第3話
第3話
朝の光が、粘液の跡にだけは届かない気がした。
始発電車が過ぎ去ったあと、踏切は妙に静かで、警報音の残響だけが耳の奥にこびりついていた。少女は歩道に座り込んだまま、ランドセルの肩紐を握りしめて、しゃくり上げていた。彼女の視界には、もう何もない。飲蝕の触角も、灰色に滲みかけた靴下の綿も、たぶん、冬の冷気の一部として処理されている。
俺だけが、まだ線路の残響と、砕けた虹色の粘液の焦げた油の匂いを、舌の根で味わっていた。
指先が、熱い。
半拍。たしかに、時間が、半拍、戻った。
起き上がれない。両手はアスファルトに貼り付いたまま、革靴の底は、触角に舐められたはずの感触を、ありありと覚えている。覚えていないはずの感触だ。戻された、消された、上書きされたはずの感触。それなのに、脛の骨の内側で、神経の根が、焼ける記憶だけを勝手に再生していた。
つっかけの底が、凍った歩道を、一歩、また一歩、乾いた音で刻む。
老人が、踏切を渡ってきた。昨夜と同じ、色褪せた作務衣、綿入れの羽織、指先に紙巻き煙草。白い煙が、朝日に切り取られて、細く細く解けていく。湿った煙草の葉の匂いが、俺の鼻先まで届いた。昨夜のココアの甘さは、もう舌の上にはなかった。
老人は、俺の横を素通りした。
そして、始発電車が過ぎ去った線路の、砕けた砂利の上に、ひょい、としゃがみこんだ。
ひゅう、と短く息を吸い、右手の人差し指を、軽く立てる。親指の腹で、人差し指の第二関節を弾く。ただそれだけの、小学生でもできる単純な動作だった。
ぱちん、という乾いた音が、朝の空気に、一粒、落ちた。
その一粒が、俺の視界を、歪ませた。
線路の砂利の上で、視えない領域に散ったはずの飲蝕の残滓——粘液の破片のひとつひとつが、内側から青白い粒子に点火された。粒子は音もなく弾け、焦げた油の匂いだけを残して、塵になった。朝の光の中で、その塵の舞いは、たぶん、普通の人間には「砂埃が立っただけ」に見える。
俺にだけ、視えた。中級一歩手前の飲蝕が、完全に、消滅した。
指弾、一発。
それだけだった。
老人は、膝の埃を叩いて立ち上がり、俺の前まで戻ってくると、俺の頭の真上に、煙草の煙を吐いた。湿った葉の匂いが、前髪にまとわりつく。
「やれやれ、じゃな」 「爺さん——」
声が、掠れた。喉の奥が張り付いて、続きが出てこない。老人はそれを待たずに、しゃがみ込み、俺の指先をのぞき込んだ。親指と人差し指の腹を、目を細めてじっと観察する。
「熱いじゃろ、そこ」 「……」 「発動した直後は、指紋の谷の奥に、余熱が残る。半拍、戻したじゃろう」
半拍、戻した。口に出されて、ようやく、俺の中のそれに、仮の名前がついた。
「あんた、何者なんだ」
老人は、ふん、と鼻から息を抜き、綿入れの胸元から、一枚の名刺を取り出した。ずいぶん古びた、手漉きの和紙の名刺だった。『九十九(つくも)』。崩し字で、二文字だけ。住所も電話番号もない。
「九十九と書いて、つくもと読む。昔、そう呼ばれた。今はただの隠居じゃ」 「昔って、いつだ」 「お前さんが生まれるよりは、少しばかり前じゃな」
少しばかり、の目盛りが想像できなかった。老人の目尻の皺の一本ずつが、祖父の顔のどの皺よりも明らかに深い。
「爺さん。さっきのあれ、中級一歩手前の飲蝕(おんしょく)だ。本家の実戦部隊でも、三人掛かりで半日仕事だって、十歳の頃、図鑑で読まされた」 「ほう、よく覚えとるな」 「指弾一発で、消した」 「うむ」 「あんた、化け物だ」 「それは、お前さんの方じゃよ」
老人は、煙草の灰を指で弾いた。灰が、朝の光を受けて、小さな粒のまま凍った歩道に落ちた。
「霊格『鈍(どん)』と判定されたのは、四年前じゃな」 「……」 「測定盤の針が、ゼロから動かんかったじゃろう」 「なんで、それを」
老人は、俺の問いには答えなかった。代わりに、右手の人差し指を、自分の眉間の前に立てた。さっき飲蝕の残滓を消したのと同じ指だ。
「針が動かんかったのは、な。動かせなんだからじゃ」 「……どういう」 「測定盤は、小さい。お前さんの器は、大きい。桶で海の水を測ろうとして、桶の縁から、水が全部こぼれておった。針が振れるより先に、器が測定盤そのものを呑み込んでしまう。それで、ゼロに見えた」
