第2話
第2話
──ごぅん。
腹の底に、直接叩きつけられるような音だった。音量ではない。質量だ。石畳の下から、足裏のセンサを経由して、脳の真ん中まで一息に伝わってくる。鐘の余韻が、肋骨の内側で数秒ぶん震えた。振動の切れ際、空気の粒子が一瞬だけ粗くなった気がして、眉の筋肉が勝手に寄る。
「うわ、ほんとに鳴った」
莉央が串肉の匂いにつられて戻ってきた口で、間抜けな声を出す。フードの先が揺れて、三つ編みが肩をひと撫でした。
「これが例の鐘ね。チュートリアル開始!」
「落ち着け。あと二回鳴るらしい」
俺はフクロウ像の刻印をちらと振り返る。『守護者は還る』。指の腹に残った砂の粒子感が、まだ消えない。手を握り込むと、皮膚の奥で砂が擦れる錯覚だけが残った。錯覚、のはずだ。
「兄ちゃん、クエスト受付あっちだって」
「わかった」
「あたしリーダー代わってよ」
「だめ」
「ケチすぎでしょ」
「後衛のケチを舐めるな」
莉央が唇を尖らせて、先に走り出した。ピンクのフードが、石畳の継ぎ目を小刻みに飛び跳ねる。視界の緑のHPバーが、走りに合わせて0.5ほど揺れた。前作より細かい補正。走行中の心拍を、数値の下二桁にまで反映している。運営の妙な凝り性。
俺はもう一度、空を見上げた。
完璧な青。いや──完璧すぎる青。雲の一枚も、鳥の影も、通さない。
──大袈裟だ。
声にせず、自分に繰り返す。HMDの向こうにあるのは、ただの新作タイトル初日の、平和な広場だ。
それでも、左下のミニマップが、また一瞬だけ、『???』に化けた。
◆
「見習い剣士、前に出ろってさ」
受付NPCの指示を、莉央が律儀に復唱する。チュートリアル・クエスト〈はじまりの一閃〉。初期スキル〈スラッシュ〉をスライム一匹に当てる、それだけの作業だ。三年前の俺ならあくびで済ませた課題である。
「兄ちゃん、後衛って何するの」
「ぼーっと見てる」
「嘘だ」
「HPバー六本まで同時管理できる」
「えっ、かっこいい。やって」
「今日はお前一本で手一杯だ」
莉央のバーはまだ満タンの80。そこに俺のPT補正がかすかに乗って、赤い縁取りが青に変わっている。三年前、この青い縁が消える順番を、俺は毎晩夢で見ていた。見ていた、と過去形にして呑み込む。
目の前で、スライムが律儀にプルプルと震えた。色だけが違う個体が、列をなして順番待ちをしている。初日の初心者が詰まっているのだ。ゲームらしい景色。ゲームでしかない景色。
「えーい!」
莉央の振った見習いの細剣が、空気を裂いた。音がいい。細身の剣が風を切る、高い音。スライムが「ぽよん」と鳴いて、光の粒になる。経験値が視界の端で1、積まれた。たった1。
「兄ちゃん、あたし今、強い?」
「強い強い」
「絶対思ってないでしょ」
「思ってる思ってる」
「棒読み!」
笑った。久しぶりに、声を出して笑った。喉の奥の筋肉が、三年ぶんの錆をわずかに擦り落とした音がした。頬骨の下の、長く使っていなかった小さな筋肉が、ぎこちなく持ち上がる。HMDの内側のセンサが、表情筋の動きを検知して、アバターの口角を数ミリだけ遅れて上げた。そのわずかな遅延が、自分の笑みを他人の笑みのように見せる。それでも、笑ったのは確かに俺だった。莉央はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、肩をぶつけてくる。フードの内側の三つ編みが、剣の柄にこつ、と当たった。
「ついでに約束守ってね」
「なんの」
「今日はね、無理しないの。後衛に徹するの。ラスボスに特攻しないの」
「するわけないだろ」
「前科あるでしょ」
三年前の夏の夜のことだ。莉央は、知らないはずのことまで、薄く察している。察しながら、軽く流してくれる。その軽さで、俺は何度も救われてきた。
列の隣では、他の初心者たちが似たような真似をしていた。光の粒が、あちこちで弾けている。笑い声。歓声。誰かが「グラやばっ」ともう十回目のリアクションを上げる。平和だ。平和の音量が、広場の隅から隅まで、ほぼ一定で満ちている。
──満ち、すぎている。
俺は一拍、息を止めた。
歓声のどこかに、不自然に欠けた音域がある。鍛冶の金属音が、鳴り止んでいた。遠くで規則正しく響いていたはずの、あの音。
「兄ちゃん?」
「……いや」
ステータスを開く。
〈称号:守護者──条件未達〉
