第1話
第1話
放課後の五限終了チャイムと同時に、赤い火球が俺のこめかみの寸前で弾けた。
焦げた髪の匂いがする。前髪の右側が二センチほど縮れて、制服の肩にちりちりと灰が落ちた。教室の後ろで、炎使いの加納が笑っている。取り巻きの二人も笑う。三年前の全国能力判定で最上位Aランクに認定された男は、机の上に胡座をかいたまま指先で小さな火を回していた。
「煙霧、また避けそこねたな」
避けそこねたんじゃない。避けなかっただけだ。避けると、こいつらは調子に乗って二発目を撃つ。三発目も撃つ。最終的に二年四組の窓ガラスが一枚割れて、担任の佐伯が「黒咲、ちゃんと注意しないと」と俺を叱る。ここ半年のパターンだった。
教卓の佐伯は、今日も手元の出席簿をめくるふりをしている。ボールペンのノック音だけが、不自然なリズムでカチカチと鳴り続けていた。見ていないことにすれば、見なかったことになる。Eランクが一人焦げようと、Aランクの将来に傷がつくよりはマシだ。能力判定局の推薦枠、進学先、就職先──この国では能力ランクが履歴書の一行目に書かれる。教師だって、自分の評価のために動く。
「煙霧」。俺の能力名だ。黒咲陣、高校二年、最下位Eランク。効果は半径一メートルの視界を三秒曇らせるだけ。煙幕と違って有害でもなく、幻惑と違って持続もしない。判定員に鼻で笑われて付けられた名前を、俺はそのまま学生証にプリントされて持ち歩いている。
二発目の火球が、今度は右耳の真横を通った。
熱がうなじに触れて、首筋の産毛がちりちりと縮れる。焦げ臭さと制汗剤の甘ったるさが混ざった、この教室特有の匂いにも、もう慣れてしまった。怒りすら湧かない自分に、少しだけ失望する。
「反応、鈍ってんぞ。霧、出してみろよ」
加納の声に、取り巻きが手を叩いた。俺は黙って鞄を肩に引っ掛け、教室を出た。廊下の蛍光灯が、昇降口の方向へ一直線に伸びている。継ぎ目で微かにちらつく安物のLED。俺は、この白さが好きだった。
昇降口の手前で、自販機の前に立つ。百円玉を二枚、ポケットから指で掘り出す。摩擦で温まった硬貨の角。投入口に滑り込ませると小さな金属音がして、ボタンがオレンジに光った。微糖を押す。
ガコン、と缶が落ちてくる。取り出し口の奥、ぶつかった反動で一度跳ねる音。プルタブを引いて口に含む。苦くて、甘すぎて、温い。舗装の継ぎ目を跨ぎながら駅の方へ歩き出す。
俺はこの缶コーヒーが本気で好きだ。蛍光灯の青白い光も、踏切の警報音が遠くで鳴っているのも、アスファルトの皸に雑草が一本だけ突き出ているのも、全部好きだ。最弱だろうが、焦げようが、この現代が手放せない。だから毎日、鞄の中に一冊のノートを入れている。
電車の最後尾、扉の脇に立って、内ポケットから抜き出す。ページを開くと、ボールペンの筆圧で紙が波打っていた。
「黒咲希、十歳」 「母さん、四十四歳、夜勤」 「佐伯先生(たまに優しい)」 「駅前のパン屋のおばちゃん」
守りたい顔。名前。それだけのリスト。加納の名前はない。教師たちの名前も大半ない。俺の世界は狭い。だが狭いからこそ、守れるなら、全部守り切りたかった。ノートの最後のページには、まだ書けていない名前の空白が五行分ある。いつか書き足したい、けれど今の俺では書く資格がないと思える人たちのための余白だ。
窓の外、夕陽がビルの稜線に刺さっている。ガタンと車両が揺れて、正面の窓に自分の顔が映った。焦げた前髪、腫れた頬、無表情の目。鏡の中の俺はひどく平凡で、そのことに安心した。
帰宅して、郵便受けを開ける。見慣れた水色の封筒。市立総合病院。妹の入院費督促状。封を切る前から、中身の文面は暗記していた。
「三回目の請求です」
希が倒れたのは去年の冬だ。先天性の免疫疾患、治療には定期的な投薬と長期の入院が必要で、母さんは工場の夜勤を増やした。俺はEランク枠のアルバイトでは稼ぎが知れていて、それでも毎月末、封筒の数字を見るたびに指先が冷えた。
冷蔵庫の中に、希が退院したら作ると約束したプリンの材料が、まだ残っている。卵と、牛乳と、グラニュー糖。賞味期限はあと三日。希が退院する予定日は、来月の末のはずだった。先週、先々週と、その予定日はじわじわと後ろへずれていって、俺は母さんに理由を聞けなくなっていた。
