第1話
第1話
錆が刃に張り付く感触が、柄を握る掌越しに伝わってきた。
結城ハルトは息を詰め、眼前のゴブリンを見据える。松明の脂の匂いと、魔物の獣じみた体臭が洞窟の湿った空気に溶けていた。黒霧の坑道、第一層。壁に垂れた地衣類が微かに青白く光り、天井から落ちる雫が一定の間隔で石畳を叩いている。三百年前、ここは銀を掘る人間の坑道だった。今は、魔物の巣だ。
ゴブリンが短刀を構えて唸った。黄色い歯の隙間から、腐った魚のような息が漏れる。
「――来い」
声は掠れた。三日前から喉に張り付いた咳が、踏み込む瞬間にまた出そうになる。ハルトは膝を落とし、相手の懐へ滑り込んだ。錆びた刃が、ゴブリンの脇腹を浅く裂く。血と皮の切れる湿った音。魔物は痛みに絶叫しながら短刀を振り回し、その切っ先がハルトの左腕の外皮を掠めた。熱い筋が二の腕を流れ落ちる。
痛みを無視して、二撃目を首筋へ叩き込む。骨に刃が噛み、抜けない。膝で胴を蹴り押し、刃を引き抜いた瞬間、腕の感覚が少し鈍くなっていた。
ゴブリン一匹。それだけを仕留めるのに、ハルトは三分を要した。
壁に背を預け、ずり落ちるように座り込む。肺の底から震える息が漏れ、松明の火が揺れ、天井の影が大きく蠢いた。舌の奥に、鉄錆の味が広がっている。どうやら、踏み込みの衝撃で自分の口の中を噛み切ったらしい。
(……今日もこれで、日当五百ギル)
借金の利息にも、届かない額だった。
ハルトは腰の小袋から布を取り出し、左腕の傷に巻きつけた。包帯は昨夜自分で煮沸したものだが、すでに血が滲み始めている。傷薬を買う金は、今月も工面できなかった。薬屋の店主が気まずそうに目を逸らした顔を、まだ覚えている。
十九歳、Eランク。ハンター登録から二年、未だ第一層を抜けられない落ちこぼれ。筋力と魔力の適性検査では、同年代の平均を二割下回った。取り柄は粘り強さだけ、と訓練教官に苦笑されたのを、今でもはっきり覚えている。粘り強さというのは、才能のない者への慰めの言葉だ。それくらい、ハルトにもわかっていた。
立ち上がり、ゴブリンの死骸から耳を切り取る。ギルドの換金対象は耳二枚で銀貨一枚。素材と呼ぶには貧相な戦利品を麻袋に放り込み、奥へ向かう通路を見据えた。
(あと二匹仕留めれば、今日の宿代は出る)
松明を掲げ、苔の這う壁に沿って進む。坑道は元々、三百年前に閉山した銀の採掘場だった。崩落を繰り返すうちに下層へ裂け目が広がり、やがてダンジョンとして認定された。壁に残る鑿の痕が、人の手で掘られた時代の名残を静かに主張している。
胸ポケットに、折り畳んだ紙片の角が触れた。
ハルトは足を止め、それを取り出す。四つに折られた便箋は、封筒を失って久しい。端は擦り切れ、何度も読み返された皺が地層のように刻まれている。
『兄ちゃんは、つよくなれるよ』
妹の、十歳で止まった字。病室の白いベッドで、インクを吸いきらないペン先が滲ませた点が、『よ』の右下に小さく残っている。ハルトは指の腹でその点を撫でた。便箋の紙は、三年間胸に入れ続けたせいで、皮膚のように柔らかくなっていた。
「……帰ったら、新しい花を買ってくる」
誰もいない通路に呟いて、紙片を畳み直した。妹が逝って三年。治療費の残債は、まだ六百万ギル。手の中の錆びた剣では、あと何年かかるかも見えない。墓前に供える白百合の値段さえ、今月は工面できるかわからなかった。
奥で金属音が反響した。ハルトは松明を下ろし、岩陰に体を寄せる。遠い通路の向こうから、若い男の笑い声と、鎧の擦れる音が近づいてきた。
「――だから言ったろ、ハルトなんて最初から連れてくるのが間違いだったんだ」
聞き覚えのある声だった。ハルトは息を殺す。鼓膜の奥で、自分の心拍だけが妙に大きく鳴っている。
「Cランクパーティに、Eランクが混ざるってだけで討伐効率が落ちる。あいつ、第二層の壁蟲の巣でも腰抜かしてただろ」
「荷物持ちくらいにはなるかと思ったんだけどなあ」
