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化石ランカーの帰還

第3話 第3話

第3話

第3話

廃坑の入口は、三年前と同じ場所にあった。

岩壁に斜めに開いた黒い口。その上に、木製の看板が斜めに掛かっている。『古代鉱山跡──推奨Lv5以下』。文字の半分は剥がれていた。入口の前に、プレイヤーの足跡がない。苔の生え方を見れば、運営が一年単位で誰も通していないと分かる。看板の下端には、誰かが彫りつけたらしい小さな落書きがあった。『ここから先、なにもなし』。文字は古い書体で、刃物の入り方が浅い。掘った人間は、もうこのゲームにはいない。そんな確信が、なぜか俺の胸の底に落ちた。

俺は足を止め、ログを一度だけ確認した。広場の囲みから、直線距離で二十三分。時速換算すれば、誰も追いかけてこれない速度で歩いてきた。それでも、首の後ろのパッドがまだ微かに熱い。VRヘッドの内側で、汗が一筋、こめかみを伝って落ちる。広場でこちらに向けられた視線の数を、頭が勝手に数え直していた。十六。十七。──やめろ、と自分に言った。数えても、消えない。

入口の手前で、空気の温度が一段落ちた。岩の匂いに、鉄錆の匂いが混じる。三年前もこの匂いだった。──更新されていない場所のテクスチャは、匂いまで変わらないらしい。吸い込むと、舌の奥に薄く金気が残る。嗅覚再現の精度は、当時と今で別物になったはずなのに、この坑道の匂いだけは、俺の記憶のなかの匂いと寸分ずれない。運営が触れていない場所は、時間ごと閉じ込められている。

「……どうせ、誰もいない」

独り言が、口から転がり出た。返事はない。広場の方向で、遠いシャッター音の残響だけが耳の奥で鳴っている。胃の底に、冷たいものが溜まったままだ。誰もいない、と口に出してみて、それが慰めなのか自嘲なのか、自分でも分からなかった。三年前なら、こんな台詞は決して言わなかった。誰かに聞かれているという前提で、俺はずっと喋ってきた。

俺はインベントリを開いた。

三年前のまま、全120スロットが埋まっている。上段の武具は、赤タグの「旧仕様」で埋め尽くされていた。鈍器、短剣、投擲ナイフ、縛鎖。ひとつ触ると、説明文の下に小さな注意書きが点滅する。

『この装備のスキル連携は、第17パッチで再設計されました』

指を離した。スキル連携と呼ばれる体系そのものが、刷新されているらしい。俺の手癖が、根元から通用しない。指先に残った、微弱な触覚フィードバックの硬さ。三年前、この短剣の柄を握る角度を、俺は何百回と微調整した。その角度の意味が、いま、どこにも残っていない。

画面を下へ、下へとスクロールする。

中段は素材と消耗品。下段は、使い道を忘れた依頼アイテム群。項目を順に舐めながら、スクロールの指に、少しずつ力を抜いていく。このあたりになると、もう赤タグすら貼られていない。運営が存在自体を忘れているのだろう。忘れられた、という表示はどこにもない。ただ、注釈が付かないことだけが、忘却の証拠だった。

最下段、97スロット目。

指が、止まった。

『鉛色の封蝋──用途:?』

説明欄はそれだけ。アイコンは、小さな封筒に黒い蝋印を垂らしたもの。取得日、1248日前。

──鉛色の封蝋。

俺は、しばらくそのアイコンを見つめた。

三年前、どこかで受けたまま消化しなかった配達物だ。記憶は薄い。だが、封蝋の色と形を見た瞬間、奥歯の裏のほうで、何かが疼いた。老人の顔。白く長い眉。廃坑の突き当たりにいたNPC。名前までは思い出せない。ただ、喋り方が変わっていたことだけ、覚えている。他のNPCより、台詞の行数が妙に多かった。あのとき俺は、台詞を最後まで聞かなかった。スキップキーを押した指の感触まで、いま不意に蘇ってくる。

受けたまま、放置した。当時の俺は、それどころではなかった。

──生きては、いたか。

封蝋のアイコンを、長押しする。ピン留めして、ホットバー二番に表示させた。これから、必要になる気がした。

俺は入口をくぐった。

坑道は暗い。ランタンの光源がほとんど消えていて、足元が一歩ごとに黒い。壁に掛かっていたはずの松明は、腐って倒れている。落ちた松明の上に、青いキノコが二本だけ生えていた。三年前にはなかった。時間が進んでいる場所の、時間の進み方。胞子の匂いがかすかに鼻をかすめる。生きている、と頭の隅で思った。誰にも見られていない場所で、それでもキノコは胞子を作る。

奥に行くほど、空気の鉄錆の味が濃くなる。舌先に、湿った金属の味。通路の分岐で、俺は左を選んだ。昔と同じ選択。体が覚えている。歩幅まで、当時のままだった。岩の出っ張りを避ける肩の引き方、足首の角度。三年間、別の人生を送ってきたはずの体が、ここに入った瞬間、勝手に過去の歩き方へ戻る。

