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喰らう異端、葛城玲司

第2話 第2話

第2話

第2話

地下への階段は、一段降りるごとに温度が一度ずつ下がる錯覚があった。

速水さんの後ろに俺、その後ろに二課の門倉さん、最後尾に五課から応援に来たという名前も知らない四十代の男。四人。一級が二人、二級が一人、そして三級の俺。編成のバランスがおかしいと、最初の踊り場で気づいた。多重憑依案件なら、本来は一級四人に結界師二人が最低限。この頭数で入るのは、協会が本気で「助けない」と決めたときだけだ。

懐中電灯の光の輪が、剥がれかけた壁紙の上を滑っていく。カビと、焼けたプラスチックと、もう一つ──甘ったるい、腐りかけた果物のような匂い。妖魔が長く居着いた場所に染みつく、あの臭いだ。舌の先に、その甘さがうっすら乗る。嚥下しそうになって、慌てて口を閉じた。俺は呪符の束をポケットから三枚だけ抜いて、左手の指に挟んだ。札の縁が汗で柔らかくなっている。だめだ、紙が湿ると発火しにくくなる。右手で制服のシャツの裾を引き、札の表面の汗を雑に拭った。

「地下一階は抜けた組がある」 先頭の速水さんが、振り返らずに言った。煙草の匂いが、踊り場の冷気に混じって後ろへ流れてくる。 「地下二階で全滅。地下三階の結界が剥がれたのは、さっきの報告から十二分前」

十二分前。今から三十分もしないうちに、地下一階まで上がってくる計算。

「追い上げじゃないんすか」 門倉さんが低く舌打ちした。 「追い上げだったら俺ら呼ばれてねえよ。蓋だ。下まで降りて、蓋をして、上が脱出する時間を稼ぐ」

蓋、という言葉が、俺の肋骨の裏側で小さく跳ねた。

──気のせいだ。

舌の裏に、もう何度目かの呟きを畳んだ。

地下一階に着いた瞬間、懐中電灯が要らなくなった。

天井の配管が、内側から発光している。青白く、血管を透かしたような光。よく見ると、それは配管ではなかった。配管の形をした、肉の筒だ。薄い皮膜の下で、濃い色の粘液がぬるりと流動し、壁の裂け目へ吸い込まれ、また別の裂け目から吐き出される。建物の静脈が、妖魔の養分で埋め直されている。

「目を合わせるな」 速水さんの声は硬かった。 「触れるな。呼吸は浅く。奴らは霊力より先に、こっちの意識の輪郭に食らいつく」

フロアの奥、倒れた受付カウンターの向こうで、何かがもそりと起き上がった。

人間の形。正確には、人間だった形。スーツの袖から伸びた腕が、肘の部分で九十度、逆の方向に折れていた。首が胴体から十五センチほど伸び、顎が胸まで垂れて、その口から別の顔がぬうっと顔を出している。二人目、三人目、四人目──受付の後ろから、同じ造形の影が、寝ぼけた子供のようにのたのたと立ち上がっていく。

C以上。間違いなく、分類Cの上。俺の手の札は、何枚重ねても紙きれだ。

「玲司、前に出ろ」 速水さんが言った。事務的な声だった。 「お前の札は、奴らの皮膚の一番外側は剥がせる。一枚剥がせば、俺らの札が内側まで通る」 「……はい」

口の中で、さっき自販機で買った麦茶の苦みが蘇った。足が進まないわけじゃない。進んだ。呪符を投げた。札が空中で三回転して、先頭の異形の胸に貼り付き、青白く爆ぜる。向こう側の皮膚が、炭のように黒く崩れた。同時に速水さんの符が飛び、門倉さんの式盤が鳴り、五課の男が短い呪を詠唱した。一体、二体。崩れていく。肉の配管が悲鳴のような音で収縮した。

いける、と思った瞬間、二体目の背中から、三体目と四体目が、別の生き物として這い出してきた。多重憑依の、本体。憑依されていたのはあの人型ではなく、人型そのものが「器」で、本体は器を食い破って出てくる種類。

「──げ」 五課の男の呪が、途中で喉に詰まった。 「こいつ、第七段階の、擬態種じゃねえのか」

擬態種。耳で聞いたことしかない。退魔協会の講習で、一度だけスライドに写真が出た。それを俺は居眠りしながら見ていた。あのとき、もっと真面目に見ていたら──いや、真面目に見ていたって、俺の札では何もできない。

