華の指の爪が、俺の皮膚から離れた。ブレザーの肩口が、誰かの体にぶつかった。誰か、じゃない。悲鳴が、近い。クラスメイトの声だった。同じ下校ルートで、いつも二駅先まで帰る、鈴木。

落下、していた。

光が、細くなっていく。直径五メートルの円形に切り取られた、四月の空。 その縁を、黒い糸のような縒れが、じわじわ閉じていった。

落ちながら、視界の端を、色々なものが、一緒に落ちていった。スーツの女のハンドバッグ、中の化粧品が蓋を開けて、空中に粉を散らした。小学生のランドセルのカバーが、剥がれて、羽のようにひらひらと舞った。タクシーの運転手の帽子。千円札が、二枚、三枚、ゆっくりと回転しながら、俺の顔の横を通り過ぎた。重力の方向が、一定ではなかった。落下、ではなく、引きずり込まれる、という感触のほうが近かった。喉の奥で、耳抜きに似た痛みが、二度、走った。誰かの携帯電話が、近くで鳴っていた。着信音は、アニメの主題歌で、サビの、一番明るいところで、途切れた。

どれくらい落ちたか、分からない。二秒か、五秒か、もしかしたら三十秒。時間の感覚が、薄い膜を張った。耳の内側で、気圧が二回、変わった。 落ちた先は、柔らかかった。

背中が、何か、湿った苔のようなものの上に落ちた。衝撃が、尾骨から脊椎を伝って、奥歯の奥まで抜けた。肺の空気が、全部、一度に吐き出されて、次の吸気が、ひゅう、と笛の音になった。

目を、開けた。

天井は、なかった。 空の代わりに、赤黒い、無限の暗がりが、上に広がっていた。そこに、星のような光点がいくつか散らばっていたけれど、星座ではなかった。不規則で、脈打っていて、見るたびに位置を変えていた。地面は、湿った岩肌と、苔と、折れた柱のようなもの——神社の鳥居を半分に割ったような、朱い柱——が等間隔で立っていた。新宿駅東口の歩道タイルが、三枚、岩肌の上に割れて散らばっていた。鈴木の通学鞄が、俺の膝の横で、口を開けていた。中から、物理の教科書と、封を切っていないエナジーバーと、昨日彼が塾の自習室で配っていたプリントの束が、零れていた。プリントの一枚が、俺の膝の上に、貼り付いた。解答欄の、鈴木の丸っこい字が、湿気で、滲み始めていた。

「——蓮華」 声が、喉の奥で擦れた。 「蓮華!」

「……ここ」 二メートル離れた岩陰から、返事があった。蓮華が、膝立ちになって、周囲を見渡していた。無傷だった。袖口の絆創膏は、今、赤い光ではなく、赤い炎そのものを、指先に帯びていた。絆創膏の端が、ちりちりと黒く焦げていく。それでも剥がれない。まるで、肉に縫い付けられているかのように、彼女の手首に張り付いていた。彼女の横顔は、教室で見慣れたあの冷たい美しさのまま、けれど瞳の奥だけが、俺の知らない温度で、燃えていた。

落ちてきた人間は、十数人。スーツの女、観光客、小学生、鈴木、タクシーの運転手。俺が数えている間に、誰かが、地面に膝をついて、吐いた。嘔吐の音に、別の誰かの嗚咽が重なった。小学生が、母親の名前を、途切れ途切れに呼んでいた。その母親は、落ちてこなかった。

そして、匂いが、した。

焦げた金属の匂いは、消えていた。代わりに、あの、沈む前の新宿で俺が嗅いだ、電車のブレーキの匂いの、もっと深い層にある何か。生臭い。古い血の、乾いた端の匂い。息を吸うたびに、喉の粘膜が、ざらりと削れた。舌の奥に、鉄錆と、腐った果実と、線香の煙を薄めたような、三つの味が、順番に乗った。胃の底が、勝手に収縮した。