俺は台所に立って、空のコーヒー缶をゴミ袋に落とした。ガサ、と袋の底でレシートの束が潰れる音がする。流しの蛇口から水滴が一つ落ちて、ステンレスの底で鈍く跳ねた。部屋の中で動いている音は、それだけだった。
日付が変わる頃、家を出た。眠れなかったのとは少し違う。眠ると明日が来る。明日が来ると、また加納が火球を投げて、佐伯が目を逸らして、督促状の番号が四に繰り上がる。その連鎖の中で、俺がノートに書き足せる顔は一つもない。
行く当てはなかった。ただ、家からいちばん遠い駅までを歩くことにした。途中、廃線になった高架の下を通る。十年前に貨物専用線が廃止され、コンクリートの柱だけが等間隔に残されている。街灯の光が柱の根元で斜めに折れて、長い影を引いていた。
その影の一本が、動いた。
俺は立ち止まった。靴底でアスファルトの砂粒がじゃり、と鳴る。自分の呼吸が、やけに大きく耳に届いた。柱と柱の間、三番目の光の切れ目に、黒いコートの女が立っていた。身長は俺と同じくらい、髪は肩で揃えられていて、顔だけが街灯の光の外にある。コートの襟元に、見覚えのない銀色の徽章が留められていた。鳥のようにも、刃物のようにも見える、奇妙な形だった。
「黒咲陣くん。高校二年生。能力判定Eランク、煙霧」
名簿を読むような平板な声だった。俺は返事をしなかった。返事をしたら、この時間が本当のことになってしまう気がした。喉の奥で、心臓だけが一拍遅れて暴れている。
女はゆっくりと光の中へ一歩踏み出した。二十代後半くらい。化粧は薄く、目元だけが異様に冷たい。瞳の奥に、俺の知らない種類の疲労が沈んでいた。一度見たら忘れられない類の目だ、とどこかで他人事のように思う。
「誤判定だ」
彼女は言った。
「君の煙霧は、弱くない。測定器の方が壊れている。──君の本当の位階は、判定員が見たら全員その場で膝をつく」
風もないのに、アスファルトに落ちた影がわずかに震えた気がした。缶コーヒーの百円と、ノートの名前と、焦げた前髪の匂いが、女の一言で少しだけ遠くなった。意味が分からなかった。意味が分かりたくなかった。俺の煙霧は三秒の目くらまし、それ以上でも以下でもない。そう判定員から宣告された日から、俺はこの制服を着て、缶コーヒーを飲んで、妹のためのノートを書いてきた。その足元を抜かれたら、俺は今日までの三年間を何と呼べばいいのか分からなくなる。代わりに、耳の奥で誰かの心臓が一度、ゆっくりと大きく鳴った。たぶん、俺自身の。
「……誰だ、あんた」
出した声が、情けないほど掠れていた。
女はコートのポケットから手を抜いた。何かを差し出すわけでもなく、ただ手のひらをこちらに向ける。指は細く長く、爪の先まで不自然に揃っていた。肉体労働はしない人間の手だ、と反射的に思った。
「冴木。夜辻(やつじ)という組織の、勧誘官をしている」
夜辻。ニュースで何度か聞いた名前だった。能力犯罪の温床、地下組織、国家の敵。テロップの赤い文字が脳裏をよぎる。先週も、駅の構内モニターがその二文字を大写しにしていて、背景で警察庁の男が眉間に深い皺を寄せていた。関わったら終わる方の単語だ。関わった人間の名前は、数週間後に別のニュースで、別の意味で流れる。
冴木は笑わなかった。
「今から、君の力を一つだけ見せる。抵抗しなくていい。ただ、立っていて」
彼女の右手の人差し指が、軽く宙をなぞった。指先が空気を切る、その微かな音まで聞こえた気がした。
高架の向こう側、闇の底から赤い点が生まれた。点は膨らみ、鞭のように伸び、一本の火球になって俺の胸の真ん中を目指して飛んでくる。加納の火球とは速度が違う。温度も、殺意も、違う。顔の皮膚に叩きつけられる熱気だけで、加納のそれの何倍も重い。秒がゆっくりになった気がした。街灯の光に赤いものが燦々と映り込み、廃高架のコンクリートに、俺の影を二つに引き裂きながら近づいてくる。
逃げる時間はなかった。避ける余裕もなかった。俺はただ反射的に右手を前に出した──ノートを庇うときの癖で。
指先が、何かに触れた。空気でも、熱でもない。世界そのものの、継ぎ目のようなものに。薄い膜の下で、何かがごく小さく、静かに、息をしていた。俺の手のひらの温度より、ほんの少しだけ冷たかった。