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喰らう異端、葛城玲司

第1話 第1話

第1話

第1話

粗悪な呪符のインクが汗で滲んで、シャツの内側に墨の匂いを残していた。

首筋を夏の熱気が舐めていく。自転車のギアが三速で唸り、ペダルを踏むたび制服のズボンが内股で擦れた。右のポケットには昨夜コンビニの休憩時間に書いた〈退魔〉の札が十二枚、左のポケットには百円玉と電子マネーのカードが一枚だけ。交通費支給は一件につき三百八十円。電車に乗るより自転車で二十七分漕いだほうが、差額で牛丼の並が食える。ハンドルの握りはビニールが剥げて内側のスポンジが露出し、親指の付け根に黒く汚れを刻んでいた。その汚れは何度洗っても落ちない。まるでこの三年間の敗北が指紋に刻まれていくみたいに。

「……穢れ除けにすら使えない、か」

吐き捨てた自分の声が、ヘルメットの内側で反響した。舌の奥に苦いものが滲む。さっき自販機で買った薄い麦茶の味と、自分への嫌悪とが、喉の同じ場所で混ざり合っていた。

測定値、ゼロ。 正確には〇・〇〇三レベル。同期で最下位、三年連続更新中。退魔師協会の標準霊力検査で〈検知不可〉のランプが点いたのは、歴代で俺と曽祖父の姉の二人だけらしい。曽祖父の姉は二十二歳で発狂したと家系図の余白にメモがある。それを笑い話として食卓で披露したのは、俺の弟だった。味噌汁の湯気の向こうで弟が笑い、父が頷き、母は目を伏せて箸を動かしていた。あの食卓の記憶は、俺が夜に目を閉じるたびに、天井の裏側で蛍光灯のようにチカチカと瞬く。

葛城玲司、十七歳。葛城家の次期当主の座は、三つ下の弟・律司に譲られた。家紋の入った割符も、曽祖父代の呪具も、父の書斎の鍵も、全部あいつの首にかかっている。俺の首にかかっているのは、千円で買った量販店の銀チェーンと、高校の生徒手帳だけだ。銀チェーンはもう根元から変色し始めていて、風呂上がりに鏡を見るたび、俺の鎖骨に錆色の線が刻まれているのが見える。

到着した下町のコインランドリー裏、蛍光灯が一つだけ切れかけた路地の奥で、そいつはいた。

犬の死骸の匂いに、夏の苦瓜のような青臭さが混ざる。視界の端で、黒い霧のような塊がパイプの影にわだかまっていた。低級、分類Eマイナス。人を殺すほどの力はなく、ただ犬や子供の精気を吸って膨らむだけの、駆除対象としては最小の単位。エアコンの室外機がどこか遠くで鈍く唸り、その振動が路地のアスファルトを通じて俺の膝にまで伝わってくる。ゴミ袋の山の向こうで、半分潰れた空き缶が風もないのに微かに転がった。

呪符を一枚、指で挟む。紙の縁がささくれて、人差し指の腹に小さく刺さった。赤い血の粒が盛り上がり、呪墨の黒と混じって、紙の端に妙な紋様を作った。

「一回で決まれよ、頼むから」

祈りながら札を投げた。札は空中で二回転して、E-マイナスの頭部らしき場所にぺたりと張り付く。刹那、紙が青白く燃えた。悲鳴とも風切り音ともつかない音を上げて、黒い霧が千切れて散る。耳の奥で薄く耳鳴りが残った。いつもの、駆除の後の音だ。

成功。三分の一の確率で失敗する、自作の呪符としては上出来だ。

俺はしゃがみ込んで、札の燃え滓と、霧が残した粘液質の黒い痕を、持参したジップロックに収めた。協会への証拠品提出。これがなければ、一件四千二百円の駆除料は支払われない。

指先が黒い粘液に触れる。──冷たい。七月の夜だというのに、コンクリートの下から湧いたような冷気が、指の骨まで染み込んでくる感触。息を吸うと、その冷たさがそのまま肺の奥に届いて、肋骨の裏側をぞわりと撫でていった。いつもなら吐き気がする粘液の感触が、今夜はなぜか、懐かしく感じられた。気のせいだと思った。気のせいだ、と二度自分に言い聞かせた。

「玲司センパイ。まだ下町回ってんすか」

振り返ると、後輩の近藤が電動スクーターに跨ったまま、親指でスマホをいじっていた。十六歳。測定値B。来年、同期と呼ばれる予定の、俺より三級上の駆除員。ヘルメットは協会支給の新型、シートの下にはブランドもののエナメルバッグ。俺の自転車一台分より、あいつのスマホカバーの方が高いんじゃないかと、どうしようもないことを考えた。