灰色の一行は、さっきより、ほんの少しだけ、縁が明るい。気のせい、と言い切れるほど薄い変化。それでも、変化は、変化だ。
◆
二度目の鐘が鳴った。
ごぅん、と、石畳の下からまた突き上げる。今度は、余韻のあいだに、妙な「軋み」が混ざっていた。ギターの弦が高い音のまま切れる、あの擦過。俺以外には聞こえていないらしい。誰も眉をひそめない。誰も空を見ない。
──いや、違う。
ひとり、いた。
噴水の縁に腰掛けた黒髪の少女が、俺と同じ角度で、空を見上げていた。目の焦点が、こちらの現実より、一段奥に合っている。アバターの造りも、他の初心者よりどこか簡素で、衣装のポリゴン処理が古い。肌のシェーディングが、ひと世代前のエンジンの癖をそのまま引きずっている。現行バージョンの描画テーブルとは、明らかに噛み合っていない。視線が合った。合ってしまった。少女は、何も言わずに俯いた。
「莉央」
「なに」
「あの子、知り合いか」
「知らないよ。ってか、兄ちゃん、ナンパ?」
「馬鹿言え」
莉央に視線を戻したその瞬間だった。
空の青が、滲んだ。
絵の具を水で薄めたみたいに、広場の上空だけが、一段だけ色相をずらす。色の滲みは、端から中心へ向かって、油のように緩慢に広がった。青のはずの粒子のなかに、どこか紫を含んだ寒色が、ほんの一滴、混ざり込んでいる。HMDのディスプレイ補正では出せないはずの階調だ。網膜が、素直に受け取ることを拒んで、一瞬だけピントが後ろに逃げた。時間にして、まばたき一回。気づいたのは、俺と、おそらくあの少女だけ。莉央も、他の初心者も、受付NPCも、誰一人として空を見ていない。
胃の底が、冷えた。
──後衛の勘が、後頭部の毛を根元から引き上げる。仲間のバーが落ちる三十秒前の、あの顔。
「莉央、PTのメニュー出せ」
「え、なんで」
「いいから」
莉央が怪訝な顔のまま、左手を振った。半透明のウィンドウが、彼女の指先に開く。俺のほうも同時に展開する。三年ぶりでも、身体が覚えている配置。戦闘ログ、PT管理、マップ、フレンド──。
そのいちばん下。
「……兄ちゃん」
莉央の声が、細くなった。
「ログアウトのボタン、どこ?」
「ん?」
「ないんだけど」
俺は自分のウィンドウを見下ろした。
ある。あるはず。メニューの最下段、赤いアイコン。前作から変わっていないはずのレイアウト。そこにあるのは、項目の名前だけを残した、灰色のスペースだった。タップしても、指が素通りする。ハプティクスが、反応を返してこない。触れたはずの位置に、感触がない。拳を握り直して押しても、掌の内側で空気が逃げるだけだった。何度押し直しても、指先は灰色の表面をすり抜けて、その奥の何もない空間を掻くだけだ。爪のあいだに、存在しないはずの冷気がわずかに吸い込まれていく錯覚が残った。
「えっと、えっと、バグ?」
莉央が笑おうとして、失敗した。フードの下の唇が、ほんの少しだけ震えている。
広場のあちこちから、ざわめきが漏れ始めた。同じことに気づいた者が、一人、二人、三人。手をメニューに伸ばしては、触れるはずの場所に触れ損ねている。歓声のなかに、別の粒度の声が混じっていく。「え」「なに」「うそ」。初心者の、無邪気な「やばっ」とは質の違う、喉の浅いところで震える声。
三度目の鐘が、鳴った。
空の青が、もう一段、滲んだ。
噴水の縁の少女が、顔を上げる。唇が、こちらに向かって、音にならない形で動いた。
「はじまった」と。
◆
「兄ちゃん」
莉央の指が、俺の袖を掴んだ。細剣を握ったままの、小さな手の甲。ハプティクスが拾った圧力は、現実の莉央の指先より、少しだけ硬い。現実では、まだ柔らかい力でしか握ってこない子だ。ゲームの中の莉央の指だけが、いま、現実の彼女より先に、怯えていた。
「ねえ、これ」
「大丈夫だ」
口より先に言葉が出ていた。根拠はない。根拠は、後衛の勘と、ステータスの底で静かに光り始めた鈍い金色、ただそれだけだ。
〈称号:守護者──条件未達〉
灰色の縁が、もう一段、明るんでいた。
街の門のほうから、風が吹いた。湿った石畳の匂いに、別のものが混ざる。鉄の匂い。まだ遠い。まだ、遠いはずだ。広場の向こう、石の門の蝶番の影が──さっきよりも、また一段、重たい。
頭上で、四度目の鐘が、鳴らなかった。
鳴らなかったぶんの沈黙が、空から、ゆっくりと降りてくる。