第2話
第2話
火球は、俺の右手の指先で止まった。
正確には、止まったのではなかった。触れた瞬間、熱は俺の手のひらを通り抜けるはずの軌道から、くいと斜めに逸れた。逸れた、という表現も正しくない。軌道そのものが、俺の指の先にあった見えない何か──空気の継ぎ目のようなもの──の縁を、水が段差を滑り落ちるように撫でていった。
赤い光が、廃高架のコンクリート壁に薄く尾を引いた。壁に残ったのは、焦げ跡ではなく、ただの煤の線だ。火球は壁をかすって、十メートル先の街灯の根元、その影の濃い部分に、しゅう、と吸い込まれるようにして消えた。
音が遅れて届いた。発射音でも着弾音でもない、空気が一瞬だけ歪んだ音だ。耳の奥で、鼓膜の裏側を直接爪で弾かれたような違和感がある。俺は自分の右手を見下ろした。指先に、火傷はない。制服の袖口だけが、ほんの少しだけ、しゃりっと焦げていた。
冴木は、動かなかった。
街灯の光の下で、彼女は俺の手のひらではなく、俺の目の方を見ていた。値踏みするような冷たさはなく、ただ、ずっと前から待っていたものをようやく確認した、という種類の静けさだった。
「……やっぱり、か」
小さな呟きだった。俺に向けたのか自分に向けたのか、分からなかった。コートのポケットに手を戻した冴木は、それから一歩、俺の方へ近づいた。革靴の底でアスファルトの砂粒が鳴る。その音が、妙にはっきりと耳に残った。
「今の、自分で何をしたか分かるか」
分かるわけがない。俺は、ただ、ノートを庇うように手を出しただけだ。火球が指先に触れた瞬間、熱よりも先に、自分の手と火球の間に、何か薄い紙のようなものが挟まっている気がした。その紙を、ほんの少しだけ、指の腹でずらした。それだけだった。
「君の煙霧は、弱くない」
冴木は、さっきと同じ台詞を繰り返した。今度は、続きを用意していた。
「屈折率を書き換える能力だ。空間の、だ」
意味が、すぐには頭に入らなかった。理科の教科書で見た言葉だ。光が水の中に入るときに曲がる、あの現象の係数。それと、今、自分の指先が火球を逸らしたことが、どうしても結びつかない。
「空間そのものに、薄い膜を張れる。膜の向こう側では、物質も、光も、熱も、君の指定した角度に沿って進む。──今の君は、まだ無意識に、自分の半径数十センチの空気に膜を張って、火球の軌道を数度だけ傾けた。それだけで、あの火球は壁を滑って街灯の影に落ちた」
冴木は右手を上げて、暗い空間に人差し指で弧を描いた。
「もう一発、行くぞ。今度は、自分で意識して触ってみろ」
返事をする前に、高架の向こうから二つ目の赤い点が生まれた。
俺は右手を前に出した。さっきと同じ位置。火球は迫る。熱気が頬を打つ。恐怖は、一拍遅れてやってきた。前は反射だった。今は選択だ。選択すると、手のひらが震える。
指先に、さっきの「紙」の感触を探す。あった。あったのではなく、気づいた、という方が近い。膜は、最初から俺の指の先にあった。高校に入った日も、加納に最初に焦がされた日も、希が倒れた日も、百円のコーヒーを買った瞬間も、ずっとそこにあった。俺が触れなかっただけだ。
指の腹で、膜を、今度は少し大きくずらす。
火球の軌道が、ぐん、と下に折れた。下がりすぎたと思った瞬間、斜め後ろへ。さらに斜め後ろへ。街灯の根元の影、そのいちばん濃い一点を目掛けて、火球は滑らかに吸い込まれていった。しゅう、と空気が鳴って、影が一瞬だけ赤く脈打ち、それから元の色に戻った。
手のひらが、痺れた。冷たくはない。熱くもない。ただ、自分の指先と、十メートル先の街灯の影が、同じ回路で繋がっている感覚だけが残った。俺の膜の向こうでは、光も熱も、俺の指定した角度へ流れる。冴木の台詞が、後から意味を帯びて追いかけてきた。
「──できた」
冴木は、口元だけをわずかに緩めた。笑った、と呼ぶには冷たすぎる動きだった。
俺は、息を吸い直した。肺の奥まで冷たい空気が届いて、そこでようやく、自分がさっきから一度も深呼吸をしていなかったことに気づく。舌の根に、鉄の味がした。口の中を噛んでいたらしい。
