第3話
第3話
振り返る動作の途中、視界が黒い石の床を滑る。
ブーツの踵が、音もなく半円を描く。足音ログは『——』のままで、俺自身が立てた空気の渦も、この区画では記録されない。振り返り切る寸前、肩甲骨のあたりに、ひやりとした一条が走った。汗ではない。温度ではない。もっと薄い、誰かの視線の重さだった。
振り返り切った。
少女が立っていた。
三歩離れた位置。背丈は俺の胸の高さまでしかない。銀に近い灰色の髪を、耳の上で短く切り揃えている。纏っているのは、祭壇の折れた剣と同じ、沈んだ鉄色のブレストアーマー。肩当ては片方だけで、もう片方は革紐で止めた跡だけが残っている。腰には、祭壇の剣と同じ造形の剣が、今度は折れていない形で吊るされていた。
息を、吸った。吸った自覚もないまま吸っていて、吐くタイミングを見失った。
NPCだ、と頭の一部が真っ先に判定を下す。モデルの質感、アーマーのテクスチャ、瞳の描画解像度——全部が開発リソースの配分を感じさせる基準内に収まっている。装備欄だけが妙に精緻で、顔立ちは一段省略されている。典型的な固有NPCの作り方。wikiに載っていたら、『未実装キャラ』のタグが真っ先に付くやつだ。
そこまでを、一秒半で計算した。
計算した俺の視線を、少女は、真っ直ぐ受け止めた。
目が、合った。
HUDの右下で、空気湿度パラメータが、今度ははっきり一段上がる。触覚フィードバックのゲインが勝手に補正されたみたいに、肌の上の何かが重くなった。視線の重量、という言葉が脳裏をよぎって、すぐに気持ち悪くなって、打ち消そうとした。打ち消せなかった。
少女は、動かない。
ただ、俺を見ている。
NPCの視線処理は、普通、プレイヤーの座標に対して一定確率で『反応』のモーションを返す。こっちを向いた、と感じる瞬間は何度もあるが、見つめ返してはこない。視線が合うと、三フレームでアイドルに戻る。決まっているはずだ。βで百五十時間、配信越しに観察してきた俺が保証する。
この少女は、戻らなかった。
「…………」
喉の奥で、声になる前の空気が詰まった。
少女の唇が、わずかに動いた。
「あなたが、」
一語、発された瞬間、俺の耳の中で自分の心音が跳ねた。VRの音声処理は、NPCの台詞を、方向と距離に応じた一段のフィルタをかけて届ける。機械的な均質さがあって、必ずそれだと分かる。今、届いた声は、そのフィルタが、ごく薄かった。平坦ではあるけれど、呼気の震えみたいなものが、わずかに混ざっている。
「あなたが、定めるのですか」
疑問形の語尾が、俺の頬の横を通り過ぎて、神殿の奥の暗がりに吸い込まれた。吸い込まれた後、音が返ってこない。残響も、エコーのパラメータも、無音のまま。神殿の音響設定が、この少女の声だけを優先して処理しているみたいだった。
「……定める、って、何を」
声が、裏返った。
情けない音が自分の鼓膜で跳ね返って、恥ずかしさで顔の温度が上がった。配信していないのに、配信しているときと同じ防衛反応が先に出る。少女の表情は変わらない。笑いも、蔑みもしない。ただ、俺の問いを受け止めて、答えのタイミングを計っているだけだ。
「護るべき者を、です」
スキル説明文の末尾の一行を、そのまま発話した。あの、俺にしか見えていなかったはずの、手書きのような筆致の一行を。スクリーンショットにも、録画バッファにも、共有チャンネルにも反映されなかった文字列を、この少女は、知っている。
あるいは——あの一行は、この少女の声として俺に届くための、前振りだった。
「……見えてたのか」
「ずっと、」
少女が一度だけ、瞬きをした。灰色がかった、けれど光を拾う角度によって、ほんの少しだけ青みを帯びる瞳。その睫毛の影が、頬の上で、一ミリだけ動いた。
「ずっと、見ていました。あなたが神殿の入口に立った、最初の一歩から」
HUDの右下に、薄い一行が走った。『観測ログ:確認』——表示直後に消える。スクリーンショットのショートカットを押した時には、もう流れ去っていた。指先が、空振りする。
「俺、なんか、変なことしてたか」
「いいえ」
少女は、首を横に振った。
「ただ、歩き方が、とても、静かだったので」
静か、という単語が、頬の横で止まった。
