Novelis
← 目次

白衣の鬼謀、盤上に還る

第3話 第3話

第3話

第3話

三日、牢の石に座らされた。

刑部の地牢は火を入れぬ。冬の石は、尻の下で熱を奪うだけの道具に変わる。蕭明嶺は壁に背を預け、膝を立てて、息を細くした。息を細くすれば、肋の骨が石の冷たさを感じずに済む。鎖は項と両手首に通され、足首にはもう一重、鋳直したばかりの環がはまっている。鋳肌の粗い粒が、踝の皮に小さな棘を立てる。夜ごとに少しずつ、踝が擦り切れていく。擦り切れた皮の下に、鉄錆の朱が薄く染みていくのが、指先で掬わずとも判った。

三日の間、訊問は一度もなかった。

訊問がない、というのが、答えだった。

訊かねば答えが得られぬ場合にだけ、訊問は行われる。答えが既に決まっている場合、訊問は邪魔になる。――刑の順序は、刑部の官が詮議する前に、別の場所で既に決められている。

獄吏の沓音が、通路の奥から段を踏んで近づいた。一人ではない。四人。沓の重さが、禁軍のそれだった。扉の鍵が二度鳴って、松明の光が、石壁に黄色く折れた。

「蕭明嶺。出よ」

声の張りに、迷いがなかった。迷いのない声は、筋書きを読んでいる声である。

引き立てられた。鎖が踝の擦り傷を新しく裂いて、生温かいものが踵の下まで垂れた。痛みは、そこにだけ集中させた。他の痛みは、まだ、使わぬ。

刑場は、宮門の南、市中に近い広場に組まれていた。詮議の結果と告げるには早すぎる、三日目の朝だった。三日目の朝は、都の民がまだ昨日の余韻で市場に出ていない。人手の少ない朝に、大がかりな演出は打てぬ。打てるのは、儀式だけである。

広場の中央に、木の台が据えられていた。台のうえには鉄の火鉢がひとつ、炭が既に白く灼けていた。炭の上に、鉄の印が一本、柄を起こして突っ込まれている。印の頭は、見慣れた文字ではなかった――「奴」の一字を、少し崩した官用の印である。燕雲の刑律で、もっとも軽く、もっとも重い印。もっとも軽く、というのは、殺しに比べて軽いという意味でしかない。焼かれた者は、二度と、人の列には戻らぬ。

明嶺は台の前で膝を折らされた。石畳は既に濡れている。冬の朝、わざわざ水を打たれた石だ。濡れた石は、罪人の血が、どこへ流れるかを計りやすくする。血の筋が、観る者の目にどう見えるか、あらかじめ仕組まれている。水の膜には、細い筋目が箒の跡として残っていた。箒は、血の流れる方向を、先にひとつ、決めている。西――宮門に向かって、流れぬよう。南――市中の方向へ、流れるよう。観る者の目の奥に、罪が「民の側」に落ちた絵を残す算段だった。

衆の縁、台の左手に李斉が立った。緋の朝服ではなく、今朝は淡い墨色の袍。役人が刑を「見届ける」ときに着る色である。自らの演出を、自らの手柄に見せぬ配慮だった。袍の袖口に、白い絹のひと筋。――あれは、昨日まで着ていた緋の朝服の裏地だ。色を隠しても、裏地を縫い替える時間までは、無かったらしい。

官の読み上げる罪状は、長かった。長いのは、短くしては民の耳に残らぬからである。「魏と通じ」「軍情を売り」「忠を偽り」――言葉の三つは、あらかじめ韻を踏むように選ばれていた。韻を踏ませた者は、漢文の作法に慣れている。李斉は、駢文よりも散文を好む男だった。この三字の韻は、李斉の手ではない。

鉄の印が、炭から引き抜かれた。印頭が、炭の赤を帯びて、空気の中で熱を散らした。熱は、明嶺の頬に届く前に、空気の匂いを変えた。鉄と、炭と、微かな――獣の脂の匂い。印の先に、前に焼かれた者の肉が、まだ粒になって残っている。刑部の官は、印を使うたびに磨く。磨きが甘い。急いでいる。

獄吏が頭髪を掴み、明嶺の顔を台の縁に押し付けた。石畳の湿りが、鼻先に届いた。濡れた石の下に、古い血の匂いが、鉄の粒として沈んでいる。

印が、額に下りてきた。

触れる寸前、皮膚が先に縮んだ。次に、音が来た。皮が焦げる音は、遠くで紙を燻べる音に似ていた。遠くで、というのは、自分の頭の中で距離が歪むからだ。痛みは、額から始まらなかった。先に、歯の奥が鳴った。奥歯の一本が、ひとりでに震えて、歯茎の根を内から突き上げた。次に、後頭部の骨が、熱ではなく冷たさで痺れた。熱さが骨まで届くと、逆に、冷たくなる。それから、ようやく、額が「焼けている」と、皮膚の裏が教えてきた。

