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残響視——外れスキルは古代神の鍵

第3話 第3話

第3話

第3話

壁の奥で目を開けようとしていた何かが、本当に、瞬きをした。  悠人の掌の下で、岩肌が一度、深く息を吸い込むように沈み込んだ。続けて、表面に走っていた髪の毛ほどの縦筋が、ふっと太くなる。亀裂の縁から、また砂がこぼれた。今度は、ふるいにかけたような乾いた粒ではない。指先に触れた瞬間に砕けて消える、白に近い色の粉——焼き締めた灰のような、軽くて熱を持たない粒子だった。掌の皮膚から、それが体温を奪うのではなく、こちらの体温に染まる前に勝手に消えていく。肌に残るのは、粉の重さではなく、粉があったはずの場所の、奇妙な空白だった。  松明の炎が、再び青く揺れた。 「……っ」  悠人は咄嗟に半歩、後ろへ下がった。膝が震えていることに、ようやく気づく。袋の口紐を握り直し、短剣を抜きかけて——やめた。この壁を、刃で突いたらどうなる。残響視で覗いた向こう側のあの重なった声が、応えるように刃を呑み込む光景が、瞼の裏に勝手に描かれた。喉の奥が、また鉄の味になる。舌の上で、その味は血の味よりもずっと古く、誰かが長いあいだ握りしめていた錆釘の、冷たい金属質を思わせた。  亀裂は、上に伸びていた。  頭の上、二度目の天井で止まり、横へ枝を張る。蜘蛛の巣のように、無音で、規則的に。崩落の音はしない。岩が落ちてくる気配もない。ただ、壁の輪郭が、自分から進んで描き直されていく。

 悠人は息を殺したまま、さらに半歩下がった。  壁の表面に走った亀裂が、ある瞬間、不意に色を失った。岩の灰色が、内側からゆっくり剥がれていく。剥がれた断片は、地面に落ちる前に、空中で粒に分解された。砂——いや、もう砂ですらない。光の粒に近い何かが、悠人の靴先まで滑り落ち、そこで音もなく消える。指一本ぶんの距離で、物質がただの「無」に還っていく様を、悠人は瞬きもせず見つめた。瞬きをした隙に、岩が一段ぶん余計に消える気がして、目を閉じられなかった。  壁が、消えていく。  崩落ではなかった。ほどけていく、という言葉のほうが、近い。誰かが結び目をほどくように、岩の縦糸と横糸が、一本ずつ抜かれていく。松明の炎は揺れたまま、青と赤を行き来する。鼻の奥に詰まった花蜜と錆の匂いが、いっそう濃くなり、舌の付け根が痺れた。唾を飲み込むたびに、その痺れが耳の後ろまで這い上がってくる。聞こえない音が、皮膚の内側で鳴っているようだった。  悠人の前方、両腕を広げたぶんの幅で、岩肌が腰の高さまで沈み込んだ。続けて、頭の高さまで。最後に、頭二つぶんの高さまで——壁があった場所が、丸ごと、空気だけを残して退いた。  風が、来た。  地下のはずなのに、奥のほうから、乾いた風が吹き上げてくる。湿った坑道の冷気とは、別の気流。砂漠の朝のような、淡い乾きを孕んだ空気が、悠人の頬を撫で、松明の煤をうしろへ流した。煤の流れた先を、目で追う。額にかいていた汗が、その風に触れた瞬間に、冷えるのではなく、ただ蒸発した。湿り気ごと、自分の輪郭が薄く削がれていくような錯覚があった。  目の前に、階段があった。  石段だ。  幅は、人ひとりが下りるのにちょうど良い。両端は、滑らかに削られた石壁。段の数は、数えきれない。松明の光が届くぎりぎりの先で、闇に呑まれて消えている。一段一段の角は、誰の足にも踏まれていないかのように、欠けひとつなく研がれていた。それでいて、新しいわけではない。石の表面には、長い時間だけが残せる細かい筋目が、確かに走っている。誰も降りていない、けれど、ずっと前から、ある。  悠人は石段の縁に、震える指を伸ばした。  冷たい。岩としての冷たさだ。残響視を、軽く触れさせる。  ——何も、返ってこない。  拍子抜けするほど、空白だった。三年間、悠人が触れてきたあらゆる物質には、必ず誰かの気配が薄く付着していた。見知らぬ職人が荒削りにした石にも、岩を運んだ獣の汗にも、必ず痕跡が残っていた。だが、この階段からは——人の気配も、獣の気配も、神代の歌のひとかけらも、何ひとつ拾えなかった。スキルを深く差し込もうとすればするほど、深く差し込んだぶんだけ、ただの静けさが返ってくる。井戸の底を覗き込んで、水面が映っていないことに気づいたときの、あの奇妙な平衡感覚。  まるで、誰の歴史にも参加しなかった石、だった。  悠人は指先を引っ込め、もう一度、下を覗き込んだ。下からは、相変わらず乾いた風が、ゆっくり、ゆっくり吹き上げてくる。風には匂いがあった。さっきまで壁から漏れていた花蜜と錆の匂いが、いまは、湿気を全部抜かれて骨だけになったような、軽い匂いに変わっている。吸い込むと、肺の奥が、ひとりでに冷たくなった。