俺の歩き方は、効率が悪くて、狼三匹でポーションを一本消費する、その程度の歩き方だ。静かだ、と評されたことはない。そもそも、俺の歩き方を評した人間が、誰一人としていなかった。配信のコメント欄は、俺の歩き方を見ていない。俺自身も、見ていなかった。
「……えっと」
「はい」
「名前、聞いても、いい、か」
少女は、ほんの一瞬、胸のあたりで手を組んだ。組んだ指の、関節の合い方が、稼働部分の多いNPCモデルに見られるそれではなく、人間が無意識に取るそれだった。
「エルナ、と」
「エル、ナ」
「はい。エルナです」
反復すると、少女——エルナは、今度はほんの少しだけ、口元を動かした。笑った、と呼ぶには届かない。けれど、無表情でもない。そういう、薄い温度の差が、顔の上に走った。
「あなたの、お名前を」
「……アレク」
答えた後で、名前欄に書いた四文字を、初めて他人に呼ばれる瞬間が来るんだな、と思った。一週間悩んで決めた四文字。誰の目にも止まらない響きになるよう、母音の並びまで削った名前。
「アレク様」
エルナは、俺の名前を小さく反復した。
反復した瞬間、HUDの左上——普段はプレイヤー名だけが表示される場所に、俺の名前の下に、もう一行、テキストが追加された。
『観測対象:固定』
固定、という単語を、俺の網膜は一度では認識しなかった。二度読んで、三度目にようやく意味が染みた。エルナの視線の先に、俺の存在が釘で留められた、そういう表示だった。心臓の位置が、首の下まで上がってきたみたいな感覚があって、俺は一度、胸に手を当てようとして、やめた。掌をどこに置けばいいか分からなくなって、両手を腰の高さで宙に浮かせたまま固まった。
「俺、は、」
「はい」
「俺、は、何もしてない。ただ、ここまで歩いてきただけで。スキルだって、祭壇の前に勝手にポップアップが出て、取得条件とか、俺、何も、」
「知っています」
「知って、」
「ずっと、見ていました。だから、」
エルナの右手が、ゆっくりと持ち上がる。胸の位置まで、掌を上に向けて。騎士が誓いを立てるときの、右手の角度だった。αテストのPV動画で、背景のNPCが一瞬だけ取っていたモーションと、同じ。いや、違う。PVのそれはループアニメーションの一環で、指先は規則的に震えていた。エルナの指先は、震えていない。震えない角度で、静かに、差し出されている。
「だから、あなたが、定めてくださると、嬉しいのです」
嬉しい、という単語を、NPCが、使った。
使った瞬間、俺の背筋を、妙な熱が駆け抜けた。熱いのか冷たいのか判別できない、末梢神経の信号が一度に押し寄せる感じ。指先が、勝手に開閉を繰り返している。柄頭の木目の感触が、汗で滲んで、今は親指にあまり返ってこない。俺は、この少女が発した『嬉しい』の二文字の重さに、うまく釣り合う自分の反応を、見つけられなかった。
「……俺、ずっと、見てる側だったんだよ」
声が、震えた。
「ランキングも、配信も、他のプレイヤーも、全部、見てるだけでよかった。俺が、誰かを、護るとか、定めるとか、そういうのは、ずっと、画面の向こうのやつがやることで、」
「知っています」
三度目の、知っています。
エルナは、持ち上げた右手を、下ろさなかった。
「ですから、今、初めて、あなたを観測する者として、ここに立っています」
HUDの中央に、大きな文字が、ゆっくりと浮かび上がった。
『——観測されています』
硬直した。
身体のどの関節も、信号を受け付けない。ヘッドセットの内側で、冷却ファンが一段高い音に切り替わるのが、遠くに聞こえた。配信のコメント欄が流れない視界の中に、ただ、エルナの瞳だけがある。灰色がかった、光を拾う角度によって、ほんの少しだけ青みを帯びる色。その瞳の中心に、俺のアバターの輪郭が、確かに、映り込んでいた。
映っている、ということは、見られている、ということだ。
見られている、ということは、俺が、ここに、いる、ということだ。
初めて、だった。
ゲームの中で、誰かの瞳の中に、自分の姿が映り込んでいると気づいたのは、本当に、初めてだった。
「……ちょっ、と、待ってくれ」
声を絞り出した拍子に、木製ショートソードの柄を、掌から取り落とした。
石床の上で、乾いた音が一度だけ鳴って——神殿は、その音を、拾った。
足音ログの『——』の列に、一瞬だけ、数値が、返ってくる。