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鈍(どん)、半拍の因果

第2話 第2話

第2話

第2話

始発の山手線が、耳の奥で遠く鳴った。

冬の朝、六時四十八分。制服のブレザーの上に薄っぺらいダッフルを重ね、俺は中野の裏通りを駅へ向かって歩いていた。吐く息は白く、コンクリートの歩道には前日の雨が凍って、つま先で蹴ると小さな薄氷の破片が弾ける。右手の鞄の中で、弁当代わりの百円のおにぎりが、シフトの疲れと一緒に鈍く揺れていた。

四畳半を出る前、鏡の中の自分は酷い顔をしていた。二時間半しか寝ていない。目の下には、ペンで塗ったみたいな隈。バイトと学校の間に睡眠を挟むと、生活はいつも片側に傾く。

昨日の、自販機の前の老人の声が、まだ耳の奥で残響していた。

——鈍すぎて視える、という奴も、まれにおるんじゃよ。

布団の中で何度反芻しても、意味はほどけなかった。鈍(どん)の霊格は、四年前の測定盤が出した答えだ。本家が、祖父が、学者連中が、全員で確認した底辺の数字だ。そこに別解などない。老人は、どこかの小さな道場の老爺が、俺の制服の襟元から退魔師の匂いを嗅いで、戯れに絡んできただけだ——そう自分に言い聞かせて、俺は駅までの道を急いだ。

急ぎながらも、鞄の底に入ったままの呪符一枚の重さを、妙に意識していた。たった三グラムの紙片のはずが、今朝に限って、鉛の塊を背負って歩いているような錯覚がある。鞄の革の縫い目の奥で、符の紙が、布の繊維に擦れて、かさり、と乾いた音を立てる。耳に届くはずのない音が、なぜか拾えた。

線路沿いの、誰もが使う踏切に差しかかった時だった。

遮断機の下りかけた警報音(カン、カン、カン)が、朝の澄んだ空気を細く切り裂いている。俺は足を速めて、降りきる前に渡ろうとした。そのつま先が、アスファルトの継ぎ目に届く直前——

視界の左端に、黒い粘液の塊が映った。

高さ一メートルほどの、巨大な蛞蝓(なめくじ)だった。ぬらりと光る背中、伸び縮みする灰色の触角、線路の枕木の隙間から這い出てくる胴体は、人間の胴回りより太い。粘液は朝の冷気に触れて、湯気とも呼べない薄い水蒸気を上げている。鼻の奥に、生牡蠣を腐らせたような、甘ったるい腐臭が刺さった。舌の根が、反射的にきゅう、と締まる。唾を飲み込めば、その腐臭まで一緒に胃に落ちていきそうで、俺は口の中を乾かしたまま息を止めた。普通の蛞蝓じゃない。普通の蛞蝓なら、歩道に塩を撒くだけで済む。

中級一歩手前の妖魔。蛞蝓型——「飲蝕(おんしょく)」と呼ばれる種類だ。本家の図鑑で、十歳の頃に読まされた。生き物の影を飲み込んで、じわじわ魂を溶かす。視えないまま足を舐められた者は、その日のうちに家で倒れ、三日で衰弱死する。図鑑の頁の隅に、祖父が万年筆で書き殴った文字が、頭の奥に蘇る。「視える者にしか、防げぬ」——その一行が、いま、急に喉元まで競り上がってきた。

遮断機が、降りきった。

そして、俺は気づいた。

踏切の向こう側——線路を挟んで反対の歩道に、ランドセルを背負った小学生がいた。低学年。たぶん一年か二年。赤いランドセルの少女が、遮断機の下をくぐろうとして、つまずいて、膝から地面に崩れ落ちていた。

彼女の足元に、飲蝕の触角が、舌のようにするりと伸びていった。

「——っ」

少女はまだ何も視えていない。視えるはずがない。警報音と、始発電車の遠い唸りだけが、朝の空気にこだまする。飲蝕の触角は、少女の靴下のふくらはぎに触れ、じゅう、と湿った音を立てて吸い付いた。靴下の白い綿が、内側から滲むように灰色に変色していく。少女の頬から、すうっと血の気が引いていくのが、二十メートル離れたこちらからも分かった。

少女が、声にならない悲鳴を上げる。

身体が、勝手に動いた。

俺は遮断機をくぐり、線路に飛び込んだ。砕けた石が革靴の底を滑らせる。鞄の底に手を突っ込んで、四年間発動しなかった呪符を引き抜いた。紙の縁が、指先を薄く切る。血の匂いが、寒気に混じった。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前——」

九字を切る。祖父に叩き込まれた最低限の起動句。声は震えていた。喉が乾いて、最後の「前」が掠れた。それでも、口は勝手に発音を完了させていた。十歳から千回以上繰り返してきた音が、舌の上に残っていた。

