第1話
第1話
「兄ちゃん、約束だかんね」
妹の声が後頭部にぶつかった瞬間、視界がブラックアウトする。HMDの内側、瞼の裏に走る光のスキャンライン。三年ぶりだ。喉の奥で乾いた笑いが鳴った。耳の奥で、起動音のサイン波が低く、長く伸びていく。指先の神経が一度しびれて、次の瞬間には別の身体のものにすり替わる。この感覚。忘れたつもりで、忘れていなかった。
──ログイン処理、完了。
土の匂いが鼻先に届く。湿った石畳と、屋台で焼かれているなにかの香ばしさ。遠くで鳩の鳴き声。もっと遠くで、鍛冶の金属音が規則正しく響いている。VRMMO『アルカディア・セカンド』、始まりの街〈アルブレア〉。新作のはずなのに、空の青の沈み具合にまで覚えがあった。前作の景観データを流用してやがる。運営の手抜きに、半笑いがこぼれる。ついでに、どこか胸の底で、ほっとしている自分もいた。懐かしい、という言葉を飲み込む。飲み込んだ言葉の輪郭が、喉の奥でしばらく溶けずに残った。
「うっわー、グラフィックやばっ」
隣で妹のアバター──ピンクのフード姿──がぴょんと跳ねた。リアルでは中三、ゲーム内ではレベル1の魔法剣士見習い。本人の強い希望だ。フードの下から覗く銀の三つ編みも、腰で揺れる見習い用の細剣も、本人の中で一晩かけて設計したらしい。「魔法も剣も捨てたくない」と、夕飯の味噌汁をすすりながら真顔で言っていた顔を思い出す。
「兄ちゃん、ステータス見せて」
「やだ」
「見せて」
「だから、やだって」
俺はため息をついて、左手で空を斬る。半透明のウィンドウが指先にぴったりついて回った。慣れた挙動。三年経っても、UIの感触だけは身体が覚えている。指の腹に残る、なつかしい抵抗感。ほんのわずかに遅れて開く右端のタブ。前作のクセがそのまま残っていた。
【黒月クロウ Lv.1】 【職業:見習い剣士】 【HP:80 / MP:20】 【称号:守護者】
……いや、待て。
最後の一行で、指が止まった。
「ねえ、なに固まってんの」
「……いや」
俺はウィンドウの端をつまんで、称号の文字をなぞる。守護者。鈍い金色。ほかの項目と質感が違う。前作の最終アップデートまで、実装されてなかったはずの単語だ。引退する直前、運営が告知だけ出して、結局データに含めず消えた幻のシステム。掲示板で「どうせ出ない」「運営の空手形」と散々叩かれ、やがて誰も口にしなくなった、あの単語。それが、いま俺のステータスの底に、静かに灯っている。
背筋を、冷たいものが一度だけ撫でて通った。VR空間に空調はない。あるのは、脳が勝手に読み替えた体温の変化と、皮膚センサが律儀に拾った風の残像だけだ。それでも、冷たかった。金色の文字の下で、なにかが息をしているような、そういう類の冷たさだった。
「それより莉央、PT組むぞ」
「リーダー譲ってよ」
「却下」
「ケチ」
申請を投げると、莉央の頭上にPTマークが灯った。視界の隅、緑のHPバー。80/80。たったそれだけの数字が、こんなに重く感じたのは何年ぶりだろう。三年前、〈鳳〉とのレイドで全滅した夜。エンドコンテンツの最深部、後衛だった俺は仲間のHPバーを六本同時に管理していた。最後に消えたバーが誰のものだったかは──思い出さないようにしている。思い出さないようにしている、と自分に言い聞かせる時点で、もう半分思い出しているのだが。
「兄ちゃん、難しい顔」
「してない」
「してる」
莉央が背伸びをして、頬をつついてきた。ハプティクスの感触は、現実より少し柔らかい。爪の硬さが、ゴムの先端みたいに丸められている。子ども向け補正。運営の親心、というやつか。莉央はそれに気づいているのかいないのか、満足げに「ふにふに」と擬音を口にした。
引退の理由を聞かれたことは、あの夏以来、一度もなかった。莉央は察している。察した上で、何度かに一度こうやって誘ってくる。今回は押しが強かった。夕飯のあと、洗い物を手伝う振りをして、ずっと隣に立っていた。皿の泡を流しながら、小さな声で、何度も。
「新作出るからさ」
「無理」
「兄ちゃんが来ないとあたし、ビビって動けないもん」
「嘘つけ」
「半分本当」
