第1話
第1話
レジのバーコードスキャナーが、今日三百七十八回目の電子音を鳴らした。
俺は缶ビールと柿の種と温かい肉まんをレジ袋に詰めて、常連の中年男にカウンター越しに押し出す。「ありがとうございました」の声は、もう喉の奥で自動再生される録音テープみたいだ。腰の後ろが鈍く痛む。立ちっぱなしの六時間は、高校生の背骨には少しばかり重い仕事だった。
深夜二時、新宿西口のコンビニは、終電を逃した人間と、最初から終電など関係ない人間とで構成されている。俺はそのどちらでもない。ただの高校二年生、時給千百三十円の相模原宗一郎——本家から半ば追放された、霊格「鈍(どん)」の十六歳だ。
客が途絶えた隙に、窓ガラス越しの夜を眺める。靖国通りの信号が赤から青に変わる、その境目に——俺にしか視えないモノが滲んでいた。
黒い影。高さ三十センチほどの、犬のような四つ足。ただし頭が二つある。低級妖魔「双頭狗(そうとうく)」の幼体だ。電柱に尾を絡ませ、口から灰色の涎を垂らしながら、転がったコンビニ袋のビニールを舐めている。歩道を歩くサラリーマンたちは、そいつを素通りしていく。視えないのだ、普通の人間には。
「……また、湧いてんのかよ」
口の中で呟く。呟くことしか、できない。俺の家伝の呪符は、四年前から一度たりとも発動していない。鞄の底にしまわれた紙切れは、湿気ったお守りと変わらない重さだ。
視えるのに、祓えない。夜ごと、この街の裏で瘴気の匂いだけを拾い続ける半端者。それが俺の、退魔師としての現在地だった。
自動ドアが鳴って、寒風がカウンターまで届く。俺は顔を上げ、笑顔の皮を一枚被り直した。
シフトが明けたのは午前三時過ぎ。店長に頭を下げて裏口を出ると、冬の風が制服のブレザーを刃物みたいに突き抜けていった。都内の寒さはコンクリートに反射する種類の冷たさで、足の裏からじわじわ忍び上がってくる。
ボロアパートまでは徒歩十七分。中野の、さらに奥まった木造二階建ての一番端。四畳半に風呂なしの部屋が、俺の唯一の城だ。家賃四万二千円は、バイト代で自力で払っている。相模原本家からの仕送りは、四年前から、ない。
霊力測定。十二歳の冬。
目を閉じれば、あの日のことは今でも青白い光ごと蘇る。台座に掌を置けと言われ、冷たい水晶の板に押しつけた。隣の部屋は全面の硝子張りで、本家の大人たちがずらりと並んで観察していた。測定盤の針はゼロから動かなかった。動かないまま、何度も何度も波を打たせられた末、最小単位の震えだけが記録された。
霊格「鈍(どん)」。
退魔師の家系において、それは、呪符を発動できず、式神を使役できず、結界も張れない——つまり何もできない無能の烙印だった。兄弟姉妹は全員、第三階梯以上の霊格を持っていた。嫡流である俺一人が、測定不能に近い底辺判定。祖父は硝子の向こうから歩いてきて、孫に向かってたった一言だけ吐いた。
「血筋に泥を塗った」
その夜のうちに荷物を詰められ、都内のアパートに放り込まれた。食い扶持は自分で稼げ、学校は好きに行け、名前はなるべく出すな。本家からの通達はそれだけだった。
それでも、視える。
何もできないはずの俺だけが、夜ごと、低級妖魔だけは視える。本家の学者連中は、この矛盾を『測定誤差の残留霊視』で片付けた。視えるのは幻覚、祓えないのは正常——二つの『正常』を重ねて、俺という現象を無理やり説明書から削除した。納得なんてできなかった。幻覚が毎晩、この街の電柱の裏から瘴気を噴き出しているとでも言うのか。
白い息を吐きながら、裏通りに折れる。街灯がまばらで、コンビニの光が届かない領域に入ったとたん、案の定、電柱の根元に細長い影が三つ、蠢いていた。地縛霊擬きの残滓——こいつらは人に害はない、ただ視えるだけの連中だ。
視線を合わせない。足音を立てない。息を殺して通り過ぎる。祓う力のない退魔師の子供が唯一身につけた、生存術だった。
関わらない。視ない。いないことにする。
鞄の底を、指先で探る。祖父に渡された最後の呪符が一枚、お守りみたいに入っている。四年間、何度血を擦り込んでも燃えなかった。呪を唱えても、紙は紙のままだった。
「……」