痛みは、ひとつの場所に留まらなかった。額から、眉間の骨を伝い、眼窩の奥へと、濡れた紐のように這った。紐の先が、頭蓋の内側で、小さく、規則正しく、鳴った。鳴るたびに、明嶺は、それが鈴ではなく、自分の脈だと気付き直した。脈は、急いではいなかった。急いでいないことの方が、むしろ、恐ろしかった。――身体が、既に、この痛みを、受け入れる構えを整えている。十年、戦場で他人の死を読んできた男の身体は、自らの痛みすら、戦況の一つの変数として処理しはじめている。

呼吸を止めなかった。止めれば、次の息で叫ぶ。叫べば、演出が完成する。明嶺は、口の中で、舌先を下の歯の裏に押し付けた。鉄の味――舌を噛まぬように、噛む場所を、先に決めておいた。

印が離された。皮膚の一部が、印の先に貼り付いて持ち上がった感覚。そこから、痛みが、ようやく遅れて押し寄せた。

視界が、ひと呼吸、白くなった。白の中に、赤い粒がいくつか、内から浮いた。血ではない。目の奥の血管が、熱で一瞬、爆ぜた跡だ。明嶺は瞼を閉じなかった。閉じれば、今見えているものが、消える。

白の奥から、群衆の輪が、ゆっくり戻ってきた。官の声、兵の沓音、遠くの市場の呼び声。音の層が、先に戻る。色は、まだ遅れている。

色が戻る間に、明嶺は見た。

台の左手、李斉の肩の後ろ。群衆の輪のさらに外、人垣の隙間に、墨色の立ち袖がひとつ、立っている。立ち袖は、燕雲の官服の形ではない。襟の合わせが、右前に深い。南――大魏の文官の合わせ方である。顔は笠の影で隠れているが、指先が、袖の外で、一度、二度、と拍子を取った。二拍で区切る拍子は、大魏の軍典の合図。「見届け」の合図だった。見届けたのは、李斉の働きではない。李斉を、その立ち袖が、使っている。

立ち袖の指は、二拍を刻んだあと、掌を軽く内へ返した。返した掌の線には、墨の汚れが一本、薄く残っている。昨夜、どこかで、文を書いたばかりの指だ。文の宛先は、南――しかも、早馬ではなく、商隊の荷に紛れて運ばれる種類の文である。北辺の事を、南の市場の動きに溶かして流す。人の目を、兵ではなく絹と茶の値動きに向けさせる。――それが、この男の流儀だった。李斉のような男を駒に選んだのは、功を焦る色の濃い者ほど、使い終わった後に棄てやすいからだ。

李斉の頬に昨日落ちた影は、この男の光だった。玉座の奥の帳の内、そこに控えていたのは、この立ち袖だ。

――燕雲は、呑まれかけている。

合点が、痛みの底に、冷たい泉のように湧いた。大魏の皇子は、北辺に兵を入れる前に、まず、盤面の中央から駒を削りにきている。削るのに使われる駒は、燕雲の内の者だ。李斉は、自ら大魏に仕えたのではない。使われ、しかも、使われていると気付かぬよう、巧みに据えられた駒である。気付いていれば、あの袖口の裏地を縫い替える時間くらいは、捻出した筈だ。

そして、呼延遼は西回廊に追いやられた。追いやったのは、この立ち袖の指である。明嶺をひとり都で消し、呼延を遠く大磧に釘付ける。二本の柱を外したのち、亘河の氷上路を、大魏の兵糧が渡る。兵糧が渡れば、北辺の砦は、兵糧ではなく、兵そのものを飲むように崩される。燕雲の王都が、次の冬を迎える前に、国境の地図は、書き替えられる。

群衆の中で、子どもが一人、母の袖を引いた。母は子の目を掌で覆った。その掌の温かさが、明嶺には、額の熱より遠く感じられた。温かさは、もう、自分の側の世界には、属さぬ。掌の下で、子の瞼がわずかに動いたのが、明嶺の目に、なぜか映った。――見てしまった子は、今日の焼き印を、生涯、忘れぬ。忘れぬ子の数だけ、この筋書きを書いた者の、勝ちが積まれる。恐怖は、印よりも深く、民の胸に焼かれる。

明嶺は、唇の端で、微かに何かを刻んだ。笑ってはいなかった。笑いの前段で、息がひとつ、鼻の奥で細く、長く、吐かれた。息の長さの中で、彼は、十年ぶん、自分が見ていなかったものの地図を、一気に描き直した。

引き立てられる足元に、雪がひと片、遅れて落ちた。今朝の都には、雪は降らぬ筈だった。北から風がひと筋、南の香に溶けて届いた証である。

額の傷から、温いものが、鼻梁を一度なぞり、頤へ落ちた。頤から、石畳の上、乾ききらぬ水の膜の上へ、ひと滴。水の膜が、一瞬で、花のように赤く開いた。

明嶺は、瞬きをしなかった。瞬きをしなかったまま、内に、ひとつ、言葉を置いた。

――忠義の軍師は、今日、死んだ。

声には、出さぬ。声に出せば、李斉に気取られる。気取られれば、残りの駒を整える時が、足りなくなる。

踵を返された。血の一滴が、足の裏で踏まれ、石畳の奥へ、薄く擦り延ばされていった。擦り延ばされた赤の線の向こう、宮門の影の中に、西へ続く護送路の口が、黒く開いていた。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!