符に、何の反応もない。

四年前と、同じだ。

紙は、ただの紙のまま、指先で頼りなく揺れている。墨の朱が、朝日に当たって鈍く光るだけだ。胸の底で、何かがすとんと落ちた。落胆ですらなかった。むしろ、ああ、やっぱり、という乾いた納得だった。四年間、心のどこかで待ち続けていた「もしかして」が、今朝もまた、静かに扉を閉めただけだった。

飲蝕の本体が、じゅる、と粘液を鳴らして、こちらに首を巡らせた。灰色の触角が、少女のふくらはぎから離れ、今度は俺の足首に絡みつく。肉を溶かす類の吸着音。革靴越しに、皮膚が焼かれる痛みが駆け上がってきた。脛の骨の内側で、神経が一本ずつ針で抜かれるような感覚。視界の端が、白く飛んだ。

始発電車のヘッドライトが、遠くから直線的にこちらに迫っていた。

死んだ。

そう思った瞬間、世界の時計が、ほんの一拍、噛み合わせを間違えた。

いや、半拍だ。

電車のヘッドライトは、まだ直線の途中だった。飲蝕の触角は、まだ俺の足首に達していなかった。少女の膝は、まだアスファルトに触れていなかった。——いま、さっき、俺が視ていた光景の、半歩手前。

指先が、熱い。

親指と人差し指の腹に、火傷みたいな電流が走っている。指紋の谷のひとつひとつが、内側から微かな熱を発しているようで、握り込んでいる紙の繊維まで粒立って感じ取れた。呪符を握った右手の指が、勝手に震えた。その震えの奥から、何か、輪郭のない、薄い膜のようなものが、俺の身体の内側で広がっていく。胃の腑から喉元へ、喉元から後頭部へ、後頭部から両眼の裏側へ。視神経の根元が、内側からそっと押し開かれる感覚。世界の輪郭が、コンマ数秒だけ、ずれて二重に見えた。耳の奥で、始発電車の低い唸りが、一度だけ巻き戻って、二重に重なって再生された。

戻った、と直感した。肺が、一瞬、空気を吐く順序を忘れた。

半拍、過去に、戻った。

理屈は一つも分からなかった。でも、身体が知っていた。いま、俺は一度死んで、その直前に戻ってきた。脳のどこか、普段は使っていない皺の奥に、消えたはずの「死の感触」が、ぬるい指紋のように残っていた。革靴を溶かされた痛みも、電車の風圧の予感も、確かにあった。あって、消されて、上書きされた。

考えている時間はない。

俺は、二度目の半拍を、最初の半拍と違う手で使った。発動しない符を握っている暇はない。右手を少女のランドセルの肩紐に伸ばし、全体重をかけて歩道の外側へ引き倒す。少女の身体が、遮断機の外側に転がる。痛そうな泣き声が、ようやく空気を裂いた。

同時に、左足の革靴を、飲蝕の触角に向けて蹴り込んだ。革の底が粘液に触れ、吸い付く寸前で、俺は足を抜く。踵が、枕木にぶつかって、鈍い痺れが腰まで上がった。

始発電車のヘッドライトが、線路の継ぎ目を越えた。

俺は歩道側に、転がり込んだ。

飲蝕の胴体が、電車の車輪に巻き込まれ、粘液が、一瞬だけ虹色に弾け、そして——視えない領域に、ぱんと散った。

警報音が止まる。遮断機が、緩慢に上がっていく。少女は、しゃくり上げながら、膝をさすっていた。視えない痕の、視えない痛みを、彼女はもう覚えていない。

俺は、アスファルトに両手をついて、息をしていた。

指先が、まだ熱い。

半拍——と、自分の中で繰り返す。半拍、時間が、戻った。

視界の端に、ふっと煙の匂いが混じった。

顔を上げると、踏切の向こう側の歩道、朝日がちょうど届いていない電柱の陰に、あの老人が立っていた。色褪せた作務衣、綿入れの羽織、指先に細い紙巻き煙草。昨夜、自販機の前で煙草を吹かしていた、あの爺さんだった。

老人は、煙草を一度深く吸い込んで、煙をゆっくりと吐き出した。白い煙が、朝の光に透けて散る。その向こうから、底の知れない眼光がまっすぐ俺を捉えていた。

「——やはり、の」

低い、しゃがれた声が、線路の向こうから届いた。

俺は立ち上がれない。両手はアスファルトに貼り付いたまま、指先だけがひくひくと痙攣していた。老人は煙草の灰を指先で弾き、一歩、こちらへ足を踏み出した。

つっかけの底が、朝凍りついた歩道の上で、かつ、と乾いた音を立てた。

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