朱い柱の向こうで、何かが、笑った。

笑い声ではなかった。音として、笑いの形をしていた、というだけだ。人間の喉では作れない周波数。空気が、その音の分だけ、歪んで見えた。蓮華の指先の炎が、音のした方へ、びくりと、大きく揺れた。

柱の陰から、白いものが、ぬう、と出てきた。

鬼の、面だった。 能面の般若ではなく、もっと古い、素朴な造形の鬼面。それが、人間の頭ほどの大きさで、人間ではないものの頭部に、張りついていた。首から下は、焼け焦げた着物を纏ったような、黒い霧。手だけが、異様に長くて、関節が三つあった。面の眉のあたりに、古い墨で書かれたような呪字が、ぽつりぽつりと、滲んでいた。俺たちを見つけた瞬間、その呪字が、赤い光に、切り替わった。

鬼面の眷属、と脳のどこかで、ニュース映像の単語が反射した。対異層庁が第二階層以降で討伐する、下級種。第一階層には出現しない、はずの、もの。

蓮華が、前に出た。 「下がって! 全員、柱の陰に!」

その声で、落ちてきた人間たちが、やっと、動いた。鈴木が、俺の方へ、這って近づいてきた。彼の膝が、苔を滑った。彼の顔は、泥で半分汚れていて、眼鏡の片方のレンズが割れていた。割れたレンズの向こうで、彼の瞳孔が、針の先ほどに、縮んでいた。

「霧島、何、これ、何が——」 「黙ってろ」 俺は、鈴木の襟首を掴んで、朱い柱の陰に、押し込んだ。彼の首筋が、汗で濡れていた。ブレザーの背中で、何かが、小刻みに震えている。指か、歯か、両方か。

鬼面が、動いた。 長い腕が、鞭のように振られた。速度は、目で追えなかった。ただ、空気が裂ける、低い音だけが、後から届いた。

蓮華の炎が、腕を、弾いた。

ぱあん、と、濡れた布を叩いたような音が、岩肌に反響した。弾かれた腕の先から、黒い霧が、ぼろぼろと零れた。霧は、落ちた先の苔を、じゅう、と焦がした。蓮華の息は、乱れていなかった。ただ、一度だけ、歯を噛み締めたのが、頬の線で、分かった。

「玲、あっちの、岩の裏に、スーツの女と子どもを連れていって。私が、引きつける」 「お前、一人で——」 「一人じゃ、ない。ここ、たぶん、第一階層の入口。対異層庁が、来る。それまで」

蓮華の背中が、炎を纏って、前に進んだ。ブレザーの肩が、赤い光で縁取られて、いつも教室で見ていた学年首席の姿と、重ならなかった。髪の毛の先が、炎に煽られて、逆立っていた。俺は、そのとき初めて、彼女の首筋に、古い火傷の痕が、一筋、走っているのに気づいた。袖口の絆創膏から続く、細い、けれど深い、赤い線。

二体目の鬼面が、別の柱の陰から、出てきた。 三体目が、上の、赤黒い暗がりから、降ってきた。

スーツの女が、悲鳴を上げた。その悲鳴が、途中で、途切れた。鬼面の長い腕が、女の胴体を、横に薙いでいた。血が、苔の上に、線を引いた。

「蓮華!」 俺は、叫んだ。

俺の指先は、ブレザーの内ポケットの、一円玉を、握りしめていた。握りしめすぎて、縁の凹凸が、皮膚に、刻印を残していた。判定値D-。廃ビル屋上、二センチ、秒数四。今、俺の前で、人間が、壊されていた。一円玉の冷たさが、掌の汗に溶けて、ぬるくなっていた。この一円玉で、俺は何ができる。二センチ浮かせて、四秒。女の命の、どこにも、届かない。届かない、という事実が、喉の奥を、鉄の味で塞いだ。

鬼面が、こちらに、向き直った。 鈴木が、俺の背中の後ろで、泣いていた。

長い腕が、振り上げられた。その先端が、俺と、蓮華の、間の空間を、狙っていた。

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