Novelis
← 目次

残響視——外れスキルは古代神の鍵

第2話 第2話

第2話

第2話

岩肌に当てた左手の下で、鼓動に似た振動がもう一拍、確かに返ってきた。  悠人は息を止めたまま、その間隔を数えた。心音より遅い。地鳴りよりは速い。どこにも当てはまらないリズムだった。松明の炎が壁に引き寄せられたかのように横へ撓み、煤の匂いが濃くなる。指の腹から手首の内側に向かって、低い痺れが這い上がった。残響視で三年間、数百の品物と壁と骨に触れてきたが、この種の気配を拾ったのは、初めてだった。  一度、左手を離す。振動は岩の中に沈んでいく。掌の皮膚にだけ、生温い熱がしばらく残った。指紋の谷に、誰かに握り返された直後のような、微かな湿り気が残っている。 「……落ち着け」  自分に言い聞かせるつもりで口にした声が、湿った岩壁に吸い込まれ、返ってこない。それが余計に、この区画の異常さを裏付けた。音の跳ね返りが通路の奥へ抜けていかない——まるで、その先に空洞がないかのように、声が石に飲み込まれる。逆に言えば、石の中に、声を受け止めるだけの厚みがある。あるいは、石の向こうに、音を吸う別の何かがある。  袋を肩から下ろし、石床に置いた。松明を壁の溝に斜めに挿し直す。炎の角度を固定して、両手を空ける。深呼吸を一つ。鼻の奥に、花の蜜と錆を混ぜたような甘くて鋭い匂いが、さっきより一段濃く入ってきた。舌の裏に金属の味が滲む。  いきなり壁そのものを叩く前に、まずは周囲を洗う——三年、ガドやミナの後ろで荷物を詰め直しながら見てきた、先輩ハンターたちの手順だった。崩落の前、ここに誰かが居たはずだ。誰が、何を見て、どこで引き返したのか。その痕跡を読めば、壁の正体に一歩だけ近づける。  悠人は腰の革ポーチから短剣を抜き、刃先を使って、足元の砂利を静かに掻き分け始めた。

 砂利を爪で掘り返すこと、十数分。松明の影が石床の凹凸をなぞるたび、古い坑道の癖が見えてきた。壁の根元に沿って、肩幅ぶんだけ苔の色が薄い帯がある。崩落の前、ここに荷物を下ろして一度休んだ者が居た証拠だ。帯の端に、焦げ落ちた松明の柄が半分、砂に埋もれていた。  悠人は指先で柄を摘み上げ、残響視を通した。  ——火が尽きる直前の、苛立った息遣い。  ——「引き返すぞ」と呟く低い男の声。単語の輪郭だけ、拾える。  ——遠くで金属が金属を擦る短い音。仲間が先に立ち止まったのか、装備を外した音か。  ——その直後、松明の柄が放り投げられる感触。腕を振る勢いのぶれまで、手のひらに移ってくる。  顔も名前も読めない。だが、この柄の持ち主は壁に辿り着いて、何かに気づいて、引き返した。殺された気配はない。それだけで、悠人の心臓の走り方が一段遅くなる。少なくとも、壁は居る者を即座に殺す類のものではない——そう仮置きできる。いや、引き返させた、のほうが正しいかもしれない。  柄を元の場所に戻し、次の痕跡を探す。帯のさらに奥、壁ぎわの窪みに、ひしゃげた銀の鑑定器が転がっていた。刻印は旧協会のもの。十年前に様式が変わっているから、それ以前の品だ。表面は酸に似た何かで腐食し、針の読み取り部は完全に焼け落ちている。悠人は両手で鑑定器を包み、残響視の焦点を深く落とした。  残響視を濃く使うと、いつも鼻の奥が痺れる。鉄錆の味を後ろに引いて、花蜜の甘ったるさが前へ出てくる。——岩壁と同じ匂いだ、と遅れて気づいた。  器が最後に動いた瞬間の景色が、鏡面に一枚だけ焼きついていた。鑑定針が振り切れる寸前の、青白い閃光。使用者の手首の内側が、光に焼かれるように引き攣る。ぶれた視界の端に、岩壁の表面を走る、鱗のような紋様が一筋。鑑定器は「測れないもの」を測ろうとして、壊れたのだ。  その鱗の紋様に、悠人は見覚えがあった。  子どもの頃、姉が持ち帰った古い書物の挿絵の隅に、同じ走り書きがあった。姉は紙の端を指で押さえ、「霊脈の封印に使う印だよ」と笑って、幼い悠人の額を指で小突いた。その指の腹の乾いた温度までが、今、胸の奥に蘇る。挿絵の下で揺れていた蝋燭の炎、姉の前髪から漂った薄荷のような香り、ページを繰るときに立った埃の舞い方——記憶の粒子が一つずつ、松明の煤の匂いに重なって立ち上がってくる。あのとき姉は、笑いながらもどこか遠くを見ていた。あの視線の先に、この壁があったのかもしれない。  爪が、掌に食い込んだ。 「姉さん……ここに、来てたのか」  声が喉の奥で詰まった。今度は、壁がそれに応えるように、かすかに、脈を返した気がした。鑑定器を懐にしまう。革の内側越しでも、冷たい金属の重みが、さっきの閃光の残り香ごと、肋骨に触れた。