「……見りゃわかるだろ」

「いやァ、自転車で。令和ですよ、今」

近藤は笑った。悪気はない。それが一番きつい。悪意なら殴り返せる。憐れみは受け取るしかない。

「協会から一斉召集、もう見ました?」 「召集?」 「マジっすか。スマホ見てないんすか、昭和みてぇに」

俺は制服のポケットからスマホを取り出した。液晶には、ひび割れた対角線の向こうに、赤い通知が八件。葛城玲司〈三級駆除員〉宛、緊急出動要請。

新宿区歌舞伎町二丁目、十七号廃ビル。多重憑依案件、協力員を募集中。

多重憑依。 同時に三体以上が人間に取り憑いた状態を指す、分類C以上の案件だ。三級の俺が呼ばれるようなクラスじゃない。普通なら。喉の奥が、ひとりでに小さく鳴った。

「一級の駒が足りないんで、雑用は番号問わず全員招集だそうっすよ」と、近藤が解説してくれる。「死体運びと、結界の補強と、あと──」 「囮、だろ」

言ってしまってから、後悔した。近藤はわざわざそれを言わないだけの礼儀を持っていた。俺はその礼儀を、たった今、自分の舌で踏み潰した。

「……まァ、そういうことっすね」

近藤が去り際にアクセルをふかした。排気音と蚊取り線香の匂いが混ざって、夏の夜の湿度と一緒に路地を抜けていく。遠ざかっていくテールランプの赤が、一瞬、さっきの黒い霧の輪郭に似て見えた。俺は自転車の鍵を外し、サドルに跨った。スポンジが剥げたサドルの芯が、尾骨に直に当たる。

歌舞伎町までは、この下町から自転車で四十六分。

──行くしかない。

行けば使い捨ての囮にされるとわかっている。けれど、出動要請を無視すれば、三日後に届く封書一通で駆除員資格が停止される。資格が止まれば、弟は間違いなく父に進言するだろう。〈兄を家から外しましょう〉と。葛城の姓を返上させられたら、その瞬間、俺は協会での最下位〇・〇〇三レベルですらなくなる。ただの高校生でもない、ただの、何者でもない十七歳だ。

ペダルを踏む。内股に汗が伝い、ポロシャツの背中が汗で貼り付いた。国道沿いのコンビニの、半分切れた蛍光看板に、俺の影が歪んで映る。影の首から上は、看板の欠けた部分に溶けて、最初から存在しないみたいに見えた。

──見返すとか、家督を取り返すとか、そういう話はとっくにどうでもよくなっている。ただ、死なないで帰る。今夜もそれだけを考えている。

靖国通りの交差点で赤信号に引っかかった。横断歩道の向こう、客引きのスーツが二人、俺の自転車を見て笑っていた。片方がもう片方の肩を叩いて、何か耳打ちする。聞こえなくても内容は想像がついた。聞こえないふりをするのにも、三年分の技術が要る。

呪符を一枚、口に咥える。紙の苦い味と、インクの鉄のような臭い。高校の化学室で一年かけて調合した自作の呪墨。レシピは、祖父の書斎の、弟がまだ触れない段の、三冊目の背表紙の裏に貼ってあった。色褪せた藁半紙の、祖父の筆跡。震える手で書いたのか、横棒がどれも少し右下がりだった。

祖父は三年前に死んだ。死ぬ前の夜、俺の手を握って、こう言った。祖父の手は乾いた紙のようで、でも握る力だけは妙に強く、俺の指の骨が軋むほどだった。

「玲司。お前の血は──穢れとしか呼ばれないお前の血は、いつか……」

そこで咳き込んで、言葉は途切れた。点滴の管が揺れ、心電図のモニターが一度だけ大きく跳ねた。看護師が駆け込んできて、俺は病室の外に出された。翌朝、祖父は死んでいた。

信号が青になる。ペダルを踏み込む。膝の裏に、古いアザの上から新しいアザが重なる痛み。三日前、廃工場でE-プラスの触手に弾き飛ばされたときの痣だ。痛みは嫌いじゃない。痛みがあるうちは、まだ生きていると、雑に確認できる。

歌舞伎町二丁目、十七号廃ビル。 スマホに送られてきた地図を見た。靖国通りから一本裏、花道通りを北に抜けた先。かつてはキャバクラが入っていたらしい七階建て。今は一階の入口に、協会の結界テープが×印に貼られているだけの、黒い箱だ。近づくにつれて、街の音が一枚ずつ剥がれていくのを感じた。カラオケの重低音も、客引きの声も、自販機の稼働音も、ビルの前までたどり着いたときにはすべて消えていた。残っていたのは、俺のチェーンが軋む音と、自分の心拍だけ。

現場に着いた時、ビルの地下から、聞き取れないほど低い振動が、アスファルトを伝って俺のスニーカーの底に響いてきた。

人間の声じゃない。獣の喉でもない。三年の駆除経験で、一度も聞いたことのない周波数。胸骨が内側から軽く叩かれている感覚があって、それが呼吸のリズムと少しずつずれていく。

四課の速水さんが、ビルの前で煙草をもみ消して俺を見た。黒いスーツの袖口が、返り血なのか泥なのか、すでに一度拭ったような汚れ方をしていた。

「玲司か。ちょうどいい。地下三階、結界が剥がれかけてる。お前、札持ってきたか」 「はい」 「じゃあ、先に降りてくれ」

速水さんは笑わなかった。笑えば罪悪感が残ると、彼女は知っていた。代わりに、新しい煙草を一本、箱から抜いて、火をつけずに唇に挟んだ。それが彼女の、送り出しの合図だと、三年かけて俺は覚えた。

俺は呪符を握り直す。インクの滲んだ十二枚。

──祖父の言葉の続きを、まだ聞けていない。

そう思った瞬間、胸の奥の、測定値には絶対に出ない場所で、何かが、ぴくりと、疼いた。

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