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忘却の縦穴で魔物図鑑とスローライフ

第2話 第2話

第2話

第2話

焚火の端で、干し肉の油がじりと音を立てた。

ルカは息を詰めたまま、縦穴の縁から目を逸らさない。闇は瞬きを終え、またもとの黒に戻っていた。気のせいだったのか、あるいは向こうがこちらに気づいて息を潜めたのか——判じかねるまま、頭の中の羊皮紙はじりじりと滲み続けている。

《未記載》

たった三文字。図鑑は、いまだかつて、これほど短い項目を寄越したことがなかった。スライム一匹にすら二十行の説明を付ける癖のある頭の中の紙が、縦穴の底に対しては名乗りすら書けずに黙り込んでいる。

「……モウモウ、空気、違うよな」

懐で、スライムはゆるく紫に濁った。主の感情温度=戸惑い。図鑑の端に、小さな注釈が走る。

ルカは無理やり視線を焚火に戻した。湿った枯葉が、白い煙を細く上げている。その煙を目で追ううちに、ふと、酒場の窓越しに見たリアンの横顔がよみがえった。

——「最年少で《首輪持ち》ねえ。セレスのとこは家系が家系だ」 ——「違えよ。あいつの白狼、先月、北辺で《血狼種》を単独撃破したんだと。昇進は実力だ」

裏路地へ逃げ込む直前、窓際の酔客たちがそう漏らしているのを、ルカは確かに耳の端で拾っていた。耳で拾って、胸の底にそっと沈めて、蓋をした。いま焚火の煙に炙られて、その蓋が静かに浮き上がってくる。

血狼種。第五等級。リアンの白狼が単独で仕留めた敵。三年前、同じ日に入門した男の背で、いまはそんな化物の名が勲章として光っている。

ルカは干し肉の端を口の中で噛み直した。塩気が舌の奥で薄く広がり、噛み切れない筋が歯の間に挟まる。その筋の感触を、ルカは「自分の分際」だと思った。ここまで情けなく来た人間が、手品じみた勲章の話で胃を痛めるくらい、もう、似合いだった。

森の奥で、枯枝の折れる音がした。

ルカは焚火の明かりから体を外し、石碑の陰へ低く屈んだ。追い剥ぎが森の縁まで踏み込むのは稀だ——つまり、足音を立てた何かは人ではない。低い唸り。湿った鼻息。苔の上を、四肢で踏む気配。

木々の隙間から、灰色の毛皮が月光を撥ねた。

胴の長い、犬より一回り大きい獣。背には短い棘の列、前足の爪だけが不自然に赤黒い。ルカは息を殺し、その姿を見据えた。頭の中で、羊皮紙が、今度は迷いなく開く。

《ラスト・ハウンド/第三等級/夜行性・単独狩猟型/弱点=左後肢関節下(古傷由来の神経痕)/契約条件=喉笛に触れずに眼を三秒合わせる》

ルカは、口の中の干し肉を、思わず吐き出しそうになった。

——第三等級。スライム一匹と野宿しか持たない訓練生崩れの前に出る格ではない。ギルドの見習いなら、遭遇時点で笛を吹き、複数人で囲むのが鉄則の魔物だ。それが、一匹、ふらりと、焚火の方へ鼻を向けている。

弱点・左後肢関節下。

頭の中の図鑑が、関節の位置に小さな十字を書き込んだ。神経痕。古傷。——自分の妄想が、これほど具体的な医学用語を吐くだろうか。ルカは指先が、膝の上で震えているのを遠くで眺めた。

ラスト・ハウンドは焚火の光を嫌ったのか、一度唸り、半歩下がる。その半歩で、左後肢が一瞬、地面から浮いた。着地の仕方が、他の三本と違った。かばうように、そっと置いた。

古傷。

図鑑のとおりだった。

ルカの口の中で、塩気が急に濃くなった気がした。心臓の鼓動が、耳の奥で一つずつ数えられるほどに遅くなり、それから、ぐっと速く駆け出した。

「……本当、なのか」

呟きは、枯葉を擦る夜風にかき消された。ラスト・ハウンドは警戒を続け、焚火の周りを大きく回り込む。弱点を晒したくないのか、左後肢を外側に置く歩き方だ。図鑑の書き込み線と、獣の実動が、一本ずつ重なっていく。

かつて師匠のガルが、訓練所の砂庭で言った台詞が、唐突に耳の奥で再生された。魔物は嘘を吐かぬ、嘘を吐くのは人間の目の方だ、と。ルカは当時、その言葉を「才能のない弟子を慰める決まり文句」として受け流した。違った。受け流したのは自分の頭の中に毎日開くこの紙のほうだったのだと、森の夜気の中で、ようやく気づいた。

