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観察者の縛りプレイ

第2話 第2話

第2話

第2話

──発動条件:同種モンスター連続観察百体以上。かつ、観察対象および同種個体に対し、観察者自身が一度もダメージ加算を行っていないこと。

文字を最後まで追って、俺は息を吐いた。鼻からゆっくり、四拍かけて。吐ききった胸の奥で、半年ぶんの澱がざらりと裏返る。

馬鹿げている、と思う。声に出して言いたいくらい、馬鹿げている。

これは、俺がやってきたことだ。攻撃スキルを取らなかったこと。装備を全部売って布の腰布になったこと。同じスライムを百体、二百体と眺めて、跳躍前傾の0.01秒を書き取り続けたこと。誰一人として褒めなかったし、見ようともしなかった。むしろ笑われた。「鑑定士()」の括弧の中身まで、声色で発音された。あの行為がシステムの奥のどこかでひとつの数字としてカウントされていた、と知っているのは、たぶん、いま、この谷で、俺ひとりだ。

緑スライムの輪郭に貼り付いた数字は、まだ消えていない。残HP12/40。次行動まで0.83秒。跳躍CD2.41秒。視界に表示されているのではない。視るより先に、頭蓋の内側にぽろりと落ちてくる。落ちた数字は、紙に書いたものより滑らかで、輪郭が乾いていない。

ノートを閉じる音が、思ったより大きく谷に響いた。

調査棒の握りを直す。軸の木目が、半年使い込んだぶんだけ手のひらに馴染んで、わずかに凹んでいる。これが俺の唯一の「武器」だ。攻撃力ゼロ、付与効果ゼロ。用途は敵のコアを軽く突いて素材判定を発生させるだけ。攻撃ボタンを押しても、エフェクトすら出ない。出ないのが仕様で、出ないから、俺は誰のターゲットにもならない。

──「鑑定士」を選んだのは半年前、本戦の翌週だった。

格好をつけてそう書くと、復讐譚の冒頭みたいに聞こえる。本当はもう少し惨めだ。

本戦の中央ステージで六十秒で焼かれた翌日、俺はゲームを起動できなかった。ゴーグルを被ろうとして、ベルトを留める指がうまく動かなかった。指の力が抜けるのではない。指が指を信じなくなる感覚だ。あれは初めてだった。三日後にようやくログインして、最初にやったのは装備の全売却だった。本戦用に組んだ火力ビルド、課金で揃えた赤い篭手、リアル一年ぶんの夜更かしで掘った炎付与の刺突剣。全部、相場の半額で叩き売った。装備窓が空になった瞬間、画面の中の俺は布の下着姿で、間抜けな腰布の柄をしていた。

その夜、俺は転職NPCの前にいた。

「ご職業の変更でございますね。現在のジョブは火槍士──ああ、上位職『紅閃』をお持ちで」

「リセットで」

「リセットしますと、ジョブ熟練度は完全に消去されます。再取得には三ヶ月以上の──」

「いい」

「次の職業はいかがいたしましょう」

「鑑定士」

NPCが一瞬、固まった。固まる演技をする程度には、開発側もこの選択肢が珍しいと知っているらしい。リストの一番下、灰色の文字。実装はされているが、選ぶプレイヤーはほぼいない。攻撃スキル枠ゼロ、補助スキル枠も最低限。実用性は議論されない。

「……かしこまりました」

NPCは俺に、小さな調査記録ノートと、木製の調査棒を渡した。手のひらに乗せた瞬間、ふっと軽くなった。腰の鞘から重さが消え、肩の籠手から重さが消え、装備窓に並んでいた数字が消えた。背中から、ばさり、と何かが落ちた音がした気がした。実際には音は鳴らないシステムだが、確かに落ちた。

軽くなって、初めて気づいた。俺は半年間、自分の重さに耐えていただけだった。火力を出さなければならない、結果を残さなければならない、配信の数字を維持しなければならない、本戦で勝たなければならない。重さを背負うのが強さだと思っていた。本戦で焼かれて、ようやくそれが嘘だと分かった。

軽くしたら、見えるものがある。

そう仮定して、俺は灰木の谷に来た。仮定でしかなかった。仮定だから、毎日ノートに書いた。書かないと、仮定が腐るからだ。緑スライム十一体目、青スライム六体目、ゴブレッタ四体目。初日のページはいまも残してある。文字は震えていて、行間も揃っていない。あの頃は、ペン先で紙を擦るたび、自分が何をやっているのか分からなくなって、手が止まった。

