第3話
第3話
懐かしい、と思った瞬間、粘液が足首に絡みついた。
スニーカーの布地を越えて、冷たい膜が脛を這い上がってくる。触れた肌が、最初は拒絶するように粟立ち、次にじわりと、熱を持った。違う。熱ではない。粘液の冷たさのほうが、俺の皮膚に「馴染んで」きているのだ。まるで、自分の血管の続きが、くるぶしの外側から生え出して、湖とつながろうとしているような。
白紙の札が、汗で指に貼り付いていた。
青白い光の塊が、俺の膝の高さまで近づいてきた。水面下で、脚の先についた小さな口が、三十、四十と、こちらに向かって舌を這わせている。一本が、俺のズボンの膝の裏に触れた。舐められている。胃の底が、熱湯を飲んだときのように、じわりと痛んだ。
「……あ」
声が漏れた。悲鳴ではなかった。もっと奇妙な、喉の奥からこぼれ落ちた、ため息に近い音。自分の声なのに、自分のものとは思えなかった。まるで、胸郭の内側に別の誰かが間借りしていて、そいつが勝手に息を吐いたような――そんな他人行儀な響き。
祖父の手の、あの力が、胸の奥でもう一度、強く押し上げてきた。呼吸が、勝手にリズムを変える。吐くほうが長くなり、吸うほうが短くなり、舌の根が、湖の甘い匂いに向かって、ほんのわずかに、持ち上がった。
──喉が、渇いている。
三年間、駆除の後に必ず吐き気を感じてきた、あの粘液の匂いに、今夜、唾が湧いている。生臭さの底に、砂糖を焦がしたような、焼き菓子に似た甘さが潜んでいることに、初めて気づいた。いや――気づいていたのだ。三年前から。気づかないふりをしていただけで。吐き気は拒絶ではなく、抑え込みだった。押し込めていた蓋が、今、静かに緩んでいる。
怖ろしかった。恐怖よりも先に、俺は自分の唾液腺を、恐ろしいと思った。頬の内側の、耳の下の、舌の付け根の――そのすべてが、意思とは無関係に、湖のほうへ「期待」を傾けている。
湖から、一匹の影が、ひょこりと頭を出した。
小さい。さっきの擬態種の本体ではない。E-マイナスに近い、子犬ほどのサイズの、黒い霧の塊。親の気配にくっついて地下まで流れ込んだ、雑魚の中の雑魚。俺が下町の路地で、毎晩の小遣い稼ぎに焼いてきた、あの分類の、あの臭い。
そいつが、俺の足元にしゃがみ込んで、くんくんと、俺の膝を嗅いだ。
敵意が、ない。
雑魚は、俺を「獲物」として見ていなかった。もっと別の何か──たぶん、親、あるいは仲間として、俺の匂いを確認していた。測定値〇・〇〇三の、穢れとしか呼ばれなかった俺の血の匂いを。鼻先の、湿った冷たさが、膝の薄布越しにじわじわと染みてくる。それは、野良犬が飼い主を探り当てたときのような、確信に満ちた湿り方だった。
──ああ、そうか。
頭の奥で、一つだけ、澄んだ音が鳴った。祖父が死ぬ前に言いかけた言葉の、続きのあたりから、その音は聞こえた気がした。病室の白い天井、心電図の細い波、祖父の乾いた唇が動いて――そこで途切れた一行が、今ごろになって、俺の耳の奥で完結しようとしている。
穢れとしか呼ばれないお前の血は、いつか──
俺は白紙の札を、指の間から、ぽとりと落とした。
札が粘液の表面に落ちて、音もなく、すっと沈んだ。三年間、俺の命綱だった紙切れが、湖に呑まれても、指先は震えなかった。代わりに、右手を、そいつの頭の上にかざした。かざす、というより、差し出した。料理屋の主人が、皿の上に手を伸ばすときの、あの無造作さで。
指先から、冷たいものが、逆流してきた。
粘液の冷たさではない。俺自身の血管を、内側から、誰かが逆向きに撫でていく感触。膝の裏に溜まっていた熱が、一気に腕の筋に集まって、指の先で、牙のような何かに変わる。視覚的な牙ではない。霊的な、食い破るための、何か。爪の奥が、かゆい。痒いという感覚すら、生まれて初めて味わう種類のものだった。
雑魚の黒い霧が、俺の指先に吸い寄せられた。
