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忘却の縦穴で魔物図鑑とスローライフ

第3話 第3話

第3話

第3話

石碑の裏で、ルカは息を殺した。

懐のモウモウは、すっかり蒼く沈んでいる。主の感情温度=恐怖。頭の片隅で図鑑の注記が滲むが、読み返すまでもない。膝の裏の汗はもう冷えきって、石目に押しつけた額の下で、自分の脈が石へ伝わっていくのがうとましかった。

縁を転がる小石の音が、やんだ。

やんだことの方が、かえって悪い兆しに思えた。森の奥で、ラスト・ハウンドの遠吠えは尾を引きずらず消えている。鳥の羽ばたきも、虫の羽音もない。縦穴は、周囲の音を一本ずつ引き抜いていくように、夜の深さを内へ吸い込んでいた。

「坊や、いい焚火じゃねえか」

石碑の反対側から、焼き入りのブーツが軋んだ。湿った革の匂いと、安酒の呼気が、風のない夜気に張りつく。ルカは目を閉じた。城下の裏路地で振り切ったつもりでいた三つの影——剣と棍棒と細縄。森の縁は追い剥ぎの墓場ではなかったのか、と問いかけた自分の楽観が、いま背筋の真ん中を這い登ってくる。

「スライム連れが森へ迷い込むなんて、死にに来たのかよ」

棍棒の男が笑った。もう一人が細縄の先端を指先で弾く。縄の結び目の数を、ルカは数えた。三つ。人を吊るすときに滑らぬよう、摩擦を増やすための結び方だった。

ルカは立ち上がらなかった。立てば背丈で彼我の差が出る。膝をついたまま、焚火の明かりのぎりぎり外へ、手首の焼印を隠すように腕を引いた。

「銅貨、四枚だ」と、震えを押し殺して告げる。「それで勘弁してくれ」

剣の男が、焚火越しにかがみ込んだ。頬の傷痕が、炎の影で長く伸びる。

「四枚ぽっちを寄越す奴の懐は、他にも何か入ってるって相場だ」

革手袋の指が、ルカの襟首を掴んだ。繕い糸が、ぶつりと音を立てて切れた。

襟ごと焚火の明かりの下へ引きずり出された。男たちの影が、三方から一度に伸しかかる。棍棒の切っ先で顎を持ち上げられ、ルカは強いて瞼を開いた。

「手首、見せな」

顎から手首へ、切っ先の冷たさが滑った。革手袋が強引に袖を捲る。銀首輪の焼印——訓練生の紋章が、焚火に炙られて浮いた。

「銀の首輪から叩き出された訓練生崩れか」

剣の男が口の端を歪めた。

「身売り相場、低いなあ。子供買う店でも、首輪持ちの落ちこぼれは嫌がる。縁起悪いってよ」

棍棒が、笑いながら肩を小突く。ルカは痛みより先に、腰骨の古い打撲痕へ響いた衝撃で、息を漏らした。男たちは顔を見合わせ、笑い声を一段、高くした。

「銅貨四枚と、スライム一匹と——」

細縄が、ルカの懐へ伸びた。モウモウを包む指を引き剥がそうとする。スライムは主の体温を写して、ぬるりと男の指の間を滑り抜けた。戦わない個体の、唯一の処世術だ。

「ちっ、使えねえ魔物まで連れてやがる。おい、これは『お帰しプレゼント』で済ませろよ」

剣の男が、顎をしゃくった。先端が縦穴の縁へ向く。

ルカの喉が、ひゅ、と音を立てた。

「……待て」

「待てるわけねえだろ。銀の首輪を放り出された坊やが、縦穴の縁で野宿。定番のやつだ。朝までに姿が消えてりゃ、追い剥ぎの仕業じゃなく、ダンジョンの仕業になる。俺ら、手も汚さなくて済む」

襟首を掴む手に、力が入った。ルカの視界が、焚火の明かりから、一気に縦穴の黒へ振られた。苔むした縁、朽ちた鎖帷子の欠片、祠の陰の焚火跡——今夜、寝床に選ぼうとした景色が、反転して足元で逆さに開いた。胃の底が、ひゅっと持ち上がる。

頭の中で、羊皮紙が、また、勝手にめくれる音がした。

《落下予測・第一層苔壁にて減速/第三層まで到達可能性・七割》

自分の頭の中の紙が、こんな計算までするとは知らなかった。知らなかったと思うより先に、懐のモウモウが蒼から鈍い橙へ、一瞬だけ色を変えた。主の感情温度=覚悟、と図鑑の端に細い文字が走る。

覚悟なんて、持った覚えはない。

ただ、この男たちの掌の中で朝まで転がされるより、縦穴の苔壁に賭ける方が、いくらかましだ、という計算が、勝手に肚の底で決裁された。三年磨いた見習いの床の冷たさが、膝の裏を押した。

「あばよ、坊や」

襟首が、離された。

ルカは背中から、夜に放られた。石碑の角が視界の端を掠め、星の粒が薄い帯になって流れる。冷たい空気が耳元で甲高い笛の音を立てた。重力が下へ引くというより、縦穴の闇がこちらを吸い上げているようだった。

