第3話
第3話
鳴らなかった、四度目の鐘。
その沈黙が、何秒続いたのかわからない。体感では五秒。ログ表示ではたぶん三秒に満たない。広場の音量が、最大から最小まで一息に絞られた。鍛冶の音はとっくに鳴り止んでいる。屋台の湯気の上がる音も、串を齧る咀嚼音も、経験値1を拾った誰かの歓声も、全部まとめて青の下に吸い上げられた。耳の奥に残っていた鐘の残響が、最後のひと擦れを宙に置いて、すうっと、消えた。
「……兄ちゃん」
莉央の声が、袖の付け根から登ってきた。指の力が、現実の三倍ほどに強い。細剣の柄に当たった甲が、俺の肘の内側に、こつんとぶつかった。PTのHPバーの下、緑の小さな数字がひとつだけ0.5揺れる。心拍検知。補正の下二桁に、妹の怖がり方が、正直に出ていた。
「大丈夫だ」
声が、自分で思ったより低く出た。後衛の勘は、もう全方位に毛を逆立てている。だから声だけは低く押さえる。莉央のバーの縁取りを、青のままに保つ。それだけは、三年経っても覚えていた唯一の技術だった。
頭上で、空が、割れた。
いや──割れたように見えた。青の書き割りの中央に、縦に一本、亀裂のような光が走る。そこから広場全体を覆うサイズのウィンドウが、ゆっくり滑り落ちてきた。半透明の白。運営ロゴはない。代わりに、真ん中で、赤い文字がひとつだけ点いた。
『【告知】アルカディア・セカンド、ライブサービスモードへ移行』
次の行が、遅れて現れる。
『本サービスにおいて、プレイヤーキャラクターのHPが0になった場合、現実側のプレイヤーの生命活動は停止します』
『HMDの強制離脱操作を禁止します。離脱を試みた場合、同様に生命活動は停止します』
『解除条件は、最終層の踏破をもって告知します。ご健闘を祈ります』
告知の文字列は、そこで止まった。続きはない。注釈もない。バグ警告の黄色い帯も、運営からの弁明も、撤回の知らせも、最後まで現れなかった。赤い三行は空の真ん中に貼り付いたまま、消える気配すら見せない。文字の縁が、ほんのわずかに、息をするように脈打っている。その脈動のリズムが、広場の人間の脈とは、明らかにずれていた。見なかったことにできる猶予は、一行ぶんも用意されていなかった。
誰かが、笑った。
乾いた、短い笑いだった。受付NPCの隣にいた、大学生くらいのアバター。フラットな語尾で「うそでしょ」。その最後が、宙でちぎれる。彼はもう一度「うそでしょ」と言おうとして、言えないまま固まった。広場が、そこから決壊した。
「え、は、嘘、」
「おい、ログアウトは、ログアウトはどこ」
「ないの、さっきから、ない」
「やだ、やだやだやだ」
歓声の声域が、全部、泣き声の声域に上書きされていく。串を落とした親父NPCの屋台の皿が、石畳でひとつだけ、ちゃりん、と鳴った。皿の割れる音までちゃんとモデリングされていて、俺はその馬鹿げた作り込みに、一瞬、嗤いたくなった。嗤えるほど、余裕はなかった。
莉央の指の力が、もう一段、強くなる。
「あ、あのさ、」
「……」
「これって、」
「……」
「冗談、だよね」
答えなかった。答えられなかった、というほうが、正しい。
視界の隅で、ステータスの灰色が、また一段、明るんだ。
〈称号:守護者──条件未達(達成条件:付近の生命の保全、対象1名以上)〉
条件の後ろに、カッコが増えていた。括弧のなかの文字は、他の項目より、ほんの少しだけ濃い。システムが、わざわざ俺にだけ見せるような濃さだった。
「兄ちゃん、HPって」
莉央が、ゆっくり、自分のバーに視線を落とす。緑、80/80。その下にPT補正の青い縁取り。
「……下がると、死ぬってこと?」
「……」
「現実で」
俺は莉央の頭に、空いているほうの手をのせた。ハプティクスが、三つ編みの髪の硬さを指の腹にきっちり返してくる。リアルの莉央の髪より、ほんの少しだけ硬い。アバター補正のクセ。それでも、温かかった。脳が読み替えた温度が、手のひらの中央に、ちゃんと灯った。
「莉央」
「うん」
「ここから先、俺の二メートル以内から離れるな」
「……うん」
「俺の背中にだけ、ついてこい」