止まらなくなったのは、たぶん三十体目あたりからだ。三十体目あたりで、緑スライムの跳躍前傾が、個体差ではなく地形差で揺れていることに気づいた。乾いた苔の上では0.38、湿った苔の上では0.41。ノートにそう書いた瞬間、世界の解像度が一段上がる感覚があった。誰にも言わなかった。言っても、笑われる程度の発見だった。

風が吹く。湿った苔の匂いが谷の奥から流れてくる。

俺はメニューを開いた。配信枠のサムネイルだけが、ぽつんと光っている。同接3。

クリックして視聴者欄を開く。表示されるのはIDの頭三文字だけだ。「nob」「kaz」「kan」。三つ目の「kan」は、たぶん、昨日「見てるよ」を書き込んだIDだ。プロフィール欄は空白。アイコンは初期設定。検索しても、たぶん何も出てこない。

コメント欄に、白い文字が流れる。

『見てるよ』

二度目だ。同じID、同じ三文字。今日の「よ」は、昨日の「よ」より、ほんの少しだけ間が長い気がする。気のせいかもしれない。気のせいでないのかもしれない。

俺は、生まれて初めて、配信に向かって声を出した。

「……見えてる?」

声は、自分の喉から出たとは思えないほど低かった。応答はない。コメントの流れは、それきり止まる。同接の3は変わらない。

数秒、置いて。

『見えてるよ』

返ってきた。同じIDから、「よ」の位置まで同じで。

「何が」

『きみが、見てるもの』

指先の冷たさが、ペンの軸まで降りてきている。冷たさはいまや手のひら全体に広がっていて、広がっているのに不思議と震えない。震えていたほうが、まだ自然だったかもしれない。喉の奥で唾を飲み込む音が、自分の耳に、やたらと大きく響いた。谷の風が止まっている。苔の匂いも、一瞬だけ、嗅覚から抜けた気がする。世界がひとつぶん静かになって、そのぶんだけ、自分の心臓の音が勝手に数字を打ち始める。一拍、0.74秒。次の一拍、0.71秒。こんなときにまで、視えるものは視える。

「kan、さん。誰」

返事はない。コメント欄は、白い行をひとつ流したきり、また沈黙した。同接の数字も、相変わらず3。三人のうち誰がコメントしたのかは、もう確かめようがない。

俺は配信枠を閉じた。閉じる前に、もう一度だけコメントを上にスクロールして、相手のIDを確認した。「kan」。それきりだ。

谷が静かになる。緑スライムが、また跳ぶ。残HP12/40。次行動まで0.81秒。数字は、もう、視えている。

ノートを開き直す。新しいページの一行目に、俺はゆっくりと書いた。

『縛り、追加』

ペン先が紙を擦る音は、いつもと同じ乾いた拍子だった。だがその下に書きつけた条件は、半年間のどのページにも書いたことのないものだった。書き終わる直前、ペン先がわずかに紙の繊維を引っ掻いて、インクがひと粒、文字の脇に滲んだ。拭わなかった。拭う気になれなかった。滲みひとつぶん、この誓いは重くなっていい、と思った。

『以後、自身の手による一切の攻撃判定を行わない。経験値はモンスター同士討ち、地形、罠のみで取得する。』

書いてから、俺は短く笑った。声には出さなかったが、口角が持ち上がるのが頬の筋肉で分かった。半年ぶりの動きだった気がする。

立ち上がる。湿った地面を一歩踏むと、ぐじゅっ、と泥が鳴る。次の狩場まで徒歩で四十分。途中に、青鬼種と岩蜥蜴種の生息域が交差する谷がひとつある。互いに敵対関係にある二種が、同じ水場を奪い合う狩場が。

調査棒を肩に担いで、俺は歩き出した。

歩きながら、頭の中ではもう次の数字が組み上がりかけている。岩蜥蜴の頭突きCD、青鬼の振り上げ硬直、両者がすれ違う水場の幅。看破の瞳が次の百体を要求するのなら、それも書く。書ききる。書ききった先に、本戦の中央ステージへの道があるかどうかは、まだ分からない。分からないが、足は止まらなかった。

ログに、ない音は、まだ鳴る気がしていた。耳の奥ではなく、側頭部の、骨の継ぎ目あたりで。鳴り始めの予感だけが、湿った苔の匂いに混じって、一歩ごとに濃くなっていく。

そして、配信枠は閉じたはずなのに、視界の右下で、白い行がもうひとつ、ぽつりと点いた気がした。

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