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白衣の鬼謀、盤上に還る

第2話 第2話

第2話

第2話

都の朱雀大街は、雪が積もらぬ。南の温い風が北辺の身体に貼り付き、蕭明嶺は鞍上でひとつ、肩を緩めた。緩めたその瞬間、項の筋がじんと痺れた。青狼山を出てから四日、ほとんど眠らずに馬を替え続けた首の筋が、ようやく自分の重さを思い出したのだった。蹄鉄が敷石を打つ。北の凍土ではひと打ちごとに大地が低く返事をしたが、ここの石は乾いた音しか返さぬ。ひとつ、ひとつ、小さな空洞を叩くような音が、両側の邸の白壁に跳ね返った。白壁の向こうで、女官の笑い声がひとつ、はじけては消えた。平時の音だ。平時の音のなかを、戦場帰りの自分ひとりが通っている――その違和が、鞍上の腿の内側に、鈍く残った。

朝議の刻限を告げる鐘が、朱塗りの楼の上で鳴った。明嶺は宮門の内で馬を下り、書状を衛士に示す。衛士の瞳が、ほんの一瞬、左手の鴨居の奥へ逸れた。――合図である。誰かが、彼の到着を待っていた。その誰かが、左手の柱廊のどこかに控えている。明嶺は何も見なかった顔をした。懐の茶葉を指先で一度だけ確かめる。布の棘が掌にかすかに食いこんで、老いた書記官の皺の深さを思い出させた。北辺を発つ前夜、その老書記官は震える指で茶葉を包み、「都の水は、北の水と味が違います」とだけ囁いた。味が違う、という短い言葉の裏に、どれだけの含みがあったか、今この門の内で、ようやく判る。

石畳を渡る。歩幅は、ふだんの八分。急がない。迷ってもいない。迷わぬ歩幅こそが、伏せた者の足を乱す。柱廊の奥で、絹の衣擦れが一度、途切れた。待っていた者が、息を詰めた音だ。明嶺は瞼を半ば落とし、そのまま通り過ぎた。通り過ぎる刹那、衣擦れの主の呼吸が、短く二度刻まれた。訓練された禁軍の息ではない。文官の、それも――主の命で動くのに慣れきった、若い侍従の息だった。

紫宸殿の扉が内から開く。白檀の香と、古い絹の匂いが一斉に流れ出た。香は、濃すぎた。何かを、覆い隠すための焚き方である。

玉座の段下、左右に文武の列。王は高い背もたれに沈んで座し、顔に倦みの影があった。朝議の前に、既に長い話を聞かされた顔である。列の筆頭、宰相・李斉が、一歩、ひそと踏み出した。緋の朝服、銀の帯。指の爪は、いつもより短く切り揃えられている。

「蕭軍師」 李斉の声は、春の薄氷のように澄んでいた。十年、同じ机の端で茶を啜ってきた声。 「北辺よりのご苦労、まず王に謝したまえ」

明嶺は段下に進み、片膝をついた。額を石に寄せたとき、石の冷たさが予想より深く額を刺した。大理の石は、奥の奥まで凍っている。この殿は、昨夜も火を入れていない。――朝議の前に、誰かが炭を片付けさせたのだ。冷えた石は、膝をつく者の思考を削る。長くは膝を保てぬよう、あらかじめ仕組まれている。

「御前の栄に浴し、恐悦至極」 声の太さ、呼吸の置き方、すべて昨日までの通りに出す。昨日までの蕭明嶺として、まず、座る。

王が、疲れた指で、李斉を促した。李斉は袖を捌き、懐から絹に包まれた一束を取り出した。絹の色は青――燕雲の色ではない。明嶺の目の奥で、扇の骨が軋む音がした。

「これを、ご覧いただきたい」 李斉の掌から、数葉の書簡が段の中央へ差し出された。内史が受け、王の膝上へ捧げる。王は目を細め、頁を繰った。繰り終わるのが、早すぎた。読まずとも、既に内容を知っている者の繰り方だった。頁の端を捲る指の節が、一度も止まらぬ。止まらぬ指は、昨夜のうちに、同じ紙束を、別の手で繰らされていた指である。

「蕭卿」 王の声が、ひとつ、老いた。 「この筆は、卿のものか」

明嶺は段へ進み、書簡を仰いだ。遠目に、書体の癖が見える。右払いの止め、点の沈み。――自分の筆に、似せてあった。十分に似ているが、墨の粒の詰まり方が、ほんの僅か、均されすぎている。上等な工房で、一晩で写された筆だった。写したのは、自分の机の抽斗を知る者だ。抽斗の奥、古い書状の束を、一度でも覗いた者だ。――覗ける距離に入れた者は、数えるほどしか居らぬ。

「筆は、私のものに似ております」 殿内の空気が、ひとつ、下がる。 「ただし、書いた覚えは、ござりませぬ」 「差出人は卿、宛先は大魏の鴻臚寺。青狼山の兵糧、亘河の氷上路の通達。三通、いずれも卿の印が押されておる」

