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観察者の縛りプレイ

第1話 第1話

第1話

第1話

『晒しスレ専用クリップ:縛りプレイ()の鑑定士、開幕三秒で蒸発www』

ファイル名をコピーして、俺はデスクトップの「証拠」フォルダに放り込んだ。これで百二十三本目。フォルダのサムネイル一覧は、もはや同じ焦げ跡の連続写真に見える。角度も、色温度も、俺が倒れる方向も、ほんの少しずつ違うだけ。再生回数の合計はもう数えていない。最初の週に一度だけ合計を取ろうとして、七桁の途中で指が止まった、それきりだ。三ヶ月前の本戦リーグ、中央ステージの中央で、俺──ハンドルネーム"アサヒ"──が仰向けに焼かれている六十秒の動画。サムネイルは焦げた布装備のクローズアップで、コメント欄はとっくに閉じてある。閉じる前に最後に見た一行だけは、瞼の裏に焼き付いて離れない。『この人、本戦出る意味あった?』──問いの形をしていたが、答えを求めていないのは文字の間隔から分かった。

「──ログイン」

低く呟く。机の蛍光灯の白が、呟きと一緒に視界から剥がれていく。VRゴーグルの内側で、視界が黒く沈む。次の瞬間、湿った苔の匂いが鼻腔の奥まで抜けた。匂いデータは視覚より一拍遅れて届くように調整されているはずなのに、ここ半年でその順番が逆転している気がする。アステリア・オンライン、辺境マップ"灰木の谷"。木々の隙間から差す光は弱く、地面はぬかるんでいる。踏むたび、足音はぐじゅっと鳴った。泥の粘度が、現実で雨上がりの田舎道を歩いたときの感触と、ほとんど見分けがつかない。レベル帯15から20。本戦出場者は誰ひとり、こんな場所には立ち入らない。誰も来ないということは、誰にも笑われないということだ。そこだけが、いまの俺にとっての利点だった。

俺はメニューも開かず、いつもの大樹の根元に背中を預けた。樹皮のテクスチャは少しザラついていて、背中の布装備越しでも凹凸が分かる。コップ一杯ぶんの息を、ゆっくり吐く。吐き切る最後の一息に、現実の胸の奥から何かが混じって出ていくのが分かった。名前のない澱みたいなもので、放っておくと腹の底に溜まる。

エントリーから三十分。視界に二体のスライム種が入ってくる。緑がひとつ、青がひとつ。緑は前傾姿勢を取ってから跳ぶ。青は液体を地面に滴らせてから粘着糸を吐く。前者は発動前0.4秒、後者は0.8秒。数字は頭の中でも鳴る。拍子木のように、一定のリズムで。

俺はノートを開いた。装備窓ではない。ゴーグルの外、現実側の、紙のノートだ。ゴーグルの下縁と鼻梁の隙間から、辛うじて机が見える。その狭い視野の中だけで、俺は手探りでペンを拾い、ページを繰る。アバターの手の動きと、現実の手の動きが同期せず、ずれていくあの妙な浮遊感は、もう慣れた。

緑十一体目、跳躍前傾0.39秒。 青六体目、滴下時間0.81秒。

ペン先が紙を擦る音だけが、机の上で乾いた拍子を立てた。書いた瞬間に紙の繊維がインクを吸う、あのかすかな湿り。それだけが、ここ数ヶ月で俺がいちばん信じている手触りだった。

職業は「鑑定士」。

半年間、俺はこの最弱職を貫いている。攻撃スキルはゼロ、装備は布の上下と木製の調査棒、アクションスキル枠の大半は灰色のままだ。灰色のアイコンは、押せないボタンの象徴で、最初の一ヶ月はそれを見るたびに喉の奥が詰まった。いまはもう、視界の一部だ。攻撃手段がないから、敵は俺を見ない。視界に入っていても、HPバーが減らないから、ターゲット優先度が最低まで落ちる。その仕様の歪みを、俺は使っている。弱さを突き詰めると、透明に近づく。透明になって初めて、見えるものがある。そう思い込むことにした、というほうが正確かもしれない。

「あー、また鑑定さんいる」

声が降ってきた。レベル17の狩人ペアだ。男のほうが弓を肩に掛け、にやにや笑っている。女のほうは男の半歩後ろに立って、口元を手の甲で隠している。隠しきれていない笑いの形が、指の隙間から漏れていた。

「兄ちゃん、本当にここで何してんの。三日連続で見てるんだけど」

「観察」

「観察ぅ?」

「データ取ってる」

「えっ何それ笑」

女のほうが噴き出した。男はスマホを構えるみたいに視線を俺の頭上へ向けた。プレイヤー名を撮っている。配信用か、晒しスレ用か、どちらでもよかった。どちらでも、俺の名前はまた同じフォルダに増えるだけだ。

