第3話
第3話
岩床に肘を立てたまま、ハルトはしばらく動けなかった。
肋骨を押さえる手の下で、骨が鈍く軋む。深く息を吸えば肺の右側に針を刺されるような痛みが走った。折れてはいない。たぶん、ひびだ。掌で確かめるたびに、内側から鈍い熱が滲んでくる。背中を岩にもたせかけ、ゆっくりと壁の青白い光を見上げた。
光は呼吸をしていた。
岩の継ぎ目から滲み出る輝きが、心拍にも似たリズムで強くなり、弱くなる。第一層で見た地衣類とも、ギルドの倉庫で見た光石とも違う。光源は壁の奥にあるらしく、岩の表面ではなく、岩そのものが透けて発光しているように見えた。湿気はあるのに、空気は不思議と澄んでいる。獣の匂いが、ここにはまったくなかった。坑道に三年潜って、獣の匂いがしない場所に出くわしたのは、これが初めてだった。鼻の奥に残るのは、雨上がりの石畳に似た、ひんやりと湿った鉱物の香りだけだった。耳鳴りに混じって、遠くで水滴が一つ、また一つと、規則正しく落ちている。
ハルトは指先で頬を拭った。落下のときに切ったらしい血が、まだ温かい。下唇を噛んで痛みを呑み込み、片膝を立てる。立ち上がろうとして、右肩が上がらないことに気づいた。鎖骨の下で、何かが軽く外れているような感触がある。脱臼ではない。だが、剣を頭上に構える動作は、当面できないだろう。
胸ポケットを押さえた。
折り畳んだ便箋の硬さが、シャツの布越しに確かに残っていた。妹の文字は、まだそこにあった。それだけで、肺の底に詰まっていた重いものが、ほんの少しだけ薄まる気がした。
「……起きろ」
掠れた声を、自分に向けて押し出す。
ハルトは岩壁を支えに、ゆっくりと腰を上げた。視界がぐらりと傾き、すぐに戻る。落下の衝撃で揺すぶられた頭の中が、まだ正しく座標を結んでいないらしい。
奥に、石の祭壇のようなものが見えた。
光に照らされたその輪郭が、ハルトを引き寄せた。引き寄せられている、と気づくのに数秒かかった。理屈ではない。冷たく澄んだ空気の粒が、その方角からかすかに流れ込んでくるのを、頬と喉が同時に感じていた。
足を引きずって、ハルトは祭壇に近づいた。
距離にして十歩。だが、肋骨の痛みのせいで、その十歩を渡るのに長い時間がかかった。途中で一度、膝が砕けそうになり、岩壁に肩を預けて呼吸を整える。指先まで脈打つ熱が走るたび、額に新しい汗が滲んだ。汗の粒は眉の上を伝い、目尻で塩辛く滲んで、視界の端を一瞬曇らせる。歯を食いしばって、ハルトはもう一歩、足を前に出した。靴底の下で、薄く積もった砂塵が小さく擦れた。
祭壇は、思っていたよりずっと小さかった。
腰の高さほどの、簡素な石の台座。表面には、削り出された浅い溝が一つだけ残っている。そこにかつて何かが置かれていたらしいが、今は風化した塵の輪郭しか残っていなかった。先達の祭壇でも、神殿でもない。ただ、誰かがここに何かを供えていた、という事実だけが残された場所だった。
ハルトはその縁に手を置いた。
石は冷たく、しかし、坑道の岩よりはずっと滑らかな手触りだった。誰かが、長い時間をかけて磨いた石。指の腹に、かすかな手垢の跡を感じた気がした。三百年か、もっと前か。ここに立った誰かの手は、自分と同じ温度の血を通わせていたのだろうか。同じように肋を痛め、同じように妹か、あるいは別の誰かの便箋を胸に抱えて、ここまで来たのだろうか。喉の奥が、痛みとは別の熱で、ひりついた。
そう思った瞬間、視界の中央に、淡い光が滲んだ。
最初は、頭を打った後遺症かと思った。瞬きをしても、消えない。光はゆっくりと輪郭を結び、空中に一冊の書物を描き出した。
半透明の本だった。
革表紙のような厚みを持ちながら、その向こう側の岩壁が透けて見える。ハルトの目の高さで、ページの一つだけが開かれた状態で浮いていた。表紙には、文字とも紋様ともつかない印が刻まれている。読めない。だが、不思議と意味の輪郭だけが、頭の奥に直接撫でつけられるような感覚があった。
「……魔物、図鑑」
呟いた言葉に、自分で驚いた。誰がそう囁いたのか。本がそう囁いたのか、自分の喉がそう絞り出したのか、判然としなかった。
ハルトは右手を伸ばした。肩の痛みを忘れていた。指先が、半透明の表紙に触れる。