同期のカイルと、その仲間。半年前、ハルトを『お荷物』と罵って契約を切ったパーティだった。足音と声が岩陰の前を通り過ぎていく。松明の光が壁に揺れ、磨き上げられた鋼の胸当てが一瞬きらめいた。自分のそれとは違う、手入れの行き届いた音だった。ハルトは息を吐けずに、ただ自分の錆びた剣の握りを見つめていた。爪が掌に食い込み、薄く血が滲んでいる。
足音が遠ざかると、ハルトは岩陰から這い出た。心臓が胸骨の裏側で鈍く打っている。怒りでも、屈辱でもなかった。冷たく透明な何かが、内臓の底にゆっくり沈んでいく。それは、三年前に妹の手が冷たくなっていく瞬間に感じた感覚と、どこか似ていた。
「……第三層、行くか」
声に出して、自分に言い聞かせる。Eランクには推奨されない層だ。入場許可には通常、パーティ同伴かCランクへの昇格が必要になる。だが、ハルトは知っていた。この坑道の第二層の奥には、夜間の見回りが手薄になる細い縦穴があり、自己責任で降りれば第三層の外縁に出られる。三ヶ月前から下調べしていた、ギルドには届けていないルートだった。
ゴブリンしかいない第一層で何年踏ん張っても、利息は増えるだけだ。格上の素材を取りに行かなければ、借金も、妹の墓前の約束も、何一つ前に進まない。
(図鑑にも載っていない個体が出る、なんて噂もあるが――)
ハルトは首を振った。出会う前から怯えていては、なにも変わらない。カイルの笑い声が、まだ耳の奥に残っていた。あの声を振り払うには、足を前に出すしかなかった。
第二層へ続く階段を下る。空気が一段、湿度を増した。壁を流れる地下水が石畳を濡らし、靴底がぬるりと滑る。鉄のような鉱水の匂い。坑道は深くなるほど、かつて掘られた人間の気配が薄れ、代わりに生き物の濃い気配が重なっていく。壁に刻まれていた鑿の痕も、いつしか爪で引っ掻いたような不規則な溝に置き換わっていた。人の残した痕跡が、魔物の領域に塗り潰されていくのがわかる。
縦穴の入り口は、朽ちた支保工の裏にあった。腰にロープを結び、縁の岩角に巻きつける。闇に足を下ろすと、壁面の温度が急に下がった。指先の感覚が、軍手越しにも鈍っていく。岩肌を滑らないよう、ロープを二重に握り直した。掌の傷口から染み出た血が、繊維に吸われて粘ついた。
二十メートルほど降りた地点で、下方から微かな風が吹き上げてきた。生暖かく、鉄錆の混じった独特の匂い。第三層の空気だった。獣の息のような、饐えた甘さがかすかに混じっている。
足が地面に着く。ロープを解き、松明を掲げた。
通路は第一層より広く、天井が高い。床に転がるのは、朽ちた人骨と、折れた長剣。ハンターの残骸だった。肋骨の隙間に、黒い苔が根を張っている。剣の柄には、かつて誰かが刻んだらしい名前の一部が残っていたが、ハルトには読めなかった。この骨の主も、きっと自分と同じように借金か誰かの約束を背負って、ここまで降りてきたのだろうか。
唾を飲み込み、剣を抜いた。柄を握る手に、汗が滲む。恐怖は確かにあった。だが、それは第一層でゴブリンを見た時とは、質の違う恐怖だった。一歩踏み込めば、戻れない種類の恐怖。
(これが、本当の戦いの場所か)
奥の通路から、重く湿った足音が響いてきた。一歩、二歩。ハルトが聞いたことのないリズム。松明の光の届かない暗闇の向こうで、何かが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。足音の間隔が、人間のそれより明らかに長い。歩幅が、違う生き物の歩幅だった。
ハルトは胸ポケットに手を当てた。四つ折りの便箋が、シャツの布越しに硬く感じられる。妹の字が、心臓の真上にあった。
暗闇の奥で、二つの眼が鈍く光った。胸の高さより、ずっと上に。
ホブゴブリンなのか、もっと別の何かなのか。ハルトには判別がつかない。ただ、剣を構える両腕が、今日初めて、震えなかった。
掠れない声で、ハルトは一歩、前へ踏み出した。
「――来い」
松明の火が、闇の中へ細く伸びていった。