第2話
第2話
暗闇の中で光る二つの眼が、ゆっくりと下がった。
ハルトは気づく。魔物が、身を屈めて距離を測っている。人間のそれとは違う、四肢の重心の落とし方だった。松明の光がやっと届いた瞬間、灰緑色の太い腕と、肩まで伸びた禍々しい毛並みが浮かび上がった。
ホブゴブリンではない。もっと小さい。だが、第二層で見てきた通常個体とも違う。身長は同年代のゴブリンの一・五倍、腕の筋が捻り上げられたように盛り上がっている。第三層の常駐種。下調べの資料で字面だけは知っていた個体が、唸り声を腹の底から響かせて、そこに立っていた。
ハルトは剣を構え直す。息遣いからして違っていた。鼻孔を開閉させる呼吸の深さ、四肢の筋の張り詰め方、喉の奥で噛み殺される殺気の量。獣として格が上だ。
踏み込みは、向こうが速かった。
短剣が横薙ぎに振られる。ハルトはかろうじて身を引いた。頬の薄皮が裂け、熱い筋が顎まで走る。続く二撃目、下から跳ね上げるような斬り上げ。腹を狙われた。左足を引いて半身を逃がし、錆びた刃の腹で短剣を受ける。衝撃が肘まで痺れて抜けた。腕力が違う。踏ん張った靴底が、濡れた石畳の上をずるりと後退する。
「……っ」
息を吐いて、剣を立て直す。第一層なら一方的に押せた距離感が、ここでは通用しなかった。獣の懐へ滑り込むどころか、踏み込むたびに殴り返される。三合、四合、火花とも呼べない鈍い金属音が湿った空気の中に散った。
好機は唐突に来た。ゴブリンが大振りに踏み込んだ瞬間、右の膝が一瞬浮く。ハルトは身を屈めてその懐に飛び込み、錆刃を脇の下から胸郭へ差し上げた。刃が肋骨の隙間に滑り込み、心臓の近くで止まる感触。魔物の呼吸が、そこで途切れた。
倒れる巨体の重さに引きずられ、ハルトも共に膝をついた。
浅い息を、何度も繰り返す。手が震えていた。怒りではなく、命の際を一瞬で越えた反動の震え。上気した頬に、魔物の返り血の鉄臭さが張り付いている。
(……今のが、第三層の通常個体)
そう思い至ると、掌の汗が冷たく固まった。
立ち上がれない脚を叱咤し、ハルトは死骸の耳を切り取った。第三層個体の耳は第一層のものより一回り大きく、銀貨三枚の換金対象になる。麻袋に耳を落としながら、呼吸を整える。肺の底で咳が疼いた。
一匹倒しただけだ。この層に、何匹いるのかもわからない。
奥へ進むか、引き返すか。錆びた剣先を斜めに下げて、通路の二方向を見比べた。降りてきた縦穴の下にはロープが垂れたままだ。引き返せば、Eランクの一日分としては過分な稼ぎで終わる。耳三枚、銀貨九枚。日当換算、六日分。
だが。
奥からは、鉄のような匂いに混じって、饐えた獣の巣の匂いがする。まだいる。第三層の素材は、オークやホブゴブリンも射程に入る。一匹五千ギル、運が良ければ一万ギル。借金の六百万ギルを、ゴブリンの耳を積み上げているだけで削ろうとしても、生涯では足りなかった。
(あと一匹だけ)
胸ポケットの紙片を軽く押さえ、ハルトは通路の奥へ松明を掲げた。
壁は徐々に湿り気を増し、天井の高さも下がってくる。人間の掘った鑿痕はすっかり消え、岩盤の裂け目が抉れたまま放置されている。足元の石畳も割れ、その隙間から黒い苔が這い上がっていた。第三層は、かつての坑道の名残よりも、ダンジョンそのものの肌をしている。人の気配が、一歩ごとに薄くなっていく。
五十歩ほど進んだ分岐で、ハルトは足を止めた。
右手の通路の奥から、かすかな舌打ちのような音がした。ゴブリン特有の、仲間を呼ぶ低い喉音。左手の通路からは、水の滴る音だけが規則正しく響いている。
右、と決めかけた瞬間、背後の左手通路からも同じ喉音が、わずかに遅れて返ってきた。
ハルトは凍りついた。
(挟まれている)
前に一匹、後ろに一匹。下調べの資料にあった、第三層のゴブリンの典型的な狩猟形態だった。獲物を二方向から追い込み、逃げ道のない箇所で同時に襲う。まだ本格的に距離を詰めてはいない。気配を読み合って、ハルトの位置を確定しようとしている段階だ。
松明の火を、急いで胸元で絞った。明度を落とす。壁に貼り付くように身を寄せ、呼吸を肺の底に沈める。心拍音が、自分の耳の中で太鼓のように跳ねた。
