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逆符式の落第陰陽師

第2話 第2話

第2話

第2話

鞄の底で、霊符帳の第二鼓動が来た。

紙束が、内側からじわりと湯の温度を上げていく。革表紙の下で、糊が緩むみたいに何かが動いている。ただの古文書じゃない──とっくに判っていた感覚が、今初めて指先で形になる。襟の内側で、雪吉の前足が俺の鎖骨を細かく叩いた。警戒、ではなく、怯えの律動だ。爪先のひとつひとつが、俺の皮膚を介して、心臓の余白を探っている。叩く間隔は、息継ぎより短い。雪吉が声に出さずに泣いている、と俺は思った。

路地の奥、柳沢の背中がぴたりと止まった。肩越しに、同僚の顔が半分だけこちらを向く。街灯の下で、その輪郭が一瞬、妙に青く沈んで見えた。鼻の脇の皺の深さも、こめかみの汗の粒も、いつもの巡回のときの柳沢じゃない。汗の匂いに、薄く、消毒液みたいな酸の匂いが混じっている。緊張じゃない。恐怖だ。中位等級を十三件刈ってきた男の喉が、いま、確かに渇いている。

「……蒼真」 「はい」 「その結界リング、そこに張れ」

声が普段より半音低い。柳沢は自分が向かっていた路地奥ではなく、俺のいる位置──入り口と奥のあいだ、ちょうど真ん中──を、親指で指した。指先の動きが、ほんのわずかに震えている。爪の白い半月が、街灯を反射して、二度、瞬いた。

「リングの外には絶対出るな。内側で、待機しろ」 「柳沢さん、これ、等級Cじゃ──」 「うるせえな」

遮る声が、自分の呼吸を隠すためにひと回り大きくなる。語尾が、唾を呑む音にすり替わる。

「お前の見立てなんか聞いてねえ。俺が正面から刈るから、お前はそこで、札の山抱えて、突っ立ってろ」

言い終えた柳沢の唇が、自分の言葉を信じきれない形に、半開きで止まった。

俺の背筋を、冷たいものが縦に走った。結界リングを置かれる位置、結界の外に残される柳沢の進入ルート、そして同僚の瞳の奥で痙攣している一点の光。意味が、三角形に組み上がっていく。三角形の頂点に、俺の名前が、丁寧に刻まれていく。「指数〇・八二」「単独突入記録なし」「身寄り、祖父の遺品のみ」──支部の名簿に書かれた俺の三行が、そのまま、見取り図の代わりに使われている。

囮だ。

柳沢は、俺の身体で靄の核を一瞬釣る気だ。

胃の底が、内側から急に冷えた。喉の奥に、苦い唾が湧く。五年、廊下ですれ違うたびに「お前は弱いから後ろにいろ」と言ってきた男の口癖が、いま、別の意味に翻訳されていく。後ろにいろ、ではない。前に置けるカードがない、と言っていたのだ、ずっと。

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「雪吉」

襟の内側の白狐が、ひゅっと細く鳴いた。判っている、という尾の振り方。俺はリングの金具を足元に置き、片膝を突いた。コンクリートの油染みが膝頭に滲む。冷たさが、布越しに膝の皿を軽く噛む。手のひらに、リングの真鍮の重さが、いつもの三割増しに感じられた。

「結界、張ります」

柳沢は返事もせずに、路地の奥へ二歩、戻る。戻った先の電柱の陰で、黒い靄の三塊が、もう人型の膝から下まで編み上がっていた。頬のあたりが左右に裂けて、笑いの形を忘れないまま、上下に振動している。編み目が一段締まるたびに、路地のドブの匂いが一段濃くなる。

指先で印を結ぶ。九字の三画目、臨・兵・闘──そこまで刻んだところで、柳沢の足音が、急に速くなった。

路地を、逆方向へ。

入り口へ向かって、駆け戻っている。靴底がコンクリートを蹴る音が、二歩、三歩、四歩と、後ろめたさを置き去りにする速度で上がっていく。

「柳沢さんっ」

呼んだ声が、自分の喉で潰れた。同僚の背中は一度も振り返らず、角を曲がる直前に、一言だけ、こちらへ投げ寄越した。

「支部には、お前が単独突入したって報告しとく」

足音が、消えた。

残ったのは、俺と、雪吉と、半分組み上がった人型の靄と、油の滲んだ路地の静けさ。遠くで、自販機のモーター音が、無関係に低く唸っている。呼吸が浅くなる。四つ吸って六つ吐け、祖父の声が頭の奥で鳴る。鳴っている、という事実だけで、俺の指はまだ印を握っていられた。