モウモウが懐で、温度を一段、上げた。赤く色づく。主の感情温度=高揚。

ルカは焚火の縁の、拳大の石を一つ拾った。

投げる、という選択肢が、一瞬だけ頭をよぎった。

弱点が見えているなら、石一つでも——いや、違う。ルカは石を握り直し、指の腹で表面を確かめた。ラスト・ハウンドは単独狩猟型。下手に怪我を負わせれば、縄張り意識で逆襲に転じる。図鑑の注記が、続きの行をさらさらと書き足していく。《追跡距離・三キロ》《同種呼集フェロモン・喉腺》。

——攻撃は、駄目だ。

ルカは石を、そっと足元に戻した。

息を整え、焚火の煙を吸い込む。煙の苦さが喉の奥を撫で、不思議と肚が据わった。彼は立ち上がらなかった。立ち上がれば威嚇と取られる。ただ、膝を崩さず、背筋だけを伸ばした。ラスト・ハウンドの黄色い瞳が、こちらを捉える。

契約条件。眼を、三秒、合わせる。

一秒。

灰色の毛皮の下で、肩甲骨がゆるりと動いた。獣の呼気は、生肉と湿った毛の匂いがした。ルカの額に、汗が一粒、滑る。

二秒。

ルカは瞬きを堪えた。瞼の裏で、図鑑のページが乾いた音で一枚、進む。《瞳孔径・三・五ミリ/敵意判定=未成立》。獣の眼の奥で、黄色い虹彩の縦線が、薄く広がる。敵意ではない、値踏みだ。

三秒——

その、最後の一拍の手前で、ラスト・ハウンドは鼻をふ、と逸らした。

森の奥で、もう一頭の遠吠えが上がっていた。ルカの耳には、初め、風の音にしか聞こえなかった。ラスト・ハウンドの方が先に気づいた。獣はそのまま低く身を伏せ、棘の列を寝かせ、来た方角へ音も立てずに走り去った。左後肢を、やはり最後まで、かばいながら。

森の闇に灰色の尾が溶けるまで、ルカは石碑の陰で動かなかった。動けなかった、の方が近い。膝の裏が、汗で冷えていた。

契約は、成立しなかった。

けれど——図鑑は、合っていた。

ルカは自分の掌を、焚火の明かりに翳した。訓練生の焼印、銀首輪の紋章。そのすぐ横に、もし契約が成立していたら、もう一つ、紋章が灯っていたはずの余白がある。ルカは爪の先で、その余白を、そっと掻いた。掻いても、何も浮かばない。浮かぶはずのなかったものを惜しむ資格が、いま自分にあるのかどうかすら、よく分からなかった。

「……モウモウ。俺、役立たずの『妄想癖』じゃ、ないのかもしれない」

口に出すと、声が情けないほど掠れた。掠れた声の底に、しかし、小さな火の粒のようなものが、微かに点った。復讐、という単語が一瞬かすめて、ルカはそれを慌てて焚火の中へ放り込んだ。そんなものを燃やすには、自分はまだ薄すぎる。燃え尽きた残り滓が、また誰かの靴の裏で踏み潰されるだけだ。

代わりに、もっと手前の、地に着いた欲を数えた。まっとうな宿で寝たい。湯で足を洗いたい。塩のきいた豆のスープを、腹いっぱい、誰にも詫びずに食いたい。その欲の一つひとつに、頭の中の図鑑は何も書き込まなかった。図鑑は、魔物しか記さない。ルカはそれでいい、と思った。自分のことまで誰かに書かれるのは、どこか怖かった。

焚火の薪が、ぱちりと爆ぜた。

その音に重なるように、縦穴の縁から、からん、と、ふたたび小石の転がる音。今度は一つではなく、連なって、石同士がぶつかり、穴の底へ落ちていく。夜風はない。誰かが——あるいは何かが——縁を歩いている。

ルカは焚火の明かりから身を隠すように、石碑の裏へ回った。懐のモウモウが、さっきまでの赤から、急激に蒼い色へ沈んでいく。主の感情温度=恐怖。そして頭の中の羊皮紙が、ルカの意思と関係なく、ひとりでに、ぱらぱらとめくれた。

次の見開きは、森の上層で湧く魔物の項ではなかった。縦穴第一層の案内でもなかった。薄墨のような書き出しで、最下層——《第七層・その先》と、確かに、そう記されていた。

ルカは石碑に額をつけ、息を止めた。まだ視ていない場所の項目が、勝手に開くなど、聞いたことがない。

縁を転がる小石の音は、やまなかった。

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