第1話
第1話
山手線の扉が開いた瞬間、俺は首筋に張り付いた他人の霊気を、二駅分の欠伸と一緒に吐き出した。
湿った通勤客の背広の匂い、制汗剤と整髪料と、昨日までの愚痴がまだ染み付いている繊維の臭い。その層の下に、もっと冷たい何かが混ざっている。死にかけの霊気、というより、生きるのに疲れて薄くなった誰かの「気」が、俺の首筋で結露していた。
ホームに降り立つと、階段の手すりに薄い黒い手形が四つ、ベタついた油のように貼り付いている。生者の手形じゃない。昨夜、誰かがここで気を落としたか、あるいは落とされたか。新宿駅西口、朝七時四十三分、通勤ラッシュの中で「それ」が見えるのは、この人波の中で恐らく俺だけだ。
霊力指数〇・八二。測定記録三年連続最下位。
陰陽庁特務機関、第七支部所属、相模蒼真、二十三歳。肩書きだけは一応、国家公認の陰陽師ということになっている。
「相変わらず最下位だな、税金泥棒」
昨日の定期測定の帰り際、支部長の長瀬はそう言って、書類の角で俺の肩を軽く叩いた。叩かれた場所が今もまだ、薄く痺れている気がする。
角でつつかれた皮膚の奥に、言葉のほうが先に沈んで、骨まで届いて残留する。ずっと前から、そういう痣の溜め方には慣れた。慣れた、と自分に言い聞かせるたびに、慣れきれていないことが確認できる。そういう朝だった。
襟元で、子猫サイズの白狐がくしゃみをした。俺の式神、雪吉。祖父が俺の八歳の誕生日にくれた、唯一の相棒だ。祖父が死んで五年、こいつの尻尾だけは衰えていない。雪吉は俺の耳を一度甘噛みしてから、カバンのほうをちらりと見た。
鞄の底で、古びた紙束が一度だけ、じんわり熱を持つ。祖父の霊符帳。表紙の麻紐は、俺がもう二回結び直した。
──今日も、何か起きそうな匂いがする。
第七支部は都庁から歩いて七分、古いオフィスビルの十二階にある。表札は「東京第七環境衛生研究所」。一般人避けの擬態だ。エレベーターの箱に乗り込んだ瞬間、柳沢が後ろから肩を叩いてきた。
「よ、税金泥棒のご出勤」
同期の柳沢樹。霊力指数三・四二、第七支部のエース格。式神は黒豹型で、俺の雪吉の十倍は大きい。
「朝から辛気臭え顔すんなよ。俺ら第七支部の面汚しになんだろ」 「……おはようございます」 「敬語いらねえって。俺ら同期だろ?」
同期、という単語の裏に、粘っこい優越感が透ける。俺は雪吉を襟元に押し戻して、ロッカー室の扉を無表情で閉じた。閉じた扉の金属の冷たさが、額に触れる。その冷たさだけが、朝の俺を正気に戻してくれる。
ロッカーの中に掛けた制服は、裾のあたりが昨日よりほんの少しだけ埃っぽい。倉庫で過ごした時間が、そのまま繊維に染み付いている。俺はシャツの袖に腕を通しながら、壁一枚向こうで響く同僚たちの会話をわざと聞かないようにする。どうせ、いつもと同じ話だ。誰それの現場実績、誰それの婚約、そして時々、忘れた頃に差し挟まれる俺の名前。気にしないように、と決めたはずなのに、それでも耳の奥は勝手に反応して、首筋の体温だけが一段下がる。襟の内側で、雪吉がそっと俺の頸動脈に鼻先を当てた。温めなおしてくれているらしい。こいつは、そういうところだけは、祖父より器用だ。
朝礼で俺に振られる仕事は、毎日同じだった。結界札の在庫整理、除霊機材の点検、給湯室の茶出し、会議室のホワイトボード拭き。霊力指数が下限未満の俺に回ってくるのは、同僚たちが触りたがらない後方雑務だけだ。それでも、俺は午前中の仕事を丁寧に終える。手を動かしていれば、陰口が耳に入ってこない。
在庫室の棚を拭きながら、墨の匂いを嗅ぐ。古い符に使われる朱の顔料と、新入荷の印刷用インクが、棚ひとつ分の距離で喧嘩している。俺は一枚ずつ、結界札を枚数どおりに揃えていく。こういう単純な手触りが、たぶん今の俺を支えている。湯呑みに茶を注ぐときも、手を止めない。先輩たちは「ありがとう」を言わないが、言われなくてもいい。返事を期待しない作業のほうが、むしろ呼吸がしやすい。ホワイトボードの端に残った前日の予定表を、マーカーの影まで追って、布で一度ずつ拭き取る。消えるべきものが消えると、気持ちが少しだけ平らになる。
昼休み、非常階段の踊り場で、俺はいつものように霊符帳を開く。
