第1話
第1話
石畳に叩きつけられた膝が、じんと痺れた。
ルカ・ヴァイスの手から、鎖付きの銀首輪が冷たい音を立てて転がり落ちる。名門テイマーギルド「銀の首輪」——三年、彼はここの磨き床を毎朝這いずり回ってきた。訓練生用の鞣革ベルトに染み込んだ魔物の血の匂いが、まだ指先に残っている。
「聞こえなかったか、才能なし」
門番の剣先が、鼻先一寸で止まる。
「お前が三年で契約した魔物は、戦えないスライム一匹。見習い税の未納分は、その首輪とベルトで相殺する。二度と敷地をまたぐな」
背後で、石造りの門扉が軋みながら閉じていく。押し開けられないことを、ルカの背中はもう知っていた。蝶番の油切れの音。鋼の閂が落ちる重い響き。三年前、初めて潜ったとき、同じ門は花びらを舞わせていたはずだった。
雨は降っていない。なのに頬が冷たい。
ルカは自分の腰布の、繕いの糸目を見つめた。魔物の体液を洗う漂白剤で、生地が痩せている。見習いの誇りだった染みの一つひとつが、今は乞食の痕にしか見えなかった。
「……下を見ろ、ルカ」
懐で、湿った毬のような気配が揺れる。小さな透明体が、布の隙間から顔を出した。ルカの唯一の契約魔物、スライムのモウモウ。
「路銀、もう銅貨四枚だ。宿はない」
モウモウは、しゃぼん玉を潰したような音で一度だけ震えた。掌のうえでほんのわずかに重みを寄せてくる、その体温のない温さだけが、さっきから唯一ルカに返ってくる応答だった。
石畳の街道を、ルカは西へ歩いた。
ライゼル城下町は魔物素材の集積地で、夕刻には猟犬を繋いだテイマーたちが、誇らしげに素材袋を肩に担いで酒場へ流れ込む。その光の縁を、ルカは影のように辿る。煮込んだ薪の香り、焦げた鉄の匂い、絞りたての麦酒の泡。どれも、かつては仲間と分け合った匂いだった。
一年前、ルカもその輪の端にいた。初めて小鬼の素材を売り抜けた日、仲間の誰かが麦酒の泡を鼻先に塗りつけて笑った。その泡の感触を、ルカはまだ鼻の先端で覚えている。覚えているから、余計に今の自分の薄さがわかった。影ですらない。隙間を抜ける夜風にもなれず、ただ影の縁をなぞるだけの輪郭線だ。すれ違う見習いの一人がルカの顔を認めて、目を伏せ、連れの袖を引いて歩幅を速めた。同情を見せない配慮のほうが、もう、痛い。
酒場「三叉の杖」の窓ガラスに、ランタンの光に縁取られた横顔が映った。ルカは息を止める。——リアン・セレス。幼馴染。二つ年上の兄弟子で、同時期に入門し、二年で幻獣級の白狼を契約し、先月、最年少で《首輪持ち》に叙された男。
「……正装、似合うじゃねえか」
声に出さずに呟く。胃の奥が酸っぱくなった。
窓越しに、リアンが誰かに杯を掲げる。白い襟飾りが揺れ、その肩の後ろに、銀の輪郭を帯びた巨大な獣の影——契約個体《月狼スヴァン》の魔力残滓が、薄く陽炎のように揺らいでいた。幻獣級の契約者にだけ浮かぶ、いわば勲章だ。ルカの周りにも、もちろんモウモウの気配は漂っているはずだったが、それは残滓と呼べるほどの濃度を持たない。スライムの気配は、煮立たない湯気のように、窓辺に届く前に霧散してしまう。子供のころ、同じ川辺で素足を浸けた幼馴染の肩に、いま別の世界の紋章が灯っている。その一点の距離を、ルカは喉の奥で飲み下した。
ひと気の無い裏路地に入り、壁に背を預ける。腰が落ちた。膝を抱え、モウモウを掌に乗せる。スライムは、ルカの体温に合わせて僅かに赤味を帯びた——そういう品種だった。戦闘力ゼロ、ただ主の気温を写すだけの無益な魔物。図鑑にそう書いてある、とルカの頭の中で囁く声がした。
頭の中で、また「あれ」が開く。
《スライム・センティオ/非戦闘個体群/契約条件=三度の同食/主の感情温度に発色同期》
——ほら、また始まった。
ルカは自分のこめかみを、指の腹で押した。魔物を視るたびに、瞼の裏に羊皮紙のような薄い紙が浮かび、小さな黒字でびっしりと情報が流れる癖。物心ついたころからだ。師匠にも、リアンにも、ついに言えなかった。言えば、才能の無さに加えて妄想癖までと嘲られるに決まっていた。
「……お前のこと、合ってるのか、これ」
モウモウは、しゃぼり、と音を立てた。三度の同食。ルカは乾いた干し肉を三回、スライムと分け合ったことを思い出す。契約が成立したのは、四度目の夜だった。
