第2話
第2話
硝煙に似た匂いは、一度嗅ぎ分けてしまうと脳の奥に棲みつく種類のものだった。
ガイウスは轍の縁に片膝をつき、その匂いが風に逆らって川下から這い上ってくる事実を、静かに確かめた。南南東へ抜けるはずの風が、谷の屈曲で一瞬だけ巻き返している。風は地形に従う。地形は観察する者にだけ、秘密を開く。
立ち上がる前に、もう一度川上を振り返った。谷底に並んだ〈灰狼〉の骸は、朝霧の中で輪郭を薄めつつある。ダレンの兜は既に手の中にあった。焼け残った武具がまだ岸辺に散っている。雨期前の山で半裸のまま歩けば、二日と保たずに野犬に喉を裂かれる。装備が要る。判断は早かった。
ガイウスは踵を返し、骸の群れを一つずつ改めていった。
老兵ガルトの脇には、焦げた革胴が半分だけ残っていた。内側は血で蒸れていたが、湯で煮れば使える。ガルトの両手は胸の上で組まれていない。最期まで刀の柄を探した指の形で固まっている。ガイウスはその指を剥がさず、短剣だけを鞘から抜いた。手首に巻かれた名前布は、外さずに残した。
フェリクスの胸当てには深い凹みがあったが、内側の綿詰めは乾いていた。新兵ダレンの腰帯から、硫黄石と火打ち金を取った。それだけで火が熾せる。
順に、着衣を剥ぎ、武具を剥がし、使えるものだけを腰帯に差していく。悲しみは肉体の動きの後ろから遅れて歩いていた。先頭を歩くのは観察者の手だった。手が選び、目が確かめ、耳が風と遠い烏の位置を測る。十年、そうやって生きてきた手だ。骸が仲間であっても、手の速度は変わらなかった。
剥いだ革胴を肩に掛け、ガイウスは川下へ歩き出した。
左足が重い。脛当ての裏金が溶けて脛に貼りついている部分を、水で冷やしながら少しずつ引き剥がすしかない。引き剥がすたびに、薄い皮が金具と一緒に剥けて、冷えた川水に赤い糸を引いた。歩幅は昨日の半分だった。それでも、歩ける。歩ける、ということ自体が、昨夜の松脂の炎から借り受けた時間だった。時間は貸し手を持つ。借りた以上、返す相手の顔を、やがて見極めねばならない。
二町ほど下ると、川筋は再び大きく曲がり、右岸に砂州が開けた。轍はその砂州を斜めに横切り、水際で蹄痕に合流していた。ガイウスは砂州の縁で足を止め、轍の深さを指で測った。指先に触れた砂は、まだ夜露を抱えて冷たい。轍が刻まれてから、半日と経っていない。
車輪の幅、六寸強。深さ、二寸半。馬は四頭立て、うち二頭は去勢馬、二頭は牡。蹄痕の踏み込みの深さに、左前だけ軽い偏りがある。軛の掛け方が甘かったか、あるいは一頭が蹄を病んでいたか。轍の沈み方から、積荷は鉄か石、あるいは密度の高い木箱。隊商の穀物袋ではない。穀物袋なら、砂州の弛みでこうは沈まない。沈んだまま、わずかに横へ滑っている。重心が荷台の後方に寄った積み方だ。
――帝国軍の重輸送。
確信は、匂いが裏書きした。硝煙に似て、けれど硝煙ではない、鼻の奥を刺す硫黄質の粉の匂い。焚き火のそれより鋭く、鍛冶場のそれより湿っていない。知らぬ匂いだった。知らぬ匂いがするという事実こそ、帝国領の新しい何かがこの山中を通った証だった。ガイウスは舌先でわずかに唇を湿し、風が運んでくる粒の密度を量った。粒は軽い。軽いが、鼻腔の奥にぴたりと貼りつく。雨に溶けにくい粉だ。
砂州の縁には、人の足跡が三組残っていた。革紐でくるんだだけの軽装の足。山脈南側に住む部族の履き物だ。指先で跡の縁をなぞると、土の盛り上がりに左右差がある。右をかばって歩く者が、三人のうち一人。〈灰狼〉が去年、南の峠で一度衝突した相手の足音を、ガイウスは覚えていた。あのときも、部隊の殿を担ったのは、右をかばって歩く矢手だった。
――部族の矢で射て、帝国の荷を奪わぬ。
奇妙な襲撃だった。足跡は荷を運び去った様子を見せていない。荷を諦めて引いた、という読みが成り立つ。部族が諦めるほど手に余る荷。あるいは雇い主の命令が〈奪う〉ではなく〈止める〉であった荷。奪えば足がつく。止めるだけならば、依頼主の気配は風下に散る。矢の使い方まで計算に入れた指示だ、とガイウスは思った。指示を出した者は、部族の矢が何を射抜けて何を射抜けぬかを、正確に知っている。
同じ頃、峠の南、コルヴィンは新しい幕舎の中で、ノルデン将ラーゴから回された地図の一点を指で弾いていた。