「今の感覚、覚えておけ。膜は、一度触れれば、もう手放せない。明日の朝、君の指先は昨日までの指先じゃない。歯を磨くときも、缶コーヒーのプルタブを引くときも、黒板に当たった太陽の光が誰の机で屈折しているかが、全部、君の指先で分かる」
脅しでも、勧誘でもない口調だった。ただの事実確認のように聞こえた。
「上位能力、という言葉は、君もニュースで聞いたことがあるだろう」
聞いたことはある。全国の能力者の、上位〇・一パーセント。Sランクよりさらに上の、区分不能とされる能力群。俺は、頷くこともできずに、ただ冴木を見返していた。
「上位、なんて──俺は」
俺は煙霧だ。最弱判定のEランクだ。三年間、加納たちに焦がされて、佐伯に見捨てられて、希の督促状の番号を数えながら、缶コーヒーを飲んで生きてきた。その俺が、上位。言葉が舌の上で滑って、うまく発音できなかった。
「煙霧は、君の本当の能力の、漏れ出たおこぼれだ。膜の表面で光が乱反射して、半径一メートルが三秒だけ曇る。判定員は、そのおこぼれだけを見て、君の全部を決めた」
冴木は、そこで少しだけ間を置いた。
「判定員を恨めとは、俺は言わない。恨みたければ、恨めばいい。だが、先に一つだけ、君の目で確認させる」
彼女がコートの内側から、小さな円形の鏡を抜き出した。化粧用の、折り畳み式のコンパクト。銀色の縁に、さっきの徽章と同じ刻印があった。冴木はそれを開いて、鏡面を俺の顔の高さに合わせた。
「見ろ」
俺は、見た。
鏡の中の俺の右目の瞳孔が、縦に裂けていた。
猫のような、というより、カメラのレンズの絞りが一段階閉じたような、幾何学的な裂け目だった。黒目の中心に、縦長の細い隙間がある。その隙間の奥で、俺の知らない夜景が揺れていた。街灯の光が、上下反転している。コンクリートの壁の影が、天井から吊り下がっている。俺が今立っているはずの廃高架下の風景が、俺の瞳孔の奥で、ひっくり返っている。
──反転している、のではない。
鏡の中の瞳孔の奥で、俺の指先の膜が、世界の光の角度を決め直している。俺が無意識に設定した角度に従って、光はまず俺の瞳孔の奥で屈折し、それから俺の網膜に届く。俺は、俺の目で世界を見ているのではなかった。俺の膜の向こう側に見える「別の角度の夜景」を、いつの間にか、自分の視界として受け入れ始めていた。
吐き気が来た。でも吐かなかった。指先の痺れが、今度は後頭部の根元まで昇ってきて、耳鳴りに変わった。耳鳴りの底で、誰かの心臓の音がする。これはたぶん、俺の心臓ではない。俺の膜の向こう側で、俺が今まで見えなかった世界そのものが、ゆっくりと息をしている音だ。
冴木は、俺の顎の下から、そっとコンパクトを閉じた。鏡が閉まる、ぱち、という音で、夜景の反転が元に戻った。瞳孔は、たぶん、まだ縦に裂けている。だが、視界は、さっきまでの廃高架下に戻っていた。街灯の光は上から下へ、影は地面に落ちている。
「これが、君の覚醒の第一段階だ」
冴木の声は、やっと少しだけ、温度を取り戻していた。
「──おめでとう、と言う気はない。君は今から、これまでの三年間を裏返して生き直す」
冴木は、右手を俺の方へ差し出した。
細い指。爪の先まで揃った、肉体労働をしない人間の手。夜辻、という名前が、再び耳の奥で鳴った。ニュースのテロップの赤い文字と、母さんが夜勤から帰ってくる時間と、希の病室の白い天井が、一瞬で頭の中に混在した。
この手を取れば、加納に焦がされる日々は終わる。佐伯に見捨てられる日々も終わる。督促状の番号は、たぶん、もう数えなくてよくなる。
だが、その代わりに、俺のノートの余白に、誰の名前も書けなくなる気がした。
守りたい顔。名前。それだけのリスト。組織に入るということは、あのリストの外側に、線を一本引くことだ。線の向こう側の世界では、百円の缶コーヒーの味も、舗装の継ぎ目に生えた雑草も、たぶん、今と同じ重さでは愛せなくなる。
俺は、差し出された手を、見つめた。
取らなかった。
冴木の眉が、わずかに動いた。怒りでも失望でもない、ただの観察。彼女はゆっくりと手を引いて、ポケットに戻した。
「返事は、今じゃなくていい」
彼女は、背を向けた。コートの裾が夜風に揺れた──風は、なかったはずなのに。
「次に君が膜を張ったとき、また会う」