判断は、一瞬だった。
二匹相手に、この通路では分が悪い。さっきの一匹でも苦戦したばかりだ。縦穴のロープまで、五十歩。背を向けずに半身で下がり、気配を気取られぬよう靴底を慎重に運ぶ。左手通路の喉音が、少しずつ、確実に近づいてきていた。向こうも獲物を追う速度を上げている。
十歩、二十歩。ロープの垂れた支保工が、松明の弱い光に滲んで見えた。あと少しで届く。
踵を返し、ハルトは駆け出した。
靴底が濡れた石畳を叩く音が、坑道に拡散した。気取られるが、もう構わなかった。隠れる余裕はない。
背後で鋭い絶叫。左手通路のゴブリンが、仲間に位置を告げたのがわかった。石畳を蹴る四足の足音が追いすがる。速い。ハルトの二倍近い速度で距離を詰めてくる。
支保工までの残り二十歩が、永遠に思えた。
ロープを掴み、右手で巻きつける。引き上げる力を振り絞ろうと膝に力を入れた、その時――。
頭上、縦穴の縁の岩陰から、影が落ちてきた。
松明の光が逆光になり、影の輪郭しか捉えられない。しかし、その大きさで直感した。ゴブリンではない。もっと太い首、盛り上がった肩、腰から垂れた獣皮。ホブゴブリン。
第三層の奥から湧いて出る上位個体。
(まさか、待ち伏せ――)
思考が繋がる前に、巨大な腕が振り下ろされた。
ハルトは反射的に剣を構えたが、間に合わなかった。鈍器のような拳が、右肩を真上から叩き付ける。肋骨が内側に軋み、肺の空気が一瞬で吐き出された。視界が白く弾け、次の瞬間、体が宙に浮いていた。
支保工の柱が、腰に激突する。朽ちた木材が、乾いた音を立てて折れた。
背中が壁にぶつかり、そのまま落ちる。足元の石畳が、割れた。第三層の床は、長年の風化で薄くなっていたらしい。体重と衝撃に耐えきれず、岩盤そのものが崩落した。
落下の感覚。
松明を握った手が空を掻く。胸ポケットの紙片が、シャツの下で一瞬浮くのを感じた。続いて、背中を岩角が擦り、脇腹に鋭い痛みが走る。反転しながら落ちていく。
目に映る映像が、上下を失った。
縦穴ではない。第三層の床の下に広がっていた、地図にも記されていない亀裂。真下へまっすぐ落ちているのではなかった。斜めに傾斜した岩溝を、擦りながら、転がりながら滑落している。背中、肩、腰、膝。当たる箇所ごとに、痛みが順番に打刻されていく。
何秒落ちたのか、わからなかった。体感では十秒、実際には三秒か四秒だったかもしれない。松明はとうに手を離れ、火の粉だけが視界の端を舐めるように流れていった。
強い衝撃。
肩から地面に叩きつけられ、反動で頭が後ろに跳ね、硬い岩に後頭部が当たる。鈍い閃光が眼球の裏で爆ぜた。
視界がぼやけた。仰向けに転がり、天井を仰ぐ。落ちてきた亀裂は、遥か上で細く裂けているだけで、ホブゴブリンの影はもう届かない。
(……生きている)
まず、それを確認した。続いて、自分の身体を数える。右肩、鈍痛。肋骨、押さえると息が刺さる。左脇腹、切り傷。足首、どうやら捻ってはいない。奇跡的に、致命傷は免れていた。
ハルトは何度かまばたきをした。
天井の高さが、異様に高い。落下してきた縦裂にしては、広すぎる空間だった。松明を失ったはずなのに、視界は完全な暗闇ではなかった。どこからか、淡い光源がある。
首を曲げる。
岩壁の一部が、青白く発光していた。第一層で見た地衣類のそれより、ずっと強い光だ。壁の奥から滲むように、呼吸するリズムで明度が揺れている。まるで生きている岩のようだった。
そして、その光に照らされた空洞の奥――。
ハルトの目は、その場に釘付けになった。
崩れかけた石の祭壇のようなものが、かすかに見える。その向こうには、通路らしきものが闇の奥へと伸びていた。獣の匂いも、魔物の気配もない。ただ、冷たく澄んだ空気だけが、頬を静かに撫でていく。
知らない層だ。第三層の、さらに下。地図にも、下調べの資料にも、先達の記録にも、一言も記されていない場所。
胸ポケットの紙片を、ハルトは血の滲んだ指で押さえた。妹の字が、そこにあった。
震える腕を岩床に突き立て、ハルトは片肘で身を起こした。