分岐から三つ目の採掘広間。

そこに、老人はいた。

折れた鶴嘴に腰かけ、膝の上に布を広げ、何かを磨いている。頭巾、白い眉、深い皺。三年前と同じ位置、同じ姿勢。プレイヤーが来ないと決まった場所のNPCは、三年たっても、ただ磨き続ける。布の擦れる、しゅっ、しゅっ、という小さな音だけが、広間に染みている。その音は、俺がここに辿り着く前から鳴っていて、辿り着いたあとも、変わらず続いていた。

「……じいさん」

声をかけると、老人はゆっくり顔を上げた。

瞳の色が、記憶より薄い。

「……おう、お前か」

と、老人は言った。

それだけだった。

だが、その五音に、俺は一度、息を止めた。汎用NPCなら「ようこそ、旅の方」から始まる。この老人は、そう始めなかった。

「覚えているのか」 「お前の歩き方で、だ。昔と、同じだ」

老人の視線が、俺の腰のあたりに落ちる。そこにある短剣は、三年前の旧仕様。老人は、それを見て、口の端だけ動かした。笑ったのか、違うのか、判別がつかない。皺の谷の影が、ランタンの揺れに合わせて少しだけ動いた。三年前にもこの皺はあった。だが、こんなふうに動いた覚えはなかった。

俺は、インベントリから封蝋を取り出した。

掌の中で、鉛色の重みが、妙に生々しかった。アイテムの重量設定は、長く持っていると現実の筋肉が反応する。三年放置された荷物は、いま、確かに重かった。手首の腱が、わずかに引かれる。封蝋の表面の、冷たい滑らかさ。指の腹で押すと、蝋印の凹凸が、想像していたより深く彫られていた。

「これを、届ける約束だった」 「……ほう」 「遅くなった」 「一千と二百日か」

老人は、数を秒単位で言い当てた。

俺はひとつ、軽く笑いそうになった。笑えなかった。

「受け取ってくれるか」 「届け先は、儂ではない」

老人は布を膝から降ろし、立ち上がった。立ち上がる動作のモーションが、汎用NPCのテンプレートと、ほんの半拍ずれていた。膝を伸ばす前に、一度、踵に体重を乗せ直す。生身の老人がやる仕草だった。

「じゃが、儂が代わりに受け取る権は、持っておる」

俺は封蝋を差し出した。

老人の指が、蝋印に触れた、その瞬間──

画面の光量が、すっと落ちた。

視界の端、周辺のテクスチャが一段暗くなる。坑道の壁が黒くなり、採掘広間の光源が絞られる。老人の輪郭だけが、わずかに白く滲んだ。耳の奥で、環境音が一段引いた。落ちる水滴の音、遠くの岩鳴り、それらが一斉に音量を下げて、老人の呼吸音だけが、相対的に近く聞こえ始める。

そして、俺の視界に文字列が流れ始めた。

『──認証開始』 『鉛色の封蝋:ID未登録アイテム』 『受領者:廃坑の守人 不明』 『発行元:不明』 『保有者:クロウ』 『保有期間:1248日』

文字の並びが、公式Wikiで見た覚えのある形式と、微妙に違っていた。

普通のクエストアイテムなら、ここに発行NPC名が入る。入っていない。受領者の欄も、普通ならNPC名だ。それが「不明」のまま、白く点滅している。

──何だ、これは。

「爺さん、これ──」

問いかけようとした声が、途中で消えた。

老人は、もう答えなかった。

代わりに、文字列の下に、新しい行が現れた。

『条件確認中……』 『条件1:一度、頂点に立った者であること。(確認)』 『条件2:すべてを手放し、三年以上、離れた者であること。(確認)』 『条件3:自らの意思で、再び扉の前に戻った者であること。(確認)』

俺の指が、グローブの中で震えていた。

見覚えのない認証プロセスが、ひとつ、またひとつと通っていく。三年前、何度もチュートリアルのシナリオを踏んだ俺には、これがシステムの通常挙動でないことは、分かった。分かった上で、視線を外せなかった。条件文の一つひとつが、誰かに俺の三年間を覗かれた結果のように読めた。誰が書いた条件だ。いつ、書かれた。三年前にこれを準備した人間がいたとしたら、その人間は、俺がいま戻ってくることを、知っていたことになる。

老人が、初めてこちらを見た。

薄い瞳の奥に、三年前にはなかった、別の光が灯っていた。

「──思い出しそうか、若いの」

その声は、もう、汎用NPCの声ではなかった。

ざり、と。

俺の足元で、採掘広間の地面が、一段沈んだ。

文字列の最後の行が、いま、ゆっくりと表示され始めていた。

『第四条件:──』

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