表紙はもう黒ずんで、羊皮紙みたいにザラついている。祖父が生前、神田の古書店から二束三文で掘り出してきた代物だ。他の陰陽師が触っても、中身はただのシミ模様にしか見えないらしい。読めるのは俺だけ。祖父は死ぬ前、病床で俺の枕元に向かって、一度だけこう言った。
「お前の血には、ちゃんと読める側の文字が通ってる。焦るな、蒼真」
祖父の指は痩せて、霊符帳の背をなぞる手つきだけが、最後まで若いままだった。あの温度を、俺は今も手のひらで覚えている。枕元の消毒液の匂いと、祖父の乾いた掌の乾いた温度。二つが一緒に、表紙の革の奥にまだ残っている気がする。
七ページ目の右端、他の符と明らかに性質の違う一枚で、俺の指は必ず止まる。十二本の赤い紐で厳重に封じられた符。名前は書かれていない。ただ、最初の一文字が、文字になる前のかすれた線で、「逆」とだけ読める。
「雪吉、お前、これ読めるか」
雪吉は前足で霊符帳の角をちょん、と押した。たぶん「わからん」の意味だ。五年連れ添ったから、尾の揺れで語彙の九割は判る。
「……だよな。俺もまだ、ここだけは読めない」
雪吉が鼻先で、俺の手の甲を軽く突いた。焦るな、と祖父と同じことを、たぶんこいつも言っている。
踊り場の扉が、乱暴に開いた。
「蒼真ァ、支部長の呼び出し。現場出るぞ!」
柳沢だ。俺は霊符帳を閉じ、鞄の奥に滑り込ませる。雪吉が襟の内側に素早く潜った。階段を下りながら、柳沢が肩越しに案件書類を押し付けてくる。
「新宿三丁目の裏、雑居ビルの喫煙所で、立ち飲み屋のオヤジが怨霊憑き。小物件扱いだ」
書類の四隅にある案件等級欄を、俺は指でなぞる。等級C、被害軽微、除霊時間目安二十分。
「柳沢さん、僕も一緒に?」 「支部長のご指名だよ。補助。結界のリング張って、符の在庫担いでりゃ終わる仕事だから、黙ってついてこい」
歌舞伎町を抜け、区役所通りから一本入る。車一台通れるかどうかの路地。空気の質が、一歩踏み込んだ瞬間に変わった。昼なのに小さな看板のネオンが点いている。換気扇が吐き出す油の匂い、割れたコンクリートにこびりついた黒い染み。その先、電柱の陰で。
足元の水たまりに、空の色が映らない。昼の光が届いているはずなのに、水面は上から黒いペンキを一滴落としたみたいに、そこだけ平面のまま沈黙していた。雪吉の前足が、俺の鎖骨の裏を細かく踏んでいる。落ち着きがない、というより、警戒の合図だ。路地の奥のほうから、耳の底を引っ掻くような、低い風音じゃない何かが、断続的に滑ってくる。
黒い靄が、三つの塊になって、静かに重なっていた。
「柳沢さん。これ、小物件じゃないです」 「あ?」 「三体、同時に核を寄せてます。上位化の兆候。等級Cの現場じゃない」
柳沢は面倒くさそうに舌を鳴らした。
「お前の見立てが当たったことあったかよ。指数〇・八二のやつの勘が」 「…………」 「いいから、そこで結界張ってろ。俺が正面から刈る。三分で終わる」
押し付けられた結界リングが、手の中で妙に重い。雪吉の尾が、俺の首筋で硬く逆立っているのが、シャツ越しにも判った。
リングの内側の金具が、指先に当たってかすかに鳴る。普段より温度が低い。結界札の束は鞄の中で湿ったように固まり、紙の重さが鉄の重さに置き換わっていく。呼吸を数えろ、と自分に言い聞かせた。四つ吸って、六つ吐く。祖父が教えてくれた、恐怖を殺さずに飼いならすためのリズム。胸の底で、小さな警報が一定間隔で鳴り続けている。勘、ではなく、目で見えている事実のほうだ。柳沢が見ていない事実。
柳沢の背中が、路地の奥へ消える。
靴音が遠ざかるのに合わせて、黒い靄の三つの塊が、ゆるやかに旋回しながらひとつの人の形へ寄っていく。肩、腕、首、顔。頬のあたりが左右に裂けて、笑ったように、見えた。
背筋の産毛が、一斉に逆立つ。
喉の奥で、唾が音を立てずに乾いていく。こめかみで脈が跳ねている。指数〇・八二の俺の目が、それでも勝手に数えてしまう。核の数、旋回の速度、影の密度。柳沢の刀印が届く前に、もう輪郭ができあがってしまう距離だ。叫ぼうとして、声が喉の手前で止まる。止まった声の代わりに、指先が動いた。
俺は反射的に、鞄の中へ手を伸ばした。霊符帳の表紙に、指先が触れた瞬間──
ドクン、と。
俺の心臓と同じ拍で、祖父の霊符帳が、一度、脈打った。
路地の奥で、柳沢の足音が、ぴたりと止まる。
雪吉の喉が、ひゅう、と細く鳴った。