胸の奥を、細い針が刺す。偶然だ。偶然に決まっている。
立ち上がろうとしたとき、背後の路地口で複数の足音が止まった。ルカは振り向かない。焼きを入れた革のブーツ特有の、乾いた軋み。テイマー崩れの追い剥ぎがこの町に居着いていると、ギルドでも注意喚起が出ていた。
「坊や、銅貨四枚、寄越しな」
笑いを含んだ男の声が、壁を撫でた。
ルカは逃げなかった。逃げても追いつかれる脚はない。
息を浅くし、壁の石目に背中を滑らせる。視界の隅で、男たちの影が三つ。先頭の一つは剣、後ろ二つは棍棒と、ぶら下げた細縄——魔物を縛る装備ではなく、人を縛る装備だった。この町の無法者は最近、子供も売るらしい。ギルドの守衛長が訓練生たちに鼻で笑って告げていたのを、ルカは唐突に思い出した。そのときの自分は、まだ「他人事」の側にいたのだ。
代わりに、懐のモウモウを両手で包み、路地の奥へ、更に細い抜け道へ身を捻じ込ませた。湿った苔の匂い、排水溝の鉄錆の味。背後で舌打ちと共に、剣の鞘が石壁を叩く音が連なる。
抜けた先は、城下町の外壁だった。
その外に広がるのは、伐採の進まぬ黒い森。森の奥、地図上の墨溜まりのような場所に、あれが口を開けている。
「忘却の縦穴」。
五十年前に冒険者ギルド連盟が封印勧告を出した呪われたダンジョン。潜った者の六割が戻らず、戻った者は最下層の記憶だけが欠落している。最新の攻略記録は、第七層で停まっている。入口の周囲には、朽ちた祠と、誰かの装備と思しき鎖帷子の欠片が、風化して苔に埋もれていた。
空気が一段、冷えている。魔力の滞留というより、無音の密度そのものが違う——テイマーの耳は、そういう違いに敏感だ。鳥が鳴かず、虫の羽音もない。本来なら夜行性の魔物がそろそろ活動を始める時刻に、葉の擦れる音すら拾えなかった。森は、この穴をぐるりと避けて息をしている。苔の下から覗く鎖帷子の欠片は、かつてこの入口をくぐった誰かの、最後の輪郭だ。
ルカの足は、そちらへ向いた。
追い剥ぎは町の門の外までは追ってこない。黒い森は、追い剥ぎにとっても狩り場ではなく墓場だ。縦穴の入口の、苔むした石碑の陰なら、一晩くらいは風を避けられる——そう判断した自分の冷静さに、ルカは少し驚いた。三年前のルカなら、この冷たさを持てなかった。最下層の記憶が欠けるダンジョンの縁で、石碑の陰を「寝床」と値踏みする自分。誰かに蔑まれる前に、自分で自分の底値を決めていた。落ちきった人間のほうが、かえって身軽になる。その事実を、ルカは今夜、生まれて初めて知った。
膝をつき、祠の石の窪みを払う。枯葉の下から、古い焚火の跡が出た。自分と同じことを考えた誰かが、かつてここで夜を過ごした痕。その誰かが戻ったかどうかは、わからない。
モウモウが懐で、ほんのりと青く発色した。主の感情温度=恐怖、と頭の中の図鑑の端に注記が走る。
「……わかってるよ」
ルカは小さく笑った。笑ってから、笑えた自分に気づいた。
銅貨四枚。スライム一匹。ギルドの首輪はもう無い。
けれど手首には、まだ訓練生の焼印——銀首輪の紋章が残っている。消すには職人に金を払わねばならない。その金も、ない。
「……モウモウ。俺たちな、どこまで堕ちれるか、見てみようぜ」
ルカは腰帯から火打石を取り出し、石碑の陰に小さな火を起こした。湿った枯葉が煙を上げ、森の黒い天井へ吸い込まれていく。その煙の筋を、誰にも見られていないことを、ルカはただ祈った。
焚火に干し肉の最後の一切れをかざした、その時だった。
縦穴の縁から、からん、と何かが転がる乾いた音。続いて、小石ではない、もっと重い何かが崖面を擦り落ちる気配。ルカは顔を上げた。風は無い。夜鳥も鳴いていない。
入口の奥の闇が、ひとつ、ゆっくりと瞬きをしたように思えた。
——気のせいだ、と言い聞かせる声が、喉の途中で詰まる。闇は、ただの闇だ。瞼を持つわけがない。それなのに、瞬きの残像のようなものが、ルカの胸骨の裏にだけ焼き付いていた。まるで、こちらから見ていたつもりの視線が、向こうから静かに折り返されたような——見つけたのではなく、見つけられたのだという感覚。
頭の中で、羊皮紙が、勝手にめくれる音がした。——まだ何も視ていないはずの、真っ黒な見開きに、滲むように一文字だけが浮かび上がる。
《未記載》
ルカは、干し肉を持つ指先が震えていることに、ようやく気づいた。