靄の人型が、ゆっくりと首を回した。

裂けた頬の奥から、もう一段低い音が漏れる。胸骨のあたりを、内側から拳で殴られるみたいな、呪詛の圧。鼓膜ではなく、肋骨の隙間が震えている。俺の鞄の中で、霊符帳が三度目の拍を打った。指数〇・八二の俺の網膜が、勝手に核密度を数えてしまう。

呪殺級。

支部の講義で、名前だけ聞かされた等級だ。遭遇率〇・一パーセント未満、単独除霊は中位陰陽師二名以上必須、とされる。その数字の下に、もう一行書いてあったのを思い出す。──「最弱指数の術者に当たった記録なし(死亡事例のため記録が残らない)」。

「雪吉、下がれ」

命じた声が、他人の声みたいに掠れる。白狐は襟から飛び出し、コンクリートに前足を突いた。子猫サイズの背中が、空気を噛むみたいに膨らむ。霊力指数〇・八二の、俺の全部。

呪殺級の人型が、腕を、一度だけ、上げた。

ただ、それだけだった。

雪吉の小さな身体が、路地の壁に張り付いて、そのままコンクリートに白い線を引きながら、ずるりと滑り落ちた。毛先が黒く焦げている。焦げた毛の匂いと、油染みのコンクリートの匂いが、喉の奥で混ざる。白かった毛並みに、灰の粒が点々と散って、息のたびに、ほんの僅かに揺れる。瞼が半分だけ閉じて、黒い瞳の縁が、ゆっくりと、焦点を失っていく。尾の先の動きが、俺が五年で覚えた語彙のどれでもなくなっていた。痙攣でも、警戒でもない。意味の抜け落ちた揺れ方だった。

「雪、吉」

呼んだ瞬間、俺の膝から下が、意思に反して一歩、後ろへ下がった。

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逃げろ、と身体が言っている。

でも、リングの内側から、雪吉の倒れている場所までは、三歩だ。三歩で、抱え上げられる距離だ。三歩のために、五年分の言い訳を全部捨てなきゃいけない距離だ。頭の中で、祖父の指が、霊符帳の背をなぞった温度が蘇る。あの夜の、病室の、消毒液の匂い。掛け布団の上に置かれた祖父の手の、爪のかたちまで、いま、ここで再生される。節くれだった親指の、関節の皺の数まで。痩せた手首に巻かれた病院の腕輪の、青いプラスチックの端が、シーツの綿に当たって鳴らした、乾いた小さな音まで。

「──焦るな、蒼真」

祖父の声は、もう空耳のほうでしか鳴らない。それでも、鳴る。

指先に、力を入れ直す。爪が、掌に食い込む痛みで、膝の震えを一回だけ殺せた。痛みは、いまの俺が信用できる、たった一つの実体だった。

呪殺級が、二歩、進んだ。

進んだ分だけ、路地の空気が粘る。呼吸するたびに、肺の内側に、細かい砂が張り付いていく。舌の根が、勝手に内側へ巻く。結界リングの金具が、足元で溶けかけた蝋のように歪んでいるのが視界の端に映る。祖父が教えてくれた九字では、これは、止められない。止められないと判っていることを、それでも刻み続けるしかない指先のことを、俺はいま初めて、術者の仕事と呼んでもいいのかもしれないと思った。

それでも、俺は印を解かない。解いた瞬間に、雪吉を守る名目が一つ消える。名目がなくなれば、俺はたぶん、本当にただ逃げ出す人間になる。それだけは、今、嫌だった。柳沢の背中と同じものに、自分を、したくなかった。

人型の腕が、もう一度、上がる。

今度は、俺に向かって。

瞼を閉じる余裕もないまま、俺は、鞄の中に残した右手を握り直した。指先が、表紙の革をかすめる。七ページ目の、十二本の赤い紐で封じられた、名前のない符。読めない一文字。「逆」とだけ、線の形で読める、あの一枚。

鞄の中で、紙束が、四度目の、一番大きな脈を打った。

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視界が、白く、弾けた。

祖父の掌の温度が、今、俺の右手の中で再生している。錯覚じゃない。鞄の革の表紙が、内側から光っていた。十二本の赤い紐が、一本ずつ、ほどけていく音が聞こえる。

ほどけるたびに、「逆」の一文字が、線から、画へ、画から、字へ、育っていく。

呪殺級の腕が、俺の頭の上で、止まった。

裂けた頬の奥、笑いの形が、初めて、ほんの少しだけ、歪んだ。

俺の右手が、鞄の外へ、一枚だけ、引き抜く。

白光の中で、符の背に、赤い文字が、完全に、立ち上がった。

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