Novelis
← 目次

誓約の観測者

第2話 第2話

第2話

第2話

一歩目の足裏に、石畳のひび割れが噛んだ。

麻のズボン越しに、乾いた冷気が膝の裏を舐める。拠点の外で感じた風とは質が違う。温度というより密度だ。神殿の空気は、触覚フィードバックのゲインを一段だけ上げたみたいに肌の上で粘り、息を吸うたびに鼻の奥が錆の味を探り当てた。鉄と、古い香木と、それから何か——蝋燭の芯を消した後の、焦げた油の残り香。HUDの右下で空気湿度パラメータが微かに揺れ続けている。神殿は呼吸している。それも、ずいぶん長い間、同じリズムで。一定の周期で湿度バーが膨らんで縮む。生き物の腹が上下する間隔とよく似ている。

左手で麻シャツの裾を握り直した。汗で布が肌に張りつく感触が、いつもより明瞭だ。配信タブを閉じた後のVRは、環境音の隙間が広くなる。埋め合わせるように、自分の衣擦れが大きく鳴る。ぱさ、と布が擦れる音の一つ一つが、俺の身体の輪郭を石壁に投影して返してくる気がした。普段なら配信のチャット欄が視界の隅で流れていて、自分の存在は文字の海に溶けている。今は何も流れていない。誰の目もなくて、自分の音だけが、ここにいる証拠だった。

木製ショートソードの柄を鞘の角度ごと少し前に倒す。三匹の狼で身についた握り方だ。親指で柄頭の木目を確かめる。凹凸の位置はもう覚えた。

進む。

入口から十歩で、外光が背後に縮んだ。前方にぽつりとオレンジ色の光球が浮いている。自動発生の松明ノードだろうと思ったら、近づくにつれて違うと分かった。松明ではない。石柱の中に埋め込まれた、拳ほどの金属の破片だ。それが、ひとりでに淡く光っていた。wikiに載っていたら真っ先に考察される類の小道具だ。今この瞬間、誰もそれを見ていない。俺以外は。

「…………」

呟きを飲み込んだ。声を出しかけて、自分の喉が震えそうになるのを止めた。配信していないのに、誰かに聞かれることを恐れている。その違和感の正体を、まだ言葉にできない。

神殿の内部は、ひとつの長い回廊と、その両脇に並ぶ小部屋で構成されていた。各部屋の入口は半ば崩れ、中は瓦礫で塞がっている。床に残る靴底の跡は、入って七歩のところで消えていた。代わりに、苔の生え方にだけ規則性がある。踏まれた箇所だけ、苔の緑が薄い。生えて、枯れて、生え直した跡が重なっている。何度も、何度も、同じ歩幅で。

ひとり分の歩幅だ。小柄な、誰かの。

しゃがんで、苔の薄い窪みに指先を当ててみた。ひんやりとした湿り気が、指紋の溝に滲んでくる。窪みの中心はほんの少しだけ深い。同じ場所に、同じ重さで、何百回と踏まれた跡だ。プレイヤーの周回ではない。プレイヤーは効率を優先するから、こんなに律儀に同じ歩幅を刻まない。NPCの巡回ルートにしては、目的地が見えなさすぎる。誰かが、ただここを歩き続けていた。歩くこと自体が用事だったみたいに。

回廊を進むと、床の石材が途中から切り替わった。古い花崗岩から、継ぎ目のない黒い石へ。踏み込んだ瞬間、ブーツの底が吸いつくような沈黙を返した。足音が、消える。HUDの足音ログが、通常値から『——』に落ちる。俺の気配自体が、この区画では記録されない仕様らしい。

配信勢が素通りする理由が、ようやく分かった。

ここは、数値で評価できない。ドロップテーブルが書けない。効率周回ルートに組み込めない。レガタツのような男が、サムネイルに出来ない場所だ。wikiの二行の記述が、今になって別の意味で読めた。『ギミックが地味』——あの二行は、書いた誰かが諦めて出ていった跡だ。あるいは、ここに何かがあると気づいたうえで、わざと地味だと書き残した誰かの、優しさのかたちかもしれない。

奥へ進むほど、天井が低くなった。尖塔の内側を螺旋で降りている感覚がある。壁に古い文字が彫ってある。翻訳エイドは反応しない。βの言語データに登録されていない文字体系らしい。指の腹で溝をなぞると、彫りの深さが場所によって違うと気づいた。ある単語だけ、何度も上書きされている。祈りの痕跡みたいに。同じ文字を、誰かがノミの刃を当て直して、何度も深く彫り直した。読めない言葉のはずなのに、その執着の重さだけが指の皮膚にじかに伝わってきた。

