第1話
第1話
一円玉の縁が、薬指の第二関節にかすかに触れた。 重さで言えば一グラム。だが今の俺にとっては、鉄の塊より遠い。
西新宿二丁目の廃ビル屋上、給水塔の影。四月の風はまだ冷たくて、制服のブレザーの肩口から体温を持っていく。コンクリートの床には去年の桜の花びらが黒く腐って貼りついていて、踏むたびに革靴の底がぬちゃりと鳴る。指先に意識を集める。霊力——この国では「能力値」と呼ばれるもの——を、米粒一つ分だけ。それ以上出そうとすると、俺の神経はすぐに音を上げる。
一円玉が、宙に浮いた。 二センチ。 秒数、四。
五秒目に指先が痙攣して、一円玉はコンクリートに跳ねて甲高い音を立てた。
「……ち」
奥歯の奥で舌打ちをして、俺はしゃがみ込んで拾う。爪の先に貼りついた砂を、ブレザーの裾で拭う。これを、もう三年やっている。
俺の名前は霧島玲。私立鳳凰学園高等部二年、判定値D-。全校三百十二人中、下から四番目。教師からの呼び名は「掃除当番」。能力者育成の名門校で、雑巾担当に押しつけられる程度の存在、という意味だ。鳳凰学園の卒業生は、大企業の警備部門や対異層庁の第一課に進む。俺の進路は、たぶん、ない。
スマホの通知音が鳴った。 画面を見るまでもなく、反射で指が動く。画像だ。教室で撮られた、今日の俺。黒板の前でチョークを落として拾おうとした瞬間、誰かが足を引っかけて転んだ、そのコマ。キャプションは「D-の掃除当番、教壇でも掃除」。いいねが三十二、もう少しで爆発する。アカウント名は知っている。隣の席の男だ。判定値B+、風の能力者で、廊下でスカートめくりをしても教師に笑って済まされる種類の人間。動画の中の俺は、屈んだ瞬間にブレザーの裾を誰かの爪先に踏まれていて、映像は八秒で切り取られ、転倒の前後だけがスローモーションでループしていた。誰かが笑い声の効果音を重ね、別の誰かが赤い矢印でチョークの軌跡を描き足している。ハッシュタグは、うちのクラスでしか通じない内輪のもの。見られているのに、見られていることを認めた瞬間に負ける、そういう設計の悪意だった。
俺は通知をオフにして、スマホをポケットに戻した。
「玲」
声がして、振り返る。 氷室蓮華が、給水塔の裏から現れた。 判定値A+、学年首席、炎の使い手。背が高くて、ブレザーの上からでも姿勢の良さが分かる。彼女は片手に、コンビニの袋を提げていた。
「また、ここにいたんだ」 「……ああ」 「お昼、食べてないでしょ」
袋の中から、おにぎりが二つ差し出される。鮭と、梅。俺が好きなやつだ。蓮華は、どうしてかそれを知っている。袋を開いた口から、海苔のかすかに湿った匂いと、まだ温もりを失っていない米の匂いが立ち昇る。握られてから三十分も経っていない。蓮華の指先は袖口から少しだけ覗いていて、そこには小さな絆創膏が巻かれていた。訓練場で誰かの炎を受け止めたのだろう。聞かなくても分かる。彼女は、自分の怪我の話を、決してしない。
「いらない」と言う代わりに、俺は受け取った。受け取らないと、蓮華はずっと立っているから。
「ありがとう」 「いいよ。三年の先輩が差し入れてくれたやつのお裾分け」
嘘だ。包装のシールが今朝のコンビニのもので、袋の底のレシートには二つ分の代金が印字されている。俺はそれを畳んで、ブレザーの内ポケットに入れた。
蓮華は、俺を庇う。 五歳からの幼馴染で、俺の母がまだ介護施設に入っていなかった頃、家族ぐるみで飯を食った時期がある。俺の能力値が伸びなかった頃、蓮華だけは俺を笑わなかった。小学校三年の運動会、俺だけが綱引きで綱を引けずに尻餅をついた時、蓮華は観覧席から駆け下りてきて、泥のついた俺の手を握った。あの手の小ささと、指の熱さだけは、今でも体のどこかに、消えないで残っている。 ただ、蓮華が俺を庇うほど、俺はクラスで「A+に守られている哀れなD-」になる。それが、三年続いている。
「訓練、まだ続けてるんだ」 「やめたら、もっと下に落ちる」
蓮華は、何か言いかけて、やめた。言われなくても知っている。D-がこれ以上何を積み上げても、A+の世界には届かない。それが能力者社会の階層であり、物理法則に近い。