落下の初速で、腰帯から火打石が飛んだ。次に、腰の短剣も鞘ごと抜けた。ルカは懐のモウモウだけを両手で抱えた。頭上で、焚火の明かりが、銅貨ほどの大きさに縮んでいく。追い剥ぎの哄笑は、もう届かない。届かないという事実だけが、奇妙に鮮明だった。

一層目の苔壁が、背中を擦った。図鑑の予測どおり、落下は一瞬で減速する。湿った苔のクッションが、ルカの体を斜めへ逃がした。そこから、ずるり、ずるりと、縦穴の螺旋状の岩肌を滑り落ちていく。二層、三層——松明の焦げ跡も、鎖場の遺物も、視界の端を千切れた帯になって後ろへ流れた。

意識が一度、ぶつりと途切れた。

——鉄錆と、湿った石の匂い。

それが、戻ってきた最初の感覚だった。

ルカは仰向けで、どこかの岩棚に横たわっていた。右の肩甲骨の下で、モウモウがやわらかく潰れて、ルカの体重を支えている。スライムは主の落下に合わせて、体積を広げ、クッションに変じたらしい。非戦闘個体群——けれど、こういう使い方を覚える魔物なのか、とルカは遅れて知った。

頭上に、縁の焚火の光はもう無い。

左腕が、痺れている。曲げてみると、肘の外側が鈍く疼いたが、骨は通っていた。膝の皿も無事だ。腰の古傷に新しい痛みが重なったが、立てないほどではない。ルカは岩棚の端に手をつき、上体を起こした。

周囲は、洞穴ですらなかった。

天井が、見えない。壁はある。けれど、壁と壁の間が、ルカの声の反響が戻ってくる距離より遥かに広い。床は黒い玄武岩で、細かい鱗状の文様が刻まれている。文様の溝の底に、わずかに青白い燐光が滲んでいた。魔力の線——ただし、ギルドの教本に載っている如何なる描写にも当てはまらない。

頭の中で、羊皮紙が、静かに開く。

《位置・第七層 更に下方/座標記録・無し》

ルカの喉が、乾いた音で鳴った。

第七層は最下層だ。攻略記録の最前線。その「更に下」は、冒険者ギルド連盟の図書館にも、ライゼルの酒場の与太話にも、一行の記録もない。

岩壁に手を添えて、ルカは歩き出した。歩幅一つ分進むごとに、床の鱗文様の燐光が、足の下でだけ、呼応して明るくなる。誘われている、と感じた。誘われていることを自覚しながら、足は止まらなかった。

歩くうち、空気の密度が変わった。湿気ではない、音の密度が薄くなった。自分の草履が床を擦る音さえ、吸われる。耳鳴りだけが、ルカの頭蓋の内側で細く鳴った。

やがて、岩壁の向こうに、それが現れた。

黒い扉——と、呼ぶしかないもの。

高さは大人の身丈の三倍。幅は馬二頭が並ぶほど。素材は分からない。金属ではない、石でもない、木でもない。表面は光を呑み、燐光を反射せず、ただ、こちらの視線だけを吸い込む。枠にも蝶番にも装飾はなく、中央に、ひとつだけ、古い符が刻まれていた。

ルカは、その符を読めなかった。古代神代文字でも、王国文字でも、テイマーギルドの記号でもない。見たことのない字だ。

けれど、頭の中の羊皮紙が、ページを一枚、勝手にめくった。

見開きは、真っ黒だった。焚火の縁で《未記載》と滲んだ、あの黒と、同じ黒。

違うのは、その黒の中央に、滲みではなく、はっきりとした白い文字で、一行だけ、浮かんでいたこと。

《扉の向こう・契約可能存在・一。三百十二年、未記載》

三百十二年——。

ルカは、呼吸を止めた。

止めた息の下で、モウモウが、橙からゆっくりと、見たこともない色へ変じていく。蒼でも赤でもない、金色の縁取りのある透明。図鑑の端に、注記は、走らなかった。走らなかったことが、いっそ、答えのように思えた。

扉は、押すのでも引くのでもなかった。

ルカが足を一歩、踏み出したとき、床の鱗文様の燐光が一斉に白く跳ね、扉の中央の符が、血を通わせたように脈打った。風でもなく、音でもない、ただ「応え」のようなものが、扉の向こうから返ってきた。

呼んでいる。

それも、三百十二年、誰にも呼ばれなかった者が、ようやく一人分の足音を聞いたような、静かな応えだった。

ルカは、掌のモウモウを握り直した。銅貨四枚も、ギルドの首輪も、もう無い。手首の焼印だけが、燐光に炙られて、妙に鮮明に浮かぶ。

「……モウモウ。俺たちな、堕ちた先で、まだ降りるらしい」

羊皮紙が、もう一枚、めくれた。次の見開きは——白紙だった。白紙のまま、しかし、ページの端だけが、古い封蝋のような赤で、かすかに滲んでいた。

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