李斉が、静かに、ひと息、息を継いだ。その息継ぎに、芝居の段取りのような整いがあった。稽古を重ねた俳優が、合図の太鼓を待つ、あの整い方だ。

「軍師殿」 李斉の瞳が、明嶺の瞳を、正面から捉えた。 「大魏より、燕雲の地図が買われておりました。買ったのは鴻臚寺の客卿、売ったのは――貴殿の縁者を名乗る、塩商」

明嶺は唇の内で、奥歯に舌先を当てた。茶葉の布が、懐のなかで微かに棘立った。縁者を名乗る塩商――その言い回しの裏に、具体の名が呑み込まれている。名を出せば、その名の裏が解ける。李斉は、名を出さぬことで、明嶺に「心当たりの者を自分から挙げさせる」罠を、薄く、一枚、敷いたのだ。

「呼延将軍をこの場に呼ばれよ」 明嶺は、声を平らに保った。友の名は、こういうときにこそ、呼ばねばならぬ。 「北辺の軍情は、遼どのと私、二人で組んだもの。偽りならば、二人で弁明いたす」

李斉は、わずかに目を伏せた。伏せる速度が、早すぎた。答えは、既に用意されていた。

「呼延将軍には、西回廊の胡族鎮撫の勅が、十日前に下っておる。今頃は、大磧の砂の中」

その勅は、明嶺が都を出た翌日に下されていた。――つまり、誰かが、明嶺が北辺を離れたその日のうちに、呼延遼を動かした。動かせる者は、この殿に一人しかおらぬ。いや、正確には、その一人の背後に立って囁ける者が、一人。

段の両脇の柱の影から、甲冑の衣擦れが一斉に湧いた。伏兵ではない。最初から、ここに詰めていた禁軍である。靴音の数、八。左右対称、段差ごとに二名ずつ。昨夜のうちに、立ち位置まで打ち合わされている。

「王」 明嶺は、一度だけ、王を仰いだ。 「この書簡、もし私の筆ならば、封泥の朱の乾きと、紙の繊維の粗さが、三日の道のりと合いませぬ。お調べいただきたく」

王の指が、書簡の端を、ひとつ、めくった。めくっただけだった。口は、開かれなかった。その開かれぬ口の重みで、明嶺は己の座を理解した。王は、既に、決めている。決めたうえで、目の前の光景を見せられているだけだ。決めさせたのは、誰か。

――殿の奥、玉座の更に後ろの帳。そこに、薄く、沈香とは別の香が流れていた。南の香だ。大魏で焚く、鉄気の混じった香。明嶺は、仰いだまま、瞼を一寸、細めた。帳の奥で、誰かが、息を殺して聴いている。その呼吸は、帳の揺れを生まぬほど微かだが、香の流れのわずかな乱れに、確かに現れていた。聴くことに慣れた者の息だ。明嶺自身が、北辺で幾度も、敵陣の奥に放ってきた種類の息である。

「蕭明嶺、魏との内通、明白にござる」 李斉の声が、殿の高さいっぱいに響いた。 「捕縛の上、刑部に下し、後日、詮議」 「弁明の猶予は」 「弁明は、もはや、王の御心を汚すのみ」

禁軍の手が、明嶺の両肩に掛かった。鎖の音が、冷たく、二度、鳴る。鎖は、あらかじめ温めてあった。凍った鎖で罪人の皮を剥がしては、殿内に血の匂いが立つ。そこまで気を配っている者がいる。――この演出の隅々に、李斉ではない誰かの指が、入っている。

明嶺は抵抗しなかった。抵抗は、演出の完成を助ける。鎖が手首を一巻きし、次に項を通った。冷たくはない。ただ、重かった。重さの配分に、迷いがなかった。縛り慣れた手ではない。縛らせ慣れた手が、背後で指図していた。

引き立てられながら、明嶺は一度だけ、首を巡らせた。視線の先、段下の李斉。緋の袖、銀の帯、短く揃えた爪。その顔に――蝋燭の角度のせいだけではない影が、ひとつ、差していた。

李斉の右の頬、耳の下から顎に向かって、細く、斜めに、青い影が走っている。殿の蝋燭の炎は、正面から当たっている。正面からの光で、あの角度に影は落ちぬ。落とせるのは、玉座の奥、帳の内側から差す、もう一つの光源だけだ。

――そこに、誰かが居る。

友の顔に差した影は、友のものではなかった。李斉の背後に立つ者の形が、李斉の頬を借りて、一瞬、輪郭を見せたのだ。明嶺は、鎖を鳴らしながら、唇の内側で、ひとつ、呑み込んだ。呑み込んだものは、怒りではなく、驚きでもなく、十年ぶんの「見えていなかった」という冷えた苦さだった。

扉が閉まる。白檀の香が、ぷつりと切れた。石廊の冷たさが、沓の裏から昇ってくる。鎖の一節ごとに、次の盤面の駒が、頭のなかで並び直されていった。

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