吸われた、と言うほうが近い。ストローの先を水面に差し込んだときのように、霧は逆らう間もなく、俺の人差し指と中指の腹の間に、するすると巻き取られていった。指の皮膚の下で、黒い筋が二本、手首まで駆け上がり、肘の内側で合流して、鎖骨のあたりで一度、どくんと脈打った。
鉄の味が、口の中に満ちた。
血ではない。もっと濃い、金属を熱した時のような、赤黒い味。舌の裏から喉の奥へ、そこから食道を下って、胃の底で、ぱちり、と何かが焚きつけられた。炭が赤熱するときの、あの乾いた破裂音に似ていた。焚きつけられた熱は、内側から肋骨を一本ずつ数えるように、上に昇ってきた。
身体が、変質を始めた。
最初は、指先だった。爪の下の色が、ひと呼吸のうちに、健康な桜色から、ごくわずかに紫に沈んだ。次に、鎖骨。そこから胸骨の中心へ、熱でも冷気でもない、「密度」のようなものが、ゆっくりと降りてくる。呼吸のたび、肺の容積が、内側から押し広げられていく。三年間、測定値が振れなかったあの空洞が、今、何かで埋まっていく。空洞だと思っていたものは、空洞ではなかった。ただ、鍵のかかった部屋だった。扉の向こうで、ずっと、何かが息を潜めて待っていた。
湖の中央で、擬態種の本体が、初めて俺に気づいた。
青白い光の脈動が、一瞬、乱れた。
その乱れを、俺は、視覚ではなく、「味」として感じた。この距離、この質量、この霊力の風味。舌の根が、勝手に値踏みをしていた。こいつは、多すぎる。一息で飲み下せる量ではない。だが、脚の先の小さな口たち──あれは、一本ずつなら、呑み込める。舌先に、するりと、料理の順番が並んだ。前菜、魚、肉、そして核。献立を組むような冷静さで、俺は湖の中央を見つめていた。
粘液に沈んだ膝が、自分の意思と無関係に、前に出た。
二歩、三歩。湖の中心へ向かって、俺は歩いていた。膝から下の感覚は、もう、ほとんどなかった。粘液と皮膚の境目が、どこにあるのか、わからない。歩いているのか、湖に運ばれているのか、それすらも曖昧だった。擬態種の本体が、脚の一本をこちらへ伸ばした。人間の手首の形をした脚、先端に付いた口が、俺の喉を狙って咥えに来る。速い。避けられない。避けようと思わなかった。
咥えさせた。
口が俺の喉仏の下に食らいついた瞬間、歯が霊脈に触れた瞬間──その歯の一本一本から、俺は、逆向きに「吸った」。
擬態種の脚の口が、声にならない悲鳴を上げた。先端から付け根に向かって、皮膚が内側に陥没していく。俺の喉に食らいついたまま、脚は、乾いた蛇の抜け殻のように、しゅるしゅると萎んでいった。萎んだ先で、黒い筋が、もう一本、俺の鎖骨に流れ込んでくる。流れ込む瞬間、舌に、甘みが走った。三年間嫌ってきた粘液の、あの焦げた砂糖の匂いが、今は、腹の底で満足そうに溶けていく。
二体目。体温が、上がった。
視界の端が、青白く縁取られる。天井の裂け目から漏れていた微かな光、それと同じ波長の光を、俺の目は今、網膜の裏側で再生し始めていた。地下三階の闇の中で、粘液の湖のすべての流れが、血管の地図のように、はっきりと見える。擬態種の本体の、核の位置が、わかる。
左胸の、肋骨の三本目と四本目の間。そこに、「食べ頃」の光が、点っていた。
笑いそうになって、俺は自分の口元に手の甲を当てた。
手の甲が、冷たい。俺の指が、さっきの速水さんと同じ温度になっていた。生きている人間の温度ではない。けれど、死んでいるわけでもない。もっと別の、三年間、ずっと俺の輪郭の外側をうろついていた温度だった。
──ああ、向こう側の温度だ、これは。
擬態種が、残りの十一本の脚を、一斉にこちらへ伸ばした。
粘液の湖が、波打って盛り上がる。俺はもう、札を持っていなかった。白紙の一枚も、手元にはなかった。代わりに、指の先に、さっき吸い込んだ黒い筋が、うっすらと、牙の形で、露わになっていた。
胸の奥で、祖父の手の力が、もう一度、どくんと脈打った。
──喰え。
声ではなかった。誰の声でもなかった。ただ、俺の肋骨の裏側に、三年間、ずっと眠っていた何かが、今夜、目を醒ました。
俺は、笑った。
声は、やはり、出なかった。