息が、詰まった。
胸の中で、何かが音を立てて崩れる音を聞いた。四年間、積み上げて、ならして、なるべく平らにしてきた何かが、ひび割れて、剥がれていく。鞄の底で、発動しなかった呪符が、一枚、鉛の塊から、ただの紙片に戻っていく重さを、俺は感じていた。
「……四年、遅れたのは」 「器が、大きすぎたからじゃ」
老人の声は、淡々としていた。
「鈍(どん)、ではなかった」
喉の奥から、かすれた声が、ようやく絞り出された。
「鈍、ではなかった」
繰り返した。二度目のその音が、自分の耳の奥で、変な風に反響した。視界の端で、朝の光が震えた。いや、震えていたのは俺の睫毛だった。
「祖父さんは、知っていたのか」
老人は、答えなかった。煙草の先を、歩道の縁石で揉み消した。焦げた葉の匂いが、鼻の奥に刺さる。
「知っていたとしても、知らなんだとしても、今のお前さんには、もう関係ない」 「……ある」 「ないのう」
老人は、羽織の袖口で、俺の肩を軽く叩いた。袖口の奥に、古びた紋様の刺繍が、一瞬だけ視えた。退魔師の家紋だ。本家の九つの分家の、どれにも属さない。
「坊主。さっきの半拍、あれは遡行(そこう)系じゃ。稀少系統でな、因果の繰り戻しを扱う。使いこなせば、たいていの死は避けられる。使い損なえば、自分の方が時間に呑まれて、消える」 「……消える」 「そうじゃ」
指先の熱が、いま、急に怖くなった。
「じゃがな、今のお前さんは、発動の仕方を、身体だけで覚えとる。理屈を知らん。理屈を知らん刃物は、使い手の指を、落とす」
老人は、綿入れの袖に手を入れて、背筋を伸ばした。朝日が、ようやく踏切の上まで昇ってきて、老人の白髪を、淡く縁取った。
「弟子に、ならんか」
一言だった。
「……は」 「儂のところで、修行せんか、と言うとる」
頭が、まだ半拍前の死に引き戻されていて、言葉の意味をすぐには処理しきれなかった。見ず知らずの老人が、本家から追放された十六歳に、弟子入りの話を持ちかけている。
「……条件は」 「ない、と言いたいがの」
老人は、ふっと目を細めた。
「一つだけ、ある。それは、お前さんが決めてから話す」
頭の中で、いろんな声が同時に鳴った。本家への疑念——ただの誤計測だったのか、意図的に潰されたのか。祖父の「血筋に泥を塗った」の台詞が、別の角度から、いまごろ刺さってきた。少女を救えた手応え。指先の余熱。死んだ自分の感触。老人の、指弾一発。
答えは、すぐには出せなかった。
「……少し、時間をください」 「ふむ」 「一晩、考える」 「一晩でも、一年でもよい」
老人は、頷いた。それから、手の中の名刺を、俺の制服のブレザーの胸ポケットに、そっと差し込んだ。紙の繊維の粗さが、シャツ越しに、胸の皮膚に届いた。
「気が向いたら、その名刺を持って、中野の喫茶店『九十九堂』を訪ねて来い。北口から徒歩八分、青梅街道沿いの古書店の裏じゃ」
中野。俺の住んでいる街だった。
「一つだけ、今のうちに言うておく」
老人は、背を向けかけて、振り返った。朝の光が、綿入れの羽織の背中から、毛糸の帽子の縁まで、淡い輪郭を一本引いた。
「派手に活躍したくなったら、来るな」
え、と小さく声が出た。
「英雄にも、復讐者にもならんと約束できる者しか、儂は取らん。お前さんの器は、派手に振れば、街を一つ呑む。そこまで大きい。じゃから、儂が求めるのは——」
老人は、そこで一度、言葉を切った。
「穏やかに、祓える者じゃ」
それだけ言って、老人は踏切の向こうへ歩き出した。つっかけの底が、かつ、かつ、と凍った歩道を刻む音が、朝のざわめきに溶けていった。
少女は、もう泣き止んで、ランドセルを背負い直し、反対側の歩道を小学校の方へ歩き始めていた。彼女の靴下には、灰色の痕跡は、もう残っていない。
俺は、胸ポケットの名刺の、紙の粗い繊維を、指の腹で確かめた。
九十九(つくも)。
派手に活躍したくなったら、来るな——その一言が、自販機の前の「視えとるじゃろ」と同じ重さで、耳の奥に残った。
遠くの校舎から、予鈴の音が、風に乗って届いた。俺は、ようやくアスファルトから両膝を起こし、歩道に立ち上がった。指先の熱は、まだ引いていない。