 悠人は壁の正面に立ち直した。  松明を壁の溝から抜き、両手に握り直す。炎の熱が掌に鈍く伝わるのを確かめながら、まず右手で、壁を軽く叩いた。コツ、と硬い音が一つ。続けて左手を、腹の辺りの高さに押し当てる。  今度は、さっきよりはっきりと振動が来た。  こめかみの血管が、一拍、跳ねる。  残響視を、指先から壁の奥へ細く送り込む。普段は物の表層、せいぜい数寸奥までしか届かない。だが、今日は糸を垂らすように、意識を深く潜らせた。こめかみが痛む。奥歯を噛んで、さらに送る。視界の端から色が抜け、松明の赤が灰色に変わっていく。残響視を限界まで伸ばしたときだけ起きる、軽い視野狭窄。耳の奥で、血流の音が水中のように籠った。喉の奥で唾を飲み下す音すら、遠い他人のもののように聞こえる。指先から肘、肩、鎖骨を経て、意識の糸が自分の体から少しだけ外れていく感覚——糸の先にぶら下がっているのが自分の自我なのか、それとも壁の向こうの何かなのか、一瞬、判じがたくなった。  壁の奥、何層もの岩を越えた先に、低く広がる空間の感触があった。  そこから——  微かに、歌のような、祈りのような、言葉にならない何かが漏れてきた。  一つの声ではない。幾つもの声が、重なり、折り畳まれ、時間の外側で同時に鳴っているような響き。神代語、と頭のどこかが囁いた。学院の書庫でちらりと見ただけの単語が、なぜかここで浮かぶ。意味は分からない。それでも、音の粒が胸骨の内側をなぞっていく。三年前、姉が家を出る前夜に鼻歌で口ずさんでいた旋律と、一音だけ、同じ高さの音が混じっていた。  悠人の膝が、勝手に折れかけた。  慌てて片手を壁につき、もう一方で袋の紐を掴む。耳鳴りが、今度は両耳の奥で高く鳴った。花蜜と錆の匂いが、喉から肺の底まで降りていく。息を吐くと、吐息が白くなる——この坑道の気温で、白くなるはずのない温度なのに、だ。  もう一度、壁に左耳を押し当てる。岩肌が、生温かかった。人の頬の熱に近い。耳朶の産毛がちりちりと逆立ち、鼓膜の奥で、先ほどの歌の残響が粘り気のある糸を引いている。 「……何か、居る」  呟きは、壁の振動に吸い取られて、返ってこない。悠人は唇を噛んで、無理やり一歩下がった。ここで倒れたら、誰も見つけてくれない。姉が戻ってこなかったのと、同じことになる。  残響視を切る。視界に色が戻り、松明の赤が目を焼いた。  壁を、もう一度、見上げる。高さは頭二つ分、幅は両腕を広げたぶん。どこにも継ぎ目がないように見える一枚岩。だが、指先で探った感覚では、表面に髪の毛ほどの縦筋が一本、走っていた。  爪で、そっとなぞる。  砂が、さらりと、こぼれた。

 悠人は手のひらを開き、落ちてきた砂を受け止めた。  細かい。乾いている。奥歯で噛んだら、甘い味がしそうなほど、粒が揃っている。三年間放置された崩落壁から出る、湿気を含んだ土砂ではない。砕けたのではなく、ふるいにかけられた砂。外側から誰かが壊したのではなく、中側から何かが、少しずつ、漏れ出てきている砂だ。  袋の底をまさぐり、姉の残した古い手帳の切れ端を取り出す。持ち歩くためにわざわざ油紙で包んである、唯一の形見。油紙を開き、指先で触れる。何度も読んだ残響の断片が、慣れた温度で返ってくる——ただし、今日は、その温度の奥に、壁から漏れてきたのと同じ、あの重なった声の一欠片が、確かに混じっていた。 「……姉さんも、聞いてたのか。これを」  呟きに、誰も答えない。松明の炎だけが、壁に向かって、もう一度、青く揺らいだ。  悠人は手帳を胸にしまい、両手で壁に掌を押し付けた。  脈が、合った。  壁の奥で、何か途轍もなく古いものが、こちらへ向かって、ゆっくりと目を開けようとしていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