第1話
第1話
弓弦が凍てつき、指先に張り付いた。
蕭明嶺は城壁の狭間に身を寄せ、北から吹きつける雪を袖で払った。建寧三年、師走――燕雲の北辺、青狼山の砦。眼下には黒く縮こまった兵営の灯、その先に、三度の侵攻を退けた黒水平野が白布のように広がっている。風は骨を削るように鋭く、頬の皮が張り詰めて、息を吸うたびに喉の奥がひりついた。狭間の石積みに指を添えれば、皮膚が凍てた石に吸い寄せられ、引き剥がすとうっすらと赤い跡が残る。城壁の下では、歩哨の槍の穂先が月の青い光を弾き、時折、遠くで狼の遠吠えがひとつ尾を引いて消えた。
呼延遼が馬上で地図を広げた。鉄兜の縁に雪が積もっている。羊皮紙の端がかじかんだ指の間で鳴り、墨の線が雪片に滲みかけている。 「明嶺。次、奴らが来るのはこの峠だ」 将軍の太い指が、地図の一点を叩いた。明嶺は唇を指の腹で拭った。薄く血の味がする。昨夜、軍議で強情な部将を論破しすぎて舌を噛んだ名残だ。口中で鉄の味がかすかに広がり、同時に、甘く疲れた眠気が瞼の奥を押してくる。彼は一度だけ瞬きをして、その疲れを雪のほうへ振り落とした。 「――峠は浪費です。来るのは南東、亘河の凍結を使う」 「根拠は」 「南の大魏が二月から絹を買い占めた。あれは兵糧を凍らせて運ぶ包みに化けます。氷上輸送を前提にしている。加えて、月初に洛城で塩の相場が跳ねました。兵馬を養うときにだけ、ああいう跳ね方をする」
呼延遼は短く笑い、鉄兜の雪を払った。雪の塊が地に落ちて、湿った音を立てた。 「白衣の鬼謀。相変わらず、兵より絹を先に見るか」 「絹は嘘をつきませんので。――兵は、命乞いも、手柄の誇張もします」
石段を駆け上がる足音。伝令兵が両掌を胸前で重ね、息を切らせた。口から吐かれる白い息が、ひと筋、旗のように長く流れる。 「王府よりの使者、城門に到着」
紅い裘を着た使者だった。都の色。北辺には似合わぬ鮮やかさに、明嶺は胸の奥でかすかな違和を覚えた――扇の骨が軋むような音が、聞こえぬ場所で鳴った。裘の裾に雪がまだ溶けきらず、白い粒が赤い毛のうえに散っている。長旅の疲れにしては、馬の息遣いが整いすぎていた。途中、どこかの駅で替え馬を何度も用意されている。――誰かが、この使者を急がせた。使者の眉間には疲労の皺ひとつなく、頬も凍傷で荒れていない。北辺を駆け抜けた男の顔ではなかった。都からの道のりを、軟らかい寝床で継ぎ目なく繋いできた者の顔だ。
「論功行賞のため、軍師・蕭明嶺殿、王都へ参られたし」 使者は書状を両手で掲げた。封泥には王印。脇に、宰相・李斉の副印が重ねて押されている。封泥の朱は新しく、まだ油のようにわずかな艶を残していた。都を出てからの日数を数えれば、朱はもう乾き切っていなければならぬ。――この封は、途中のどこかで、押し直されている。
明嶺は雪のうえに片膝をつき、書状を受けた。上等な麻紙。書体は王のもの――に、似せてある。筆跡のわずかな揺らぎが、指先から伝わった。十年以上、王と机を並べてきた男だった。王は「遼」の字を書くとき、右払いを必ず止める癖がある。書状の「遼」は、止まらずに流れていた。墨の粒の沈みかたも違う。王の墨は重く、紙に食い込むように沈む。この墨は、上を滑っていた。指の腹に触れる紙の繊維まで、わずかに毛羽立ちが粗い。都の御用紙漉きが漉く紙ではない。――これは、よく似た別の工房から取り寄せられた紙だ。
立ち上がる。表情は微塵も動かさぬ。頬の内側でだけ、舌の先が奥歯に触れ、ひとつ、深く呑み込む。 「承知仕った。即刻、発つ」
使者が遠ざかると、呼延遼が足音荒く詰め寄った。鉄兜の縁で指が鈍く鳴る。 「行くな」 「行きます」 「明嶺」 「遼どの」 明嶺は雪を踏みしめ、低く声を落とした。声は風に攫われぬよう、相手の耳元だけに落ちる太さに絞ってある。 「都で、何かが動いています。王の筆ではない書状を、王の印で封じた者がいる。――行かねば、見えません」