半分本当のほうの莉央のために、俺はクローゼットの奥からHMDを引っ張り出したのだ。三年ぶりのシリコンの匂い。額のパッドに、薄く埃の味。それだけのために。ケーブルの癖が、丸めて置いたときのまま残っていて、伸ばすのに少し力がいった。その小さな抵抗が、なぜか三年という時間の厚みそのものに感じられた。
歩き出す。石畳は場所によって湿り気が違い、足裏のセンサが律儀にそれを返してくる。チュートリアル広場の中央には、案内のNPCが立っていた。前作と同じ、見覚えのある木彫りのフクロウ像。けれど──台座の刻印が、増えている気がする。
「莉央、ちょっと待ってろ」
「えー」
近づいて、指先で撫でる。古い文字。『守護者は還る』。風化した彫り跡。新作のフレーバーにしては、妙に古びていた。わざと汚しを入れた、という感じでもない。三年間、誰にも読まれないまま雨風に晒されていた──そんな手触りだ。指の腹に、わずかに砂の粒子感。触覚モジュールがここまで凝っているのは、明らかにオーバースペックだった。石の窪みに指を沈めると、文字の輪郭は思ったより深く、爪の先に引っかかった。古い、という印象だけじゃない。誰かが、何度も、何度も同じところをなぞった跡。摩耗のしかたが、自然ではなかった。
「お客さん、初ログインかい」
背後から声。屋台の親父NPCだ。前作にいなかった顔。頬に火傷の痕、前掛けには油染み。セリフ以外の部分まで作り込んである。
「いや、復帰組」
「そりゃあ運がいい。今日は鐘が鳴る日だ」
「鐘?」
「チュートリアル終わりの鐘だよ。聞き逃しなさんな」
親父は笑って、湯気の立つ串を差し出した。受け取る。塩と脂の香り。指先に温い脂。親指と人差し指のあいだに、にじんでくる重み。NPCの調理アイテム、味覚パラメータがちゃんと走っている。前作より細かい。舌の側面で、焦げ目の苦みまで再現される。新作の本気を、舌の上で確認した。
──と、その時。
視界の左下、ミニマップが一瞬だけバグった。座標表示が『???』に化け、すぐ戻る。時間にして、コンマ数秒。気づかなかったふりもできる程度の、ほんのわずかな引っかかり。けれど、気づいてしまった。一度気づいた異常は、もう戻らない。視界の端で、座標が一瞬揺れるたびに、胃の底が小さく冷えるようになる。それが最強のパーティで後衛をやっていた頃の、最初の予兆の拾い方だった。仲間のHPバーが落ちる三十秒前、いつも画面の端っこが、こういう顔をしていた。
「……ん?」
莉央のほうへ視線を戻す。彼女は他の初心者プレイヤーと何かを覗き込んで笑っていた。平和な光景。平和すぎる光景。なにかが薄く、皮一枚下で擦れている。最強と呼ばれていた頃の勘が、後頭部の毛を逆立てた。首筋に、夏場の蚊みたいな、小さな気配。
ステータスを開き直す。
〈称号:守護者──条件未達〉
さっきはなかった一行が、灰色で点いていた。条件、未達。なら、満たしたらどうなる。誰に対しての守護で、誰から何を護るのか。システムメッセージは、相変わらず、答えを寄越してはくれない。
──馬鹿げてる。レベル1の見習い剣士が、なにを警戒してる。
HMDを外せば、自分の部屋のベッドの上だ。莉央の声を聞きに来ただけだ。それでいい。それで、いい。何度か心の中で繰り返す。言い聞かせる回数ぶんだけ、本当らしさが減っていくのに気づかないふりをする。
「兄ちゃん、こっち!」
莉央が手を振る。フードがふわりと跳ねた。俺は息を吐いて、串を齧り、歩き出す。塩の味。指先の脂。鈍い金色の称号が、視界の隅で、ほんの一瞬、強く瞬いた気がした。まるで、こちらを覗き返してきたみたいに。
「鐘、いつ鳴るんだろうね」
莉央が空を見上げる。雲ひとつない。完璧な青。完璧すぎる青。空というより、書き割りの天蓋。境目の見えない、のっぺりとした青の壁。
「もうすぐじゃないか」
答えながら、俺は街の門を盗み見た。立派な石の門。前作と同じ意匠。違いは──蝶番の影の濃さくらい。光源の角度に対して、影だけが一段、余分に重たい。日向に立っているのに、あの門の下だけ、別の時刻が流れているかのようだった。
それでも勘は告げていた。後衛として六本のバーを見続けた、あの勘が。
あの門は、今日、誰かに踏み破られる。
──大袈裟だ、と笑い飛ばそうとした、その瞬間。
頭上で、最初の鐘が、鳴った。