 第十三層、と頭の中で誰かが呟いた。  旧坑道ダンジョンは、十五層まで確認されている——というのが、協会の登録上の事実だ。だが、この坑道で、十二層と十三層の境界に関する記述を、悠人は読んだことがない。十二層から先は、戦闘記録だけが上層部の機密扱いで残されていて、地図は配布されていない。それでも、十一層までの構造から外挿して描かれた予想図には、ちょうど悠人が今立っている地点の真下には、何も描かれていなかった。空白だった。  空白には、階段なんて、ないはずだ。 「……地図に、ない」  声が、自分の唇から漏れた。その声は、自分が出したはずなのに、やけに遠くから届いたように感じられた。坑道の壁が、もう自分の声を跳ね返さない。響きを失った声は、空気にほどけて、誰にも届かずに消えた。  協会に報告すれば、捜索隊が組まれる。即日、上層部直轄の調査班が降下し、旧採掘路は封鎖される。悠人は外野に押しやられ、最下層の異常事態は、Aランクと管理官の手に渡る。それは、組織として正しい手順だ。教本にもそう書いてある。  書いてあるが——  悠人は、自分の胸ポケットに手を当てた。姉の手帳の切れ端の重みが、布越しに伝わってくる。紙一枚ぶんの重さが、今だけは、短剣の鞘よりも重かった。さっき残響視で読んだ、あの重なった声の一片。姉の鼻歌と一音だけ重なっていた、神代の旋律。  姉は、ここに来た。  協会には、報告しなかった。  それが、何故なのかは、まだわからない。けれど、姉が組織を信用していなかったのなら、姉を追う者が、まず組織にこの階段を渡すのは、筋として、間違っている気がした。少なくとも、自分が先に、一段だけでも降りて、何かを見てから——その上で、報告するか、しないかを決めても、遅くはない。  遅くは、ない。本当に?  悠人は唇を噛んだ。歯の裏側で、薄く血の味がにじんだ。三年間、上に上がれなかった理由を、自分はずっとスキルのせいにしてきた。残響視は外れ札だ。だから、Eのままだ。だから、姉を探す任務には参加できない。だから——その「だから」の連鎖が、今、この階段の前で、突然、意味を失った。言い訳の土台だった石が、壁と一緒にほどけて、どこへも繋がらない宙に浮いていた。  誰にも止められないということは、誰にも許されないということでもある。  松明を持ち直す。柄が掌に食い込んだ。袋の重みを背負い直す。短剣の鞘の位置を、腰骨で確かめる。湿った石床の上で、踵が小さく音を立てた。その音が、この坑道で自分が立てた、最後のまともな音になる気がした。  階段の最初の一段に、つま先を乗せる。  石段は、悠人の体重を、静かに受け止めた。きしむ音もなく、揺らぐこともなく。ただ、足裏から、骨を通じて、低い了解のようなものが、膝まで上がってきた。歓迎でも拒絶でもない、ただ「来たか」とだけ告げる、感情のない頷きだった。

 二段目に、足を下ろす。  頭上で、いま自分が抜けてきた壁の輪郭が、薄く、もう一度浮き上がった。剥がれていた粒が空中で組み直されていく。閉じる気だ、と直感した。誰も降りなかったことにするつもりだ。報告するなら、いま、この瞬間、この場で踵を返さなくてはならない。  悠人は、振り返らなかった。  三段目。四段目。松明の炎が、足元の石段だけを赤く塗る。背中側で、ほどけていた壁が、ゆっくりと縦糸と横糸を結び直す音が、しない。音もなく、輪郭だけが戻っていく。閉じる、と知った瞬間に、後悔が一度だけ、肋骨の内側を引っ掻いた。爪の長い指が、内側から骨の間を走って、喉の手前で引き返していく。そんな感触だった。  それでも、足は止まらなかった。  花蜜と錆の匂いが、下からまた一段、濃くなる。重なった声の歌が、今度ははっきりと、耳ではなく胸骨の奥で鳴った。姉の鼻歌と同じ高さの一音が、その中に、確かに、もう一度、混じっていた。その一音だけが、胸の奥で小さく灯って、残りの暗がりを照らすほどの力はないのに、消えもしなかった。  悠人は、闇の底へ向かって、五段目に踵を下ろした。

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