「縛りプレイってやつ。もしかして本戦出てたあの──」

「ああ」

短く返した。男の口角がきゅっと上がるのが、視界の端で分かった。同時に、緑スライムが跳ぶ。0.40秒。誤差0.01。俺はノートにそれを書き加えた。ペン先は震えない。震えないことだけは、半年かけて訓練した。

「うわ、本物じゃん。なあリベンジマッチでもすんの? 鑑定士で?」

笑い声が二重に重なって、谷の壁にぶつかって反響した。湿った空気がその響きを長く引き伸ばす。ひとつの笑いが二つに、二つが四つに聞こえるほど谷は反響する設計で、この仕様を作った開発者は、たぶん誰かに笑われた経験がないのだろう、と場違いなことを考えた。俺はノートに目を落としたまま、薄く息を吐いた。怒りはとっくに通り過ぎている。残っているのは、もっと低温の何かだ。指先の関節が冷たく、ペンを握る圧だけがじわりと強くなる。紙の表面に、わずかにインクが滲む。

「邪魔」

「は?」

「観察の。どいて」

男のアバターが一瞬固まった。顔の表情は簡易モデルで、微細な変化は再現されない。それでも、固まった、と分かる間があった。プレイヤー間のPK判定はこの区域にない。手を出せば、俺は通報するだけで済む。男は鼻を鳴らし、女の腕を引いて谷の奥へ消えた。「雑魚の逃げ道」「縛りプレイ()」──去り際の単語だけが、ぐじゅっという地面の音と一緒に残った。語尾の括弧の中身まで、声の抑揚でちゃんと発音されていた。たいした演技力だ、と俺は思った。

ノートに、もう一行足す。

『124本目、本日分追加』

谷が静かになる。スライムだけが、相変わらず同じ動作を繰り返している。

緑、跳躍。青、滴下。緑、跳躍。青、滴下。

同じリズム、同じ角度、同じ秒数。ゲームの中では誠実なのはモンスターだけだ、と俺はいつからか思うようになった。約束された動作を、約束された時間で返してくる。笑わない。嘲らない。データを返す。

俺はメニューを開いた。フレンドリスト、空欄。ギルドタブ、空欄。配信枠だけが、ぽつんと点いている。同接、3。半年前、本戦の配信枠には五桁がついていた。桁数がひとつ減るたびに、俺は何かをひとつずつ失った気がしていたが、いまは一桁になってむしろ静かだ。

そのうちのひとつのコメント欄に、白い文字が流れた。

『見てるよ』

知らないIDだった。アイコンは初期設定のまま。それきり二度目のコメントはない。俺はしばらくその文字列を見て、それから配信画面を閉じた。見てるよ、の「よ」の一文字だけが、妙に耳に残った。句点の位置、改行のタイミング、語尾の選び方──そういう細部をもう何百回も他人の罵倒の中から読み取ってきた俺の目には、その三文字が罵倒の形をしていないことだけは分かった。

膝の上にノートを開き直す。緑スライム九十八体目、発動前硬直0.41秒。九十九体目、0.39秒。指先の冷たさは消えていない。むしろ少しずつ、深くなっていく気がする。冷たさは、普段は手の甲の側にあるのに、今日に限って手のひらの中央、ペンの軸が当たる位置にまで降りてきていた。

百体目が来る。

緑のシルエットが、湿った苔を踏んで近づいてきた。距離五メートル。前傾姿勢。跳躍。滞空。落下。俺は調査棒の先で、転がったコアを軽く突いた。コアは軽くて、乾いた木の実に似た音を立てた。ダメージ判定、なし。観察完了通知が、視界の隅に小さく灯る。

その瞬間だった。

ログに、ない音が鳴った。

ぴ、と短く、耳の奥を引っ掻くような高さで。システム通知音とも、フィールドBGMの一拍とも違う。聞いたことのない、サーバーのもっと深いところから、ぽろりとこぼれてきたような音。鼓膜ではなく、側頭部の骨を直接叩かれたような感触が残って、それが消える前に次が来た。

視界が、真っ黒になる。

暗転は0.3秒。心臓の拍動が、その0.3秒の中で一度だけ明確に跳ねた。すぐに谷の風景が戻った。

だが、戻った世界は、さっきまでの谷ではなかった。

緑スライムの輪郭に、薄い数字が貼り付いている。残HP実数値。クールダウン進捗。次行動までの予測フレーム。視覚情報として表示されているのではない。"視えている"のだ、頭の奥で、直接。網膜を経由せず、ノートに書き留めた数字と同じ手触りで、頭蓋の内側に直接書き込まれていく。

メニューには通知が一つだけ、点滅していた。

──スキル覚醒:『看破の瞳』。

発動条件、という但し書きが続いている。読みかけて、俺は息を止めた。ノートを握るペンが、はじめて、少しだけ震えた。

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