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逆符式の落第陰陽師

第3話 第3話

第3話

第3話

右手に握った符の表面で、赤い文字が完成した瞬間、路地の時間が、一度、止まった。

いや、止まったわけじゃない。止まったように、俺の目にだけ、見えたんだ。

呪殺級の裂けた頬の奥の振動が、一枚ずつのフレームにバラけていく。自販機のモーター音が、一度だけ、音階を外して低く伸びた。雪吉の焦げた毛の上で、灰の粒が、落下の途中でふわりと留まる。俺の呼吸だけが、不自然な速度で、続いている。

霊符帳の、十二本目の赤い紐が、宙でほどけた。ほどけた紐は地に落ちずに、空気の中にそのまま溶けた。紐の代わりに立ち上がったのは、俺の右手の符の背に浮かんだ、真っ赤な一文字。

「逆」。

読めなかった一文字を、初めて、読んだ。

読んだ、というより──俺の喉の奥が、勝手に、字を飲み込んだ。

飲み込まれた音が、舌の根で跳ねて、首から肋骨まで、一本の細い線になって滑り落ちていく。胸郭の内側が、外からの呪詛の圧と、内からの文字の圧で、挟まれる。祖父の霊符帳が、俺の手の中で、四拍目の余韻を、まだ引きずっていた。

雪吉の瞼が、半分のまま、止まっている。

止まっている、と思ったのは、たぶん俺が、そう願ったからだ。

呪殺級の腕が、俺の頭の上、三十センチの高さで、固まっていた。人型の靄の裂けた頬の奥の笑みが、歪みから、ゆっくりと、戸惑いの形へ、書き換わっていく。

俺の右手の符が、静かに、熱を持った。

熱というより、飢え、だった。

符の背の「逆」の文字が、俺の指の腹を一度、軽く噛む。噛んだ、としか言いようのない、生き物みたいな触り方だった。蚊に食われた跡より浅く、虫歯の初期のひと刺しより、深い。刺された皮膚の下で、俺の血が、符の側へ吸い寄せられるのが判る。血だけじゃない。血の中に溶けている、俺の霊力、〇・八二の貧弱な残滓。それを、符は一滴の躊躇いもなく、吸い上げていく。

吸い上げた分だけ、符は、外へ、口を開ける。

呪殺級の胸のあたり、三つの核が寄り合って作った球体が、ぐらり、と揺れた。

揺れて、俺の符の側へ、糸を引いた。

黒い糸だった。呪詛の粘度を持った、ねばつく細い線。一本、二本、三本──人型の胸から、首から、腕から、順番に、糸が伸びてくる。伸びた先は全部、俺の右手の符の背、あの赤い「逆」の文字の、中心へ、吸い込まれていく。

「──吸って、んのか」

声に出してから、自分で、笑いそうになった。笑えば、呼吸が戻る。戻った呼吸で、次の言葉が、出る。

「お前、呪殺級を、吸ってるのか」

符は、答えない。ただ、背の文字が、糸を一本飲むごとに、赤から、朱へ、朱から、血の色へ、濃度を上げていく。文字の輪郭が、俺の指の腹の下で、脈打っている。脈の間隔が、呪殺級の三核の旋回速度と、完全に、同期していた。

人型の靄が、初めて、後ろへ、一歩、引いた。

引いた、というより、引かれた。俺の符が、糸の先を、手繰っている。釣り糸の魚じゃない。釣り糸のほうが、魚を、手繰り寄せている。

裂けた頬の奥の振動が、ひと際、低くなった。呪詛の音、じゃない。恐怖に似た何かの音、だった。霊の側が、怖がっている。

俺の肘の関節が、震えた。

震えは、恐怖からじゃ、なかった。

右手に、流れ込んでくる霊力の量が、俺の身体の受容できる限界を、とっくに、超えている。指先の毛細血管が、内側から押し広げられる感触。血管の壁が、符の背の文字の脈動に合わせて、鳥の喉みたいに、膨らむ。皮膚の下で、糸が一本ずつ、自分の通り道を、探している。痛くは、ない。痛くないことが、一番、怖い。

符の文字が、血の色を通り越して、黒に、染まった。

黒、というより、赤を極限まで煮詰めた先に現れる、もう一段深い、色。

人型の靄が、首から下を、一気に、薄くした。

薄くなった分だけ、符が、飲んだ。

飲むたびに、俺の呼吸の回数が、一拍ずつ、ゆっくりになる。四つ吸って六つ吐くリズムが、三つ、二つ、一つ、と減っていく。減った分だけ、胸の底に、余白が、できる。余白の場所に、呪殺級の呪力が、静かに、畳まれていく。

祖父の声が、頭の奥で、鳴らなかった。

鳴らない代わりに、俺の指の腹が、符の背の上で、ひとりでに、動いた。親指で、文字の端を、押さえる。人差し指で、紙の繊維を、撫でる。撫で方の手順を、俺は、教わっていない。教わっていないのに、指が、正しい手順を、知っている。