「……うん」
声が、震えなかった。震えたのは、たぶん、頷いた莉央のほうだ。フードの先が、小さく上下する。泣いてはいない。泣くのを後回しにした顔だった。三年前の夏、俺がレイドから帰らなかった夜、玄関で俺の靴を抱えたまま、まだ泣いていなかった頃の莉央の顔と、同じ作りの顔だった。
広場の別の一角で、受付NPCが、急に動かなくなっていた。台座の上で、フクロウ像だけがゆっくりと、俺のほうへ向き直った気がした。気のせいではない。台座の影の角度が、確かに、一段、ずれていた。
噴水の縁の少女は、もういなかった。
いつから、ではない。視線を外した記憶もない。ただ、少女が座っていたはずの石の縁だけが、何もなかったかのようにそこにある。足下の水盤に残っていたはずの、濡れた小さな足跡も消えている。水面の揺れだけが、さっきより一段、荒かった。誰かが手を差し入れたあとのような、気まぐれな波紋が、中央から外へ、一度だけ広がって、止まった。
最初に来たのは、風だった。
街の門のほうから、急に押し出された空気。湿った石畳の匂いが一瞬で吹き飛んで、代わりに、鉄の匂いが鼻の奥に刺さる。遠い、ではない。広場の半分まで、もう、近い。
次が、地面だった。
どぅん。
広場の石畳が、一段、沈んだ。沈んだというより、叩かれた。足裏のセンサが律儀に、その衝撃の位相を返してくる。靴底の奥で、石畳の目地が一瞬広がり、すぐ戻った。屋台の木のトレイから、串が三本、飛んで落ちる。それが落ちきる前に、二度目が来た。
どぅん。
間隔、二秒。歩幅、推定十メートル超。生物のサイズではない。少なくとも、前作の最終層にいたどの敵とも違う。
「兄ちゃん、」
「莉央、背中」
莉央を背に回した。袖を掴んでいた指の位置が、そのまま腰の後ろに落ちる。俺は左手で空を斬って、ウィンドウを全開にした。三年ぶんの指癖が、一瞬で戻る。PTマーク、マップ、戦闘ログ──いちばん下の、触れないログアウト。そのひとつ上、装備タブ。見習い剣士の腰にあるのは、チュートリアル用の短剣一本。HP80、MP20、レベル1。数字の全部が、笑えるくらい低い。三年前の俺が、最終層で管理していた六本のHPバーの、どれよりも低い。
どぅん。
音の方向へ、視線を、ちゃんと合わせた。
街の門。石の蝶番の影が、もう、いつもの重さではなかった。門の向こうの空が、ひとつ縦に裂ける。裂け目の奥から、鎖の擦れる音が一度だけ。金属同士が、意味もなく、嬲るように擦れる、あの音。
そして、踏み込んでくる。
石の門の上縁に、影がかかる。影は門の高さの倍以上あった。
「──来たか」
声は、俺のものじゃないみたいに、凪いでいた。
門が、割れた。
割れた、という描写では足りない。石の門が上から下まで、一本の足の裏で、粉にされた。粉になった石の粒が、こちらへ向かって、横殴りの霧みたいに押し寄せる。広場のプレイヤーたちの悲鳴が、粒子の壁の向こうで、途切れ途切れに聞こえた。
「莉央、伏せろ」
答えを聞く前に、俺は莉央の後頭部に手を回して、石畳に押さえ込んだ。石の粒子が、背中に、砂嵐みたいに叩きつけられる。ハプティクスが、背中のアバター表面を、数センチ単位で熱く鳴らした。HPバーが、初めて、80から75に落ちる。
五。
たった、五だった。
けれど、五のぶんだけ、確かに、痛かった。
粒子の霧の向こうで、巨大な影が、もう一歩、踏み込んだ。
どぅん。
広場の石畳が、中央から網目状に割れる。目地が一本ずつ弾けて、軽い破片を巻き上げた。莉央の三つ編みに、小さな石片がひとつ、紛れ込む。俺はそれを指の腹で払いながら、もう片方の手でステータスを叩いた。
〈称号:守護者──条件、達成判定中〉
灰色だった文字の縁が、鈍い金色に、侵食され始めていた。染み込むように、ゆっくり。
──これはもう、ゲームじゃない。
莉央の頭を押さえた手のひらに、妹の心拍の補正値が、数字になって返ってくる。速い。速すぎる。その速さを下げてやる方法を、俺はひとつだけ、知っている。
霧の向こうで、巨大な影が、こちらへ、ひと呼吸、身を屈めた。