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化石ランカーの帰還

第2話 第2話

第2話

第2話

カシャ、と七つ目のシャッター音が重なった瞬間、俺はようやく噴水の縁から腰を上げた。

立ち上がった俺の視線の先に、革鎧の男の頭装備──羽根の生えた銀のサークレットがある。三年前、こんな身長差は感じたことがない。プレイヤーアバターの平均身長設定が、いつの間にか上方修正されたのだろう。俺の178設定が、いまや小柄に見える。

「お、立った立った」 「え、配信回そうぜこれ」 「やめろって、リアル晒しになる」 「ゲーム内だっつーの」

笑い声が一度、ふっと途切れる。誰かが唇に指を当てて、一拍。それからまた、別の方向で笑いが湧く。広場の真ん中で、俺一人を囲む輪は崩れない。

噴水の水音が、もう聞こえない。

シャッター音だけが鳴る。

俺の右手はクイックスロット三番に置かれたまま、結ばれない指の形を保っていた。何かのスキルを呼び出そうとして、どれもクールダウンに入っていない。三年前ならとっくに発動していたはずの一手が、今、宙で止まっている。

「装備値見ろよ、21847しかねえ」 「いま全武器で34000がボーダーだぞ」 「俺の野良ヒーラーでもこいつより強いわ」

数字が、耳の横を流れていく。

ボーダー34000。そんな単語が、いまの『アルテミア』にあることすら、俺は知らない。三年前、装備値という指標自体が違う計算式だった気がする。何が変わって、何が同じなのか、目盛りの読み方を忘れた魚眼レンズを覗いている気分だった。

──喋れ。

頭の奥で、また誰かが言う。

喋れ、何か返せ。三年前のお前なら、こいつらの装備の穴を一目で見抜いて、「お前のアクセ枠二つ空いてるけど」とでも言って黙らせたはずだ。

だが、俺の目は彼らの装備のどこを見ても、もうその穴がわからなかった。

そのとき、白ローブの女プレイヤーが、視界の右上を指差した。

「ほら立ったよ、スレ」

つられて視線を上げると、画面の右上に小さなスレッドリンクのプレビューが浮かんでいる。彼女の操作で共有されたものだ。──『【検証】化石ランカー復帰(笑)、装備21847の伝説アバター晒し』。タイトルが赤い枠で点滅していた。

二十一秒前の投稿。

すでに、レスが十八ついている。

「速えな、ホットエントリ入りそう」 「クロウさん、レス読みます?読み上げ機能あるよ」 「あるある、聞いてみよ」

革鎧の男が指を立てて、わざとらしくスレッドの読み上げを起動した。広場全体に、他人の打ったテキストが、機械音声で読み上げられる。

「『うわ本物じゃん、装備一個も更新してねえw』」 「『これでよくランカー名乗れたな』」 「『当時はメタが甘かっただけで、いまの七位以下にも勝てないだろ』」 「『誰か晒上げよろ、配信枠で公開処刑したい』」

囲みが、どっと笑った。

俺の視界の左下、HPバーは満タン。気力ゲージも最大。だが、現実の指先は、グローブの中で凍ったように動かない。三年前、どんな格上にも一切怯まなかったあの指が、今は、たった四行の文字の前で固まっている。

「あれ、反応薄くね?」 「もしかして晒し耐性ないの?」 「現役時代も、煽り耐性はそんなになかったって聞くけど」 「あー、それで引退したんじゃね、メンタル系で」

胃の底が、熱く重くなる。

メンタル系で引退。

それは、当時の俺を知らない人間が、後から作った安易な物語だ。だが、ここで否定する言葉を持ち合わせていない。三年間、誰にも喋らなかった理由を、いまこの瞬間、囲みの真ん中で説明する義理も、装備も、語彙も、何ひとつ揃っていない。

「ねえねえ、せっかくだから、ひとつ昔のスキル見せてよ」

白ローブが、にこ、と笑った。香水エフェクトの桃の匂いが、今度は強めに鼻を打つ。彼女の頭上のプレイヤーネームには、ピンク色の星マークが二つついていた──たぶん、何かの配信者ランクだ。三年前にはなかったマーク。

「『黒鴉』っていえば、ほら、あの一閃の。なんていったっけ、技名」 「《暁裂》だろ」 「あ、それそれ。やってよ」

──《暁裂》。

懐かしい名前だった。だが、いまの俺のホットバーに、そのスキルはセットされていない。三年前のセット記憶のままなら、左クイック四番に入っているはずだが、UIが変わっている。スキル一覧を呼び出そうと指を動かしかけて、止めた。

呼び出して、もし、CD表示が「使用不可:ジョブ削除済み」と出たら。

そう思った瞬間、俺の親指は、勝手に止まっていた。

「あれ、出さねえの?」 「忘れたんじゃね」 「忘れたで通るかよ、自分の代名詞だぞ」 「ほんとに化石だ……」

シャッター音は、まだ鳴っていた。

囲みの後ろで、いつの間にか、十数人の野次馬が増えていた。広場の他のプレイヤーも、何事かと足を止めている。遠くで誰かが配信枠の招待リンクを送ってきた。点滅する通知。──断りもしない。受けもしない。指は止まったままだった。