最奥に、祭壇があった。

半円形の石段の上、祭壇中央に、折れた剣が一本、切っ先を下にして突き立っている。刀身の半分から先はなく、残った根元だけが、石に食い込んだまま苔に覆われている。色は、黒でも銀でもなく、沈んだ鉄の色だ。祭壇の手前で、HUDが勝手にステータス画面をポップアップさせた。勝手に、だ。操作はしていない。

『祭壇の前に立ちました。』 『取得条件を判定しています。』

条件の内容は、表示されない。バーが埋まっていく様子もない。判定だけが進む。呼吸を止めて、折れた剣の断面を見た。錆の奥に、かつての研磨面の筋がわずかに残っている。丁寧に手入れされていた剣だ、と思った瞬間、喉の奥が妙にざらついた。なぜそう感じたのか、自分でも説明できない。配信で見たどんな名剣のモーションにも、俺はこの感触を返したことがない。誰かがこの剣を毎晩磨いていた手の動きを、俺の指が勝手に想像していた。布で根元から切っ先まで、何度も。折れる、その日の朝までずっと。

判定が終わった。

HUDに、新しいスキルアイコンが点灯する。銀色の輪郭が、祭壇の剣とほぼ同じ形をしていた。アイコンをタップする。説明文が開く。

『スキル:【守護騎士の誓約】』 『分類:パッシブ/特殊』 『効果:詳細不明。発動条件あり。』 『備考:本スキルの取得者は記録に残らない。』

三行で終わる説明文は、攻略サイトが取り上げる場合、必ず『地雷』と書かれるやつだ。効果欄が具体値を伴わない時点で、廃人の八割は取得を避ける。βの終盤にこれを引き当てる運のなさ、と頭の一部が冷静に計算を始めた。けれど、指先は動かなかった。アイコンを捨てることも、ステータスに組み込むことも、しないまま、俺はただ説明文を見つめていた。胸の奥で、何かがゆっくりと押し上げられてくる。期待ともつかない、恐れともつかない、もっと薄い、けれど確かに重さのある感情だった。

視界の端が、わずかに揺れた。

説明文の末尾に、もう一行が滲み出してくる。最初の三行とは違う書式。システムフォントではない。手書きのような、かすれた筆致。

『汝が護るべき者を定めよ』

一文だけ、色が違った。ほかのテキストより一段淡い。俺は反射的にスクリーンショットを撮るショートカットを押した。押して、ギャラリーを確認した。撮れていた画像の末尾に、その一行だけ、写っていない。三行目までで切れている。

指先が冷えた。

試しに、キャプチャソフトの録画バッファを遡った。直前十秒のログ。同じだ。四行目は、俺の視界の中にしか存在しない。他プレイヤー向けの共有チャンネルに貼ろうとしたら、ペースト欄にも反映されなかった。

これは、俺にだけ見えている。

祭壇の周囲で、空気の密度がまた変わった。粘性が一段深まる。石段の下の苔が、ほんの少しだけ色を濃くした気がした。見間違いかもしれない。けれど、頬の横を通った風が、前とは反対向きに流れていた。神殿が、息を吐いたのか、吸ったのか。耳の奥で、自分の心音だけが、急に大きく鳴り始めた。

『汝が護るべき者を定めよ』

口に出さずに、唇の形だけでなぞった。護るべき者。ランキングの上位に、誰かを護ってステータスを伸ばすビルドはない。俺のステータスも、防御値は見習い相当のままだ。定めた相手がいないと、このスキルはおそらく何も起きない。逆に言えば、定めた先で、何かが起きる。起きる側になるのは、ずっと配信の外側だった俺にとって、初めての立ち位置だった。観測する側から、観測される側へ。見る側から、見られる側へ。その境界線の上に、片足だけ乗せている自覚があった。

祭壇の折れた剣を、もう一度見た。切っ先のない剣で、誰かを護ることはできない。それでも、ここに立てたままにした誰かがいる。護り切った後に置いていったのか、護れなかったから置いていったのか、俺には分からない。ただ、俺の木製ショートソードを、剣の隣に並べて置く気には、ならなかった。並べた瞬間、何かを引き継いでしまう気がした。引き継ぐ資格が、まだ俺にはない。

ステータス画面を閉じる直前、HUDの下層に別の通知が薄く浮いた。

『観測プロトコル:解除』 『——この先、あなたは観測される側です。』

息が、止まった。

背後で、何かが床を踏んだ。足音のログは、『——』のままだ。この区画では音が拾われない。けれど、確かに踏まれた。歩幅は、入口で見た苔の跡と同じ。小柄な、誰かの。

振り返る動作の途中で、俺の視界の端に、誰かの白い輪郭が一瞬だけ映った。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