器を食い破って出てきた本体は、蟲に近かった。節のある黒い胴体に、人の手首に似た脚が十二本。その脚の一本一本の先が、小さな人間の口の形をしていて、口の中の舌が、みな違う方向を舐めている。

「撤収だ、速水さん」門倉さんが叫んだ。 「だめだ」速水さんの声は、もう震えていた。「結界は下で剥がれてる。核を潰さない限り、地上まで這い上がる」

「地下三階に降りる」 速水さんが言った。 「擬態種の本体は、器を吐き出した後、最下層の結界の核に戻る。核を叩けば、上の個体も道連れに消える」 「三階って、全滅した階じゃ」 門倉さんの声がかすれていた。 「だから降りるんだよ。上に残ったって、じきに追いつかれる」

階段は、途中の踊り場で途切れていた。床が抜け、黒い粘液の湖が、地下三階の闇を満たしている。粘液の表面に、さっき上で見たのと同じ青白い発光が、ゆっくりと脈打っていた。湖の向こう岸は、闇に呑まれて見えない。粘液は生温かい湯気を立てていて、その湯気が天井の裂け目に吸い上げられていく。

「……玲司」 速水さんが、初めて振り返った。煙草を挟んでいない唇が、小さく震えていた。 「お前の札、全部寄越せ」

差し出した。手が震えていた。十二枚の呪符を、速水さんの掌に、一枚残らず。

掌から掌へ、札の束が移る一瞬、指先がほんのわずかに触れた。速水さんの指は、氷のように冷たかった。俺の掌が熱を持ちすぎているのか、それとも、もう向こう側に渡りきった人間の手が、こういう温度になるのか、わからなかった。札は速水さんの指の中に飲まれ、そこで何かを決定的に奪われたように、手の中が急に軽く、すかすかになった。

速水さんはそれを受け取り、自分の内ポケットから別の束を出して──俺の胸ポケットに、たった一枚、押し込んだ。

押し込まれた紙は、まだ速水さんの体温を残して、生温かかった。

「これは、予備だ。お前は向こう岸まで先に渡れ。足元、粘液の中を歩くときは、足を止めるな。俺らは、岸のこっちから、核に向かって札を撃つ」 「え」 「お前が動いているうちは、奴らの意識はお前に集中する。その隙を、俺らが撃つ」 「……囮っすか」 「そうだ」

嘘だ、と思った。

囮に立たせるなら、札は全部持たせるはずだ。なぜ一枚だけ。なぜ、俺の札を取り上げた。

背後で、門倉さんがすでに階段を上り始めていた。五課の男は、もう姿がなかった。速水さんは俺の胸ポケットの上から、一度だけ、軽く叩いた。

「玲司。悪いな」 「……え」 「家に連絡は入れておく。葛城の墓は、立派なのを準備させる」

それだけ言って、速水さんも階段を駆け上がっていった。靴音が三段、四段、遠ざかって、そして途切れた。結界の補強の呪が、頭上で厚く、厚く張られていく気配。天井の裂け目から、細かい石灰の粉が、ぱらぱらと肩に落ちてくる。呪が空気を押し固めるたびに、鼓膜の奥が、ぷつりぷつりと詰まっていき、上の階の詠唱の声も、靴音の残響も、水中で聞く音のように、急速に遠ざかっていった。地下三階と、上との間に、蓋がされていく。その蓋の輪郭は、俺の肋骨の内側で、ずしりと重たく閉じた。

俺は一人、粘液の湖の縁に、立っていた。

胸ポケットの札を抜いて、見た。──白紙だった。祖父の呪墨も、呪も、何も書かれていない、ただの紙切れだった。

笑えてしまった。声は出なかった。喉の奥で、空気が乾いた音だけが鳴った。

背後で、粘液の湖が盛り上がった。

青白く脈打つ光が、こちらへゆっくりと移動してくる。擬態種の本体、なのか。それとも、地下二階で死んだ先輩たちの、何か。俺は、白紙の札を握りしめた。

──脚が、震えていない。

おかしい、と思った。三年間、ずっと震え続けてきた俺の脚が、今夜はまったく震えていない。むしろ、膝の裏が、熱を持ち始めている。胸の奥の、測定値〇・〇〇三の、絶対に何もないはずの場所で、祖父が死ぬ前に握った手の、あの骨が軋むほどの力が、内側から、静かに、何かを押し上げていた。

粘液の湖が、岸まで達した。

俺の足元に、冷たい、甘ったるい粘液が触れた。

──懐かしい。

そう、思ってしまった自分に、俺は、遅れて気づいた。

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