呼延遼は無精髭の顎を掻いた。武骨な親指が、掌の古傷を無意識に撫でている。かつて矢を受け、明嶺が指で鏃を引き抜いた、その痕だ。 「李斉か」 「名は、まだ口にしないでください。風にも、雪にも、耳があります」 「あの男を、おまえはいつから疑っていた」 明嶺は答えぬまま、視線を南へ向けた。雪雲の奥、大魏の領境が黒く沈んでいる。代わりに、静かに問うた。 「遼どの。私が戻らぬうちに、亘河が凍ったら、どうなさいますか」 「……凍らせぬ。薪を焚いて、氷を溶かして待っている」 「それは軍費を食います」 「友を失うより、ましだ」 短い沈黙が落ちた。風だけが、ふたりの間で鳴った。明嶺は一度だけ、将軍の目を真っ直ぐに見た。武骨な鉄兜の影の奥で、呼延遼の瞳が濡れていた。涙ではない。怒りでもない。ただ、失うまいとする男の、張り詰めた水面だった。
息が白く上がった。白は、ふたり分、風の中で重なって、すぐ散った。明嶺は鞍に手を掛ける。掌に鞍革の冷たさが食い込んだ。縫い目に、去年の戦で飛んだ血の匂いが、まだ鉄の粒として残っている気がした。革の裏側には、呼延遼が彫ってくれた小さな刻印がある――「全(まっと)う帰れ」。指は意識せずとも、その刻印の上に置かれていた。
城門を出るとき、馬が一度、後ろ足を跳ねた。雪に滑ったのか、それとも主の迷いを読んだのか。明嶺は鬣に手を置き、短く何か囁いた。馬の耳が、ぴくりと動いた。
「軍師殿」 声に振り向くと、下級の書記官が息を切らせて追ってきていた。昨日、軍議で茶を淹れた老人だ。 「これを――都の水は硬うございます。腹を下されぬよう」 布に包まれた茶葉。老人の指の皺に、墨が黒く滲んでいる。昨夜、明嶺の代筆を務めた手だ。指先は血の気がなく、爪の下に紙の繊維が刺さったまま抜けずにいる。
「ありがたく」 懐に押し込み、鞍に跨った。老人は何か言いかけて、口を噤んだ。その沈黙が、どの言葉よりも重かった。包みの布は粗い。掌に棘のように絡む。――この旅に茶葉など要らぬと、老人は知っていただろう。それでも、何かを握らせねば気が済まなかった。つまり、この老いた手はすでに、報せの欠片を拾っていた。明嶺は目を合わさぬまま、ただ首を、一寸だけ下げた。了解の合図だった。
馬を駆る。
雪原を走りながら、明嶺は頭の中で駒を動かした。都に並ぶのは、王・李斉・諸将――帳の奥に座る、魏の間者。もし弁明もできず刑場に引き出されたら。もし、額に焼き印を押されたら。もし、この首が、李斉の足元に並ぶ順に数えられたら。いずれも、考え尽くした像だった。考え尽くしたものは、もはや恐怖ではなく、地図のうえの黒点にすぎない。 ……それでも、行かねば見えぬものがある。
蹄の音が凍土を打つ。ひと打ちごとに、大地が低く返事をする。明嶺は唇の端を微かに歪めた。笑みに似て、笑みではなかった。 「遼どの」 風に溶かすように呟く。 「亘河が凍る前に、戻ります。戻らぬときは――私の代わりに、裏切り者の名を、風の中に探してください」
同じ夜。南方――大魏、洛城の離宮。
銀の火鉢が燃え、鹿角の燭台に蝋が垂れていた。炭は上質で、煙は上らず、ただ熱だけが静かに部屋を満たしている。香のにおいは薄く、代わりに、新しい墨と、微かな血のような鉄のにおいがした。若き皇子・曹允は卓に広げた北辺の地図を、指の腹で撫でていた。燕雲の王城、青狼山、亘河、西域の塩鉱――順に、墨の点を打っていく。点の間隔は、ほとんど拍子のように均等だった。
扉が低く軋む。老いた宰相格が膝をついた。衣の裾から、雪解けの水が一滴、床の石に落ちて、黒く染みた。 「殿下。燕雲の使者、書状を渡したとの由」 「李斉は、ちゃんと印を押したか」 「副印、王印、ともに」
皇子は紅い唇をほどいた。歳は、まだ二十に満たぬ。その若さの奥に、老人よりなお乾いた瞳が据わっている。 「駒はそろった」
燭の火が、地図のうえでひと揺れする。亘河の線が、かすかに震えて見えた。北で蹄を鳴らす男の足音が、ここまで届いているかのように。