──知ってる手が、俺の手に、乗っている。

祖父のだ、と、根拠もなく、確信した。

呪殺級の人型が、首から上だけの輪郭に、なった。

笑いの形を忘れた頬の裂け目が、今度は、ただの、裂け目に、戻っていた。

「行くぞ」

誰に言ったのかは、自分でも、判らなかった。

俺は、符を、人型の残骸に、向けた。

向けた瞬間、符の背の文字が、一度だけ、白く、反転した。

呪殺級の残骸が、白い内側の光に、真芯を、撃ち抜かれた。

撃ち抜かれた、と表現するしかないのに、音は、なかった。

音の代わりに、路地の空気のほうが、裏返った。

一瞬、路地全体が、フィルムのネガみたいに白黒を反転させて、すぐに、元に、戻る。戻ったとき、呪殺級の人型は、もう、どこにも、居なかった。裂けた頬も、三つの核も、首から下の薄い輪郭も、一片の黒い粒さえ、残っていない。

残ったのは、俺の右手の中の、符、一枚。

符の背の「逆」の文字が、黒から、徐々に、赤へ、赤から、朱へ、朱から、普通の墨色へ、色を落としていく。色を落とすたびに、俺の肘の震えも、ひとつずつ、引いていった。最後に、文字が、祖父の筆跡に近い形で、紙の中に、静かに、沈んだ。

右手の指先から、血の粒が、三つ、落ちた。

鼻の奥にも、鉄の味が、滲んでいる。喉の粘膜のどこかが、切れている。切れた箇所を、俺の舌が、勝手に、探す。探して、見つけて、なぞって、痛みを、確認する。痛みが、あった。ある、ということが、嬉しかった。

生きている。

呪殺級を、呪殺級を、吸って、俺は、生きている。

膝から、崩れるように、路地のコンクリートに、片膝を、ついた。油染みが、膝頭を、冷たく噛む。もう一度、同じ場所で、噛まれた。二度目の冷たさは、さっきより、ずっと、リアルだった。

「雪吉」

呼んで、俺は、三歩、歩いた。

歩けた。

雪吉の白い身体は、壁際で、ゆっくりと、呼吸を、していた。焦げた毛先が、かすかに、上下している。俺の符の光が消えた瞬間、雪吉の瞼が、薄く、開いた。黒い瞳の縁に、焦点が、戻ってきていた。

「生き、てるか」

雪吉の尾が、一度だけ、短く、揺れた。揺れ方の意味を、俺は、五年かけて、覚えた。

「ばか」の意味だった。

笑った。笑えた。笑えたことに、驚いた。

雪吉を、両手で、抱え上げる。焦げた毛の匂いが、俺の鎖骨の下で、じんわりと、熱を戻していく。雪吉は俺の掌の中で、もう一度、尾を振った。今度は、「ただいま」の意味だった。

抱き上げた雪吉を、襟の内側の、元の場所に、そっと戻す。戻した瞬間、雪吉は、俺の頸動脈の上に、また、鼻先を当てた。温めなおしてくれている。逆だ、と、俺は思った。今日は、俺が、こいつを、温めなければいけなかったのに。

立ち上がる。

右手の符を、もう一度、見る。

普通の和紙の、普通の符だった。

祖父の筆跡に似た「逆」の一文字が、墨色で、紙の中央に、静かに、座っていた。

筆跡は似ているのに、書いた手は、俺のじゃない。俺の手は、書いていない。書いたのは、符の、ほうだ。

符が、呪殺級の呪力を、丸ごと一体、飲んで、刻印した。

呪殺級ほどの、量を。

呪殺級ほどの、質を。

──格上ほど、強くなる。

指先が、震える。震える理由を、言葉にしようとする。しようとして、しきれない。しきれないまま、俺の唇は、その文字列を、一度だけ、音に変えた。

「逆符式」

名前を呼んだ瞬間、符が、俺の掌の中で、一度だけ、頷くように、光った。

路地の奥から、自販機のモーター音が、やっと、普通の音階に、戻った。

遠くで、救急車のサイレンが、無関係に、通り過ぎる。

俺は、符を、霊符帳の元の位置に、そっと、差し戻した。差し戻した瞬間、七ページ目の十二本の赤い紐が、また、一本ずつ、紙の背で、結び直されていく。結び直された紐は、さっきより、一本だけ、色が、薄い。一度ほどけた紐は、たぶん、次に呼ぶときのために、少しずつ、痩せていく。

鞄の中で、霊符帳の背が、もう一度、脈打った。

今度の脈は、ゆっくりで、深くて、祖父の病室で俺の枕元に触れた、あの指の温度に、似ていた。

襟の内側の雪吉が、鼻先で、俺の頸動脈を、小突く。

行け、の意味だ。

路地の入り口を、俺は、振り返った。

柳沢の消えた角の先、新宿の雑踏が、さっきまでと何ひとつ変わらない顔で、通勤の午後を、続けている。

俺の足は、その雑踏のほうへ、一歩、踏み出した。

踏み出した靴底が、油染みのコンクリートを、一度だけ、強く、蹴る。

支部に戻れば、あの男が、待っている。

「単独突入した税金泥棒」の報告書を、支部長の机の上に、もう、置き終えた顔で。

俺は、襟の内側の雪吉の尾の揺れを、一度、確認した。

やってやろう、と、声には、出さなかった。

出さなくても、符のほうが、掌の内側で、短く、一度、頷いた。

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