それでも、俺は一円玉を浮かせる。理由は一つだ。
スマホをもう一度取り出す。LINEのトーク画面、一番上の未読は「青葉の園介護施設」。件名は「四月分ご利用料金のお支払いについて」。本文は読まなくても分かる。文面は担当ケアマネージャーからの事務的な書式で、語尾だけが、気遣いの余韻で湿っていた。「ご事情は承知しておりますが」——その接続詞が、俺の肋骨の内側を、ゆっくり削っていく。滞納は二ヶ月目に入っていて、来月までに支払わなければ、母は退所になる。家賃も、二ヶ月遅れている。大家は先週、ドアをノックした。
「強くなれば、母さんを楽にできる」 父が死んだ夜に、俺が母に言った言葉だ。能力者というのは、条件が揃えば、時給換算で普通のバイトの十倍を稼ぐ。俺にその条件が揃う日は、たぶん来ない。それでも訓練をやめたら、言葉を裏切る気がして、やめられない。
「帰ろう」 蓮華が、袋を丸めて言った。 「日が暮れる」
俺は一円玉をポケットに戻して、立ち上がった。膝の裏の関節が、冷えで軋んだ。
廃ビルを出て、大ガード下を歩く。新宿駅東口までは、徒歩で十二分。蓮華と並んで、夕方の雑踏に混じる。ルミネエストの前、信号待ち。空気が、少し変だった。
嗅覚から先に気づく。焦げた金属の匂い。電車の車輪がブレーキをかけた時の、あの鼻の奥に刺さる匂いが、今、地下から上がってきている。
「蓮華」 「うん。——分かる?」 「分かる」
蓮華の指先が、ブレザーの袖口で赤く光った。炎の能力者が無意識に備えた、着火前の兆候。信号が青に変わる。人の波が、横断歩道を渡り始める。その瞬間、足の裏から、低い振動が来た。電車じゃない。新宿駅の地下には、JR、丸ノ内線、大江戸線、幾つもの線路が走っているけれど、この揺れは、それらのどれとも違う。深い。もっと深い。
「玲、下がれ」 蓮華の声が、鋭くなった。
アルタ前のスクリーンが、ノイズを走らせた。通行人がスマホのカメラを空に向けた。カラスが、ビルの屋上から一斉に飛び立った。俺の靴底の下で、アスファルトが、一度、跳ねた。その跳ね方は、車の衝突でも、工事の振動でもなかった。地面が、生きているものに内側から噛まれたような、奇妙な反発だった。周囲の信号機のランプが、一瞬、すべて同時に明滅した。歩道橋の上で、赤ん坊を抱いた母親が足を止めた。タクシーの運転手がハンドルを握ったまま、フロントガラスの向こうを凝視していた。
直径にして二メートルほどの範囲、路面が十センチ、下に沈んだ。誰かが悲鳴を上げた。次の瞬間、その範囲の中心から、一円玉大の黒い点が、空気を、吸った。
空気が、そこに、吸い込まれていくのが、見えた。黒い点が、手のひらの大きさに広がった。見えるはずのないものが、見えていた。空気には色があって、その色が、黒い点に向かって、細い糸のように縒れていく。音が、一瞬、消えた。雑踏のざわめきも、車のクラクションも、蓮華の息遣いも。鼓膜の内側だけが、深海のように、しんと鳴った。その静けさの底で、自分の心臓の音だけが、他人のもののように大きく聞こえた。
「彼岸門」 蓮華が、呟いた。 俺は、その単語を、ニュースでしか聞いたことがない。未踏のダンジョンが新規出現した時、対異層庁がつける仮コード。彼岸。こちらから向こうへ、人が戻ってこない側。
黒い点が、一メートルに広がった。俺は、ブレザーの内ポケットから、先ほどの一円玉を、無意識に握っていた。スマホが震えた。母の施設からの、着信。
十センチ沈んだアスファルトが、さらに一メートル、地中へ落ちた。 新宿駅東口、午後三時十二分。黒い渦の縁が、横断歩道の白線を、内側から喰い始めた。
「玲、走れ!」 蓮華が俺の腕を掴んだ。
俺は、スマホを握ったまま、一歩、後ろに下がった。画面には、母の施設の名前。二ヶ月、滞納していた。振動が、靴底を駆け上がってきた。膝が、勝手に、渦の方へ、傾いた。ブレザーの裾が、風ではない何かに、引かれた。
判定値D-の俺の指先で、一円玉が、今まで一度も浮いたことのない高さまで、静かに、浮き上がっていた。