俺は一度、目を閉じた。

瞼の裏で、三年前の自分の手元のリプレイが流れた。一閃で五人を斬り、振り向きざまに六人目を屠った、あの頃の指運び。鮮明だ。鮮明すぎる。だが、その指は、今のグローブの中の指ではない。

目を開ける。

囲みは崩れていない。

「だっせ」

誰かが、はっきり言った。

その一言が、奇妙に鼓膜の奥まで届いた。

俺は、無言で右足を一歩、前に出した。

囲みの輪が、ほんの少しだけ揺れた。

革鎧の男が、咄嗟に半歩横にずれる。彼の腰のショートソードが、チャリ、と鳴る。攻撃判定じゃない。ただの足を退いた音。それでも、彼の目には一瞬、警戒が浮かんだ。

──まだ、それくらいの圧は、残っているらしい。

俺は二歩目、三歩目を踏み出した。誰の顔も見ない。視線を上げない。ただ、囲みの隙間に体をねじ込むようにして、ゆっくり、押し通る。肩が、革鎧の男の肩当てに触れた。あちらが先に避けた。白ローブの香水の匂いが、すれ違いざまに濃くなる。

「あ、逃げる気だ」 「逃がさねえぞクロウさん、もうちょっと付き合ってよ」 「待って、サインだけ──」

ついてくる足音は、半分くらいだった。残りの半分は、囲みの中で、まだ俺の元いた噴水の縁を撮影している。「無人のランカー席」とでも、いまネタにしているのだろう。

足音だけが、後ろをついてくる。

俺は速度を上げない。早歩きにすると、追いかけられている形になる。ゆっくり、ゆっくり、噴水を背に、広場の南へ歩く。革鎧の男が、横に並ぼうとして、半歩追い抜く。

「ねえ、無視はないっしょ」

返事をしない。

「なに、装備の話されたのが効いた?ガチで効いた?」

返事をしない。

「いやだから、ちょっとくらいさ──」

俺の歩幅が一つ広がった。

それだけで、革鎧の男はついてこなくなった。広場の南口、新規プレイヤー向けの初期街道へ抜けるアーチが見えてくる。三年前、ここを通る上位勢はほとんどいなかった。今もたぶん、変わっていない。装備値34000がボーダーの世界で、初期街道に用がある者は、初心者か、それを狩る配信者くらいだ。

アーチをくぐる。

囲みの音が、ふっと、遠くなった。

シャッター音がやんでいる。

歩道の石畳が、広場の白い敷石から、灰色の素朴な板石に変わる。靴底に伝わる感触が、急に固くなる。三年前と同じ感触。──たぶん、ここのテクスチャだけは更新されていない。誰も通らない場所のテクスチャを更新する余裕は、運営にもない。

俺は、両拳を握った。

グローブの中で、爪が掌に食い込んだ。痛みはほとんど感じない。だが、力を入れすぎて指の関節が震えていることは、自分でわかった。

「……っ」

短い息が漏れた。声にならない、喉の奥の音。

涙ではない。

涙ではない、と、自分に言い聞かせた。

VR内で泣くと、現実の目元のセンサーがそれを検知して、アバターの瞳が潤む仕様だった気がする。三年前の仕様だ。今もそうかは知らない。だが、もし、誰かがいま俺を撮っていて、潤んだ瞳が映ったら──それは、もう一段、晒される。

俺は天井の代わりに、街道の上の作り物の青空を見上げた。

雲が、三つ、ゆっくり流れている。

そのうちの一つの形が、三年前と同じだった。

街道は、誰もいなかった。

両側の草原に、レベル3〜5のスライムが二、三体、跳ねている。俺の視線がロックすると、奴らの頭上に「危険:即時逃走推奨」のアイコンが点いた。レベル187の俺を見て、奴らのほうが逃げる。

俺は、そいつらにも目をくれず、街道をさらに南へ歩いた。

舗装が途切れ、土の道になる。さらに進むと、土の道もなくなり、岩肌の露出した斜面が続く。三年前、俺がチュートリアル直後に一度だけ通った道。あの先に何があったか、いまの俺は思い出せない。たぶん、廃坑だ。誰も来ない、初期マップの隅。

風が吹いた。

VR内の風だ。だが、後頭部のパッド越しに、首の後ろがひんやりする。

俺は立ち止まり、もう一度、両拳を開いた。掌に、四つの三日月の痕が残っていた。

その痕を、しばらく見つめてから、俺は岩肌の斜面に、最初の一歩を踏み出した。

囲まれて笑われた俺の名前が、まだ、広場のシャッター音と一緒に、頭の奥で鳴り続けていた。

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