喉が渇いていた。自販機の前で、足が止まる。百二十円のホットココア。今日の昼、学食のきつねうどんを我慢した俺は、この一本を自分への報酬に決めていた。
ボタンを押すと、缶がカラン、と内臓に響く音で落ちてくる。金属の熱が、かじかんだ指先を焼いた。プルタブを開けて、一口。
甘さが、口の中でじわりと広がる。今日一日、俺が自分で稼いだ百二十円の味だ。
自販機の灯りが、俺の影を歪に長く伸ばしていた。その隣に、もう一つ影が揺れていることに、俺はようやく気づいた。
皺だらけの老人が、錆びた壁にもたれて煙草を吹かしていた。
年の頃は八十手前。色褪せた作務衣の上に、綿入れの羽織。頭には毛糸の帽子、足元はつっかけ、指先に細い紙巻きの煙草——この時代に紙巻きを吸う人間は珍しい。白い煙が、自販機の灯りに照らされて、ゆらゆらと夜空に溶けていく。湿った煙草の葉の匂いが、ココアの甘さに混ざった。
こんな時間に、こんな場所に、何者だ、この爺さん。
「遅い時間じゃのう、学生さん」
声をかけられた。低い、しゃがれた、それでいて不思議と耳に残る声だった。俺は軽く会釈だけして、通り過ぎようとした。通り過ぎる、つもりだった。
「坊主」
二歩進んだところで、背後から呼び止められる。俺は振り返らずに足を止めた。
「そこの電柱の根元、三匹おるじゃろ」
心臓が、一拍、止まった。
ココアの缶が、指の中で急に重くなる。電柱の根元の、あの細長い三つの影のことだ。視えているだなんて、普通の人間は絶対に言わない。
振り返ると、老人は煙草を咥えたまま、目だけでこちらを見ていた。白髪の奥、底の知れない眼光。間違いない、この老人は、同じ業界の人間だ。
「……俺は、何も視ていません」
反射的にそう答える自分に、自分で驚いた。本家に追放された日から、俺は「視える」ことを徹底して隠してきた。視えると言えば、また何か試される。また「鈍」だと嗤われる。また、居場所を失う。
老人は、ふっと短く煙を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
「ほう。視えん、か」 「はい」 「鈍(どん)な奴は、視えんなりの生き方がある。じゃが——」
その単語に、俺は息を呑んだ。
「鈍すぎて視える、という奴も、まれにおるんじゃよ」
言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。
鈍すぎて、視える。
俺の霊格は「鈍」だ。呪符一枚発動できない、底辺の「鈍」だ。でもこの老人は、それが視える理由だと、まるで逆説みたいに言った。冷たい風が、首筋を撫でていく。俺はココアの缶をぎゅっと握り直した。缶の底に残った熱が、指先の感覚を少しだけ戻してくれる。
「爺さん、あんた、何者だ」 「ただの隠居よ」
老人は懐から新しい煙草を取り出し、百円ライターで火を点けた。煙草の先が、ぽっと赤く灯る。その灯りが、一瞬、俺の目の奥に焼きついた。
「名乗る義理もない。——じゃが坊主、四年前じゃろう」 「……何が」 「お前さんの時計が、止まったのは」
背筋を、一筋、氷の指がなぞっていった。
四年前。測定盤の針がゼロ付近で震えた、あの夜。この老人は、何を知っている。どこまで知っている。
俺は答えられない。喉が、貼り付いて動かない。ココアの缶を、指の関節が白くなるほど握り締める。
老人は煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。細い煙が、夜風に散らされて消えていく。その煙の向こうから、老人の目だけが、じっと俺を見ていた。
「お前さん、視えとるじゃろ」
念を押すような、それでいて確信に満ちた声だった。拒みようがなかった。視えている、と口が勝手に認めそうになって、俺は必死にそれを喉の奥で止めた。
代わりに、一歩、後ずさる。
「……失礼します」
会釈もせず、背を向けて歩き出す。自販機の灯りから離れて、暗いアパートへの道を急いだ。背後から呼び止められはしなかった。
けれど、あの声だけが、夜の路地にいつまでも残っていた。
視えとるじゃろ——その言葉が、四畳半の布団に潜り込んでからも、耳の奥で繰り返されていた。