「帝国の輸送隊が、こちらの谷筋で襲われたそうだな」
ラーゴは革椅子に深く腰を沈めていた。
「部族の仕業だ。山賊ではない。あれを襲って逃げるような山賊はいない。積荷の正体が知れぬまま、我が軍の斥候も近寄らずに引き上げた」
「積荷は」
「鋳物の筒だ。大砲の小型、と言えばよいのか。帝国は〈雷筒〉と呼ぶ。試作の域を出ぬ代物と聞く」
コルヴィンの指が、地図の上で止まった。止まったまま、視線だけを北の谷の方角へ一瞬だけ向けた。風は、依然として南南東へ抜けていた。放っておけば、谷底の煤と、帝国の硫黄が、同じ風に乗って流れていく。そのことを、この男は口にはしなかった。
川下の雑木林に、ガイウスは踏み込んだ。
枝と枝のあいだに、油と鉄の匂いが淀んでいる。風の通わぬ場所にだけ、匂いは腰を据えて居座る。帝国紋章の蓋布を半ば引き剥がされた重輸送馬車が、右の車輪を折り、斜めに傾いで止まっていた。御者台の下に、二人分の骸。背を射抜いた矢は、帝国の矢でも、ノルデンの矢でもない。鏃の形は、山脈南側の部族矢――砂州の足跡と符合した。鏃の返しの角度は、確かに去年見た矢と同じだ。作り手が同じ、あるいは同じ鍛冶の教えを受けた手。
これほど奥地まで、部族が単独で入る理由はない。雇われた矢だ、とガイウスは読んだ。誰が雇ったかまでは、まだ読めぬ。だが、雇い主は、部族の矢尻まで選り好みできる距離にいる。
馬車の脇で膝をつき、風を嗅ぐ。あの硫黄質の匂いは、この荷台から染み出していた。蓋布の破れ目から覗く荷の表面は、黒く滑らかな油紙で厳重に包まれている。油紙は帝都の工部が使う独特の織り目だった。水を弾き、光を吸い、中の金属を湿気から守る。油紙の隅が一枚、矢の掠め痕で裂けていた。
指を裂け目に差し込み、ゆっくりと引き開ける。油紙は指の腹に粘りつくような重さで、裂け目は小さな抵抗を残しながら広がっていった。
中から現れたのは、鋳鉄の筒だった。
長さ二尺、直径四寸ほど。先端は開き、後端には点火用とおぼしき小穴が穿たれている。筒の表面には、帝都の工部が用いる番号刻印が走り、腹に細かい銘文が刻まれていた。鋳肌はわずかに青みを帯び、冷えきった鉄の表面に朝の光がほそく滑っていく。指先に触れると、油紙の下に残った硫黄質の粉が、薄く皮膚に貼りついた。指を擦り合わせると、粒は砂ほど粗くなく、粉ほど細くもない。火薬、と呼ぶには、匂いが尖りすぎている。
大砲の類であることは、直観した。だが、大砲にしては軽い。一人で抱え上げられる重量。城壁を崩すための据え置き砲ではない。野で動かし、野で撃ち、野で畳める兵器だ。ならば、一門ずつ据えて撃つ兵器ではない。三門、五門、列で撃ち並べるための兵器。横列で火を噴けば、歩兵の前衛を一度に薙ぐ。騎兵の突撃は、間合いを詰める前に崩れる。
荷台の奥には、同じ油紙包みが少なくとも二つ、影を落としている。御者の胸元からは、折り畳まれた羊皮紙の端が覗いていた。設計図らしき筆致で、幾本もの線が交わり、数字が書き込まれている。数字の桁は、一門の射程ではなく、斉射の展開距離を示している可能性があった。
――槍衾と騎兵の時代が、終わるかもしれぬ。
その予感は、焼かれた背筋を逆に這い上ってきた。背骨の一節ずつが、冷えた指で辿られるような感触だった。ガイウスは筒の銘文を指でなぞった。刻みは浅いが、彫り手は迷っていない。一度で決めた刃だ。〈雷〉の一字だけが、かろうじて読み取れた。
風が、再び南南東へ戻った。谷の屈曲を越えて、硫黄の匂いが広く薄く流れ出していく。
ガイウスは立ち上がり、御者の骸の視線が向いていた方角――川下から更に西、隊商路の分岐の方を見据えた。雇い主は、この方角のどこかにいる。積荷を奪わず〈止めさせた〉雇い主が。
「……生かされた意味は、俺が決める」
昨日より、言葉の輪郭はわずかに深かった。口の中で転がした言葉が、胸骨の裏で一度だけ鈍く跳ね返り、それから静かに沈んだ。
筒は三門。羊皮紙は一枚。運ぶには人手が足りず、置いていくには惜しすぎる。ガイウスは短剣を逆手に持ち替え、御者の骸の脇に片膝をついた。まずは馬車を雑木林の奥へ隠す。そのための枝を折る手筈を、指が勝手に組み立て始めていた。
川下の風が、次の一歩の位置を、そっと指し示していた。