弾けた。
冷たい水を頭から浴びせられたような感覚が、後頭部から脊椎を伝って、両足の裏まで一瞬で抜けた。ハルトは膝をつき、両手で頭を抱える。声にならない呻きが、喉の奥でくぐもった。痛みではない。情報が、皮膚の内側から流れ込んでくる感触だった。視界の奥で、見たこともない図版が次々と捲られていく。歯の本数、爪の角度、皮膚の下を走る血管の太さ。文字ではなく、骨格そのものが頭蓋に押し当てられ、形として刻まれていく。
ゴブリン。第一層常駐種、体長一・二メートル、狩猟は単独または二体一組、利き腕は右、視野は人間の七割。
ホブゴブリン。第二層下層から第三層にかけて出現、体長一・八メートル、攻撃の三撃目で必ず重心が右に流れる、咆哮の前に喉が一度上下する。
第三層通常個体ゴブリン。短剣を構えた瞬間、左足の踵を地面から五センチ浮かせる癖がある。
呼吸も忘れて、ハルトはその激流を受け止めた。今まで自分が斬ってきた魔物の輪郭が、生態が、戦闘の癖が、頁を捲るように脳裏に展開されていく。あのとき脇腹を裂けたのは偶然ではなかった、と図鑑が後出しの解答を渡してくる。あのとき肩を砕かれたのは、防げた一撃だった、と。死んでいった仲間の顔が、その答えの裏側で、無言で並んでいる気がした。歯の根が合わなくなるほど、ハルトの顎が震えた。
しばらくして、流れが収まった。
ハルトはゆっくりと顔を上げた。半透明の本は、まだ目の前に浮かんでいる。最初は一頁だけ開いていたものが、いつの間にか目次のような構造を備えていた。意識を向ければ、頁が音もなく繰られていく。指で触れずとも、読みたい項目を念じるだけで、図鑑がそれに応える。
これは何だ、と問う前に、答えのようなものが浮かんできた。
未踏層に眠っていた遺物。先達の誰かが、ここまで辿り着いた誰かが、置いていったもの。あるいは、最初からここにあったもの。理屈は何一つ繋がらないのに、それを使うこと自体は、長年使い慣れた道具のように手に馴染んでいた。
ハルトは試しに、自分が今いる場所を念じた。
頁が一枚、勝手に繰られた。空白の頁に、薄い文字が滲んだ。
『未登録空洞・第三層直下・座標未確定』
それだけだった。地図はない。詳細はない。だが、確かにここは未登録の場所として、図鑑に記録されていた。記録された、ということは――
ハルトの背筋に、別種の冷気が走った。
これは、ただの遺物ではない。
息を整え、立ち上がろうとした、その時――。
奥の通路から、足音がした。
ハルトの呼吸が止まった。
獣の足音ではない。ゴブリンとも違う。もっと重く、踵の落ちる位置が広い。床の岩盤を踏み締めるたびに、湿った苔が潰れる音がする。一歩、二歩。歩幅は、ホブゴブリンよりさらに大きい。
胸の鼓動が、肋骨のひびに響いた。
ハルトは咄嗟に、図鑑に意識を投げた。
『この足音の主』
言葉にもならない問いに、頁が応えた。半透明の紙が、勝手に繰られていく。やがて、新しい頁が開かれた。
オーク。
第三層から第五層にかけて出現する亜人種。体長二メートル、体重百四十キロ。両手棍を主武装とする。
ハルトの目が、頁の中の一文に吸い寄せられた。
『振り下ろし攻撃の直後、右脇腹の防御が外れる。硬直時間は約三秒』
ハルトはその一文を、自分の喉に刻みつけるように、声に出して読み上げた。
「……右脇腹、三秒硬直」
声は震えていた。だが、語尾は崩れなかった。
足音は、もうすぐそこまで来ていた。
通路の暗がりから、影が滲み出てくる。青白い壁の光が、その輪郭を端から舐め上げていく。両手棍を肩に担いだ、巨大な体躯。垂れ下がった鼻先と、突き出した下顎の牙。人型の輪郭をしているのに、人ではないと一目でわかる重量感。
オークだった。
ハルトは半透明の図鑑から目を逸らさないまま、左手で錆びた剣を握り直した。右肩は、まだ上がらない。右手は添えるだけ、振るのは左で。
オークの小さな目が、青白い光の中で、ぎらりと細められた。喉の奥で、低い唸りが転がる。両手棍が、ゆっくりと肩から下ろされた。
ハルトは胸ポケットの紙片を、左の肘で軽く押さえた。妹の字が、心臓の真上にあった。
「……来い」
掠れない声で、ハルトは言った。