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灰狼の雷筒―観察者、旗を掲げる

第1話 第1話

第1話

第1話

煙が喉の奥まで押し込まれたとき、ガイウスは初めて、自分が売られたことを理解した。

縄で後ろ手に縛られた体を、見覚えのある革手袋が突き飛ばす。谷縁の土がずるりと崩れ、半焼した鎧の重みが背を引いた。視界の端で、十年ともに戦場を渡ってきた男――傭兵団〈灰狼〉団長コルヴィンが、ノルデン軍の兵士から受け取った金貨袋の重みを確かめている。その指は揺るがず、視線は合おうとしなかった。

「副長、悪く思うな。お前の首の値は、俺たちの次の冬を越させる」

コルヴィンの声は戦場のそれと変わらず、低く、乾いていた。十年間、夜襲の合図を告げた声。仲間の死を短く報じた声。ガイウスはその声の温度を誰よりも知っていた。だからこそ、そこに一片の迷いもないことが判った。

部下たちの呻きが谷に反響した。縛られ、武具を剥がれ、薪のように積まれた〈灰狼〉の若い兵たち。中には、三日前にガイウスが熱冷ましの布を絞ってやった新兵ダレンもいた。松明が投げ込まれ、乾いた松脂の臭いが火柱となって立ち上がる。肺に押し入る熱気。肉の焼ける甘ったるい匂い。半焼した胴鎧が、胸の内側まで鉄を焼いた。

視界が白く潰れる寸前、谷壁が足元から崩れた。崖の腹を滑り、岩角が肋を抉り、鎧の裏金具が皮膚を引き裂く。落下の間、ガイウスはただ、風の向きだけを読んでいた。南南東。松脂の煙はこの谷から東へ流れる。ならば敵はしばらく、火が消えるまでこちらを見下ろさぬ――観察者の脳は、死に際にも止まらなかった。

水音に意識を掬い上げられたのは、どれほど後のことか判らなかった。

陽は既に高く、川霧は散りかけていた。浅瀬に浸かった脛が痺れていて、それが自分の体であるという実感さえ遠い。遠くで烏が一羽、短く鳴いた。それから次の一羽、もう一羽。死骸を嗅ぎつけた声だ。

頬の下で砂利が音を立てた。川辺の冷気が、焼かれた皮膚の隅々を針のように刺す。左の肩甲骨に鎧の裏板が溶けて貼り付き、剥がそうとすると肉ごと持ち上がる感覚があった。ガイウスは奥歯を噛み、息だけで呻いた。口の中は血と鉄と煤の味で、川の水を掌に汲むたびに黒い筋が指の間を流れ落ちた。

舌で頬の内側を探ると、奥歯が二本、欠けているのが判った。水はひどく冷たく、顎の骨の芯までを撫で上げてくる。焼かれた皮膚と冷水の狭間で、神経が何を拾うべきか迷っているのが、他人事のように判った。

視線を上げる。崖の上、昨夜まで〈灰狼〉の野営があった場所から、白い煙が痩せた柱となって昇っていた。煙の高さと傾きから時刻を測る。夜明けから二刻。風向は記憶の通り、南南東。ノルデン軍は既に撤収しただろう。谷底まで検分する手間を惜しんだのだ――死体はまだ熱いうちは動かせぬ、という戦場の鉄則を、コルヴィンは教え込んだ側の人間だった。

そしてその鉄則は、今この瞬間、教えた本人の副長を救っている。皮肉というより、戦場の経済が回す必然だった。

川下に、見覚えのある兜が流れていった。

新兵ダレンのものだ。革の顎紐が、溶けて黒い紐状になっている。ガイウスはそれを掌で受け止め、川面に映る自分の指がどれほど震えているかを見た。震えは、悲しみのものではなかった。寒さでもなかった。十年の間に鍛え上げた観察者の眼が、不意に焦点を結ばず、空中で揺れているのを、ただ他人事のように観察している――それだけだった。

観察者が観察者自身を観察するとき、眼は二重に濁る。ガイウスは瞼を一度閉じ、息を長く吐いた。煤混じりの息が、朝の冷気の中で白く細く伸びた。

指を折って数える。ダレン、フェリクス、老兵ガルト、鍛冶担当ホルン。谷底の岸辺と流れの浅瀬に、あわせて二十一体の影があった。〈灰狼〉の兵は四十二。残り半数はどこかで川に呑まれたか、焼け残ったか。コルヴィンの側に寝返った者もいたかもしれぬ。

――生かされた、わけではない。

ガイウスは己に言い聞かせた。これは手違いだ。運と、風向きと、崖の角度が、偶然の重なりで一人の傭兵を死の外へ吐き出した。そこに意味を読むのは、観察者の流儀ではない。

それでも。

同刻、峠の南に張られた天幕では、コルヴィンが地図の端を親指で押さえていた。

ノルデンの指揮官ラーゴが、革袋の口を開けて金貨の数を再確認させている。コルヴィンは数えなかった。副長を売った値が数枚多かろうと少なかろうと、感情の揺らぐ男ではない。問題は、副長が確実に死んだかどうかだった。

「谷底を改めさせますか」 ラーゴが、問い質すでも促すでもない声で言った。

コルヴィンは首を横に振った。 「要らぬ。あの男は観ることしか知らぬ。目を奪われ、翼を折られ、火に巻かれた。観察者は、観る対象を失った時点で終わる男だ」

ラーゴは小さく鼻を鳴らし、天幕の外の鳶を目で追った。 「買い叩いた割には、ずいぶんな評価だ」 コルヴィンは答えなかった。代わりに、革袋の口の紐を自らの指で結び直した。結び目は、戦場で使う止血帯の形と同じだった。

言い切ってから、コルヴィンは一度だけ、北の谷の方角を見やった。風が、南南東へ抜けていた。自分がかつて少年兵のガイウスに教えた、最初の読み方と同じ向きだった。

川岸で、ガイウスは立ち上がっていた。

焼け焦げた脛当てを引きずり、足首を曲げると傷口から血と煤の混じった液が滴る。痛覚は鈍くも鋭くもない。ただ、体の輪郭を教えてくれる線として、そこに在った。

ヴェリン王国の再興――十年前、祖国を失った少年兵が胸に刻んだその四文字を、ガイウスはずっと、コルヴィンと分け合っていたはずだった。北の寒村を転々と渡り、傭兵として血と銀貨を換え、いつか峠にヴェリンの旗を立てる。その夢の原型を最初に口にしたのは、コルヴィンだった。

嗤いが喉の奥でひとつ、湿った音を立てた。

夢ごと、売られた。

ガイウスは胴鎧の金具を外した。裏板が皮膚を剥いでいく感覚を、奥歯で噛み殺す。血が背を走り、川の水に吸われて薄い桃色に広がっていく。剥き出しの背に、朝の冷気が直に触れた。背中で風を読むのは、十年ぶりの感覚だった。

少年兵だった頃、コルヴィンはこう言った――背中で風を読める奴は、死なぬ。あのときは冗談と聞き流した。十年越しに、冗談の方が生き延びる道を指していた。

――まだ、風は南南東。

思考が自然と戦術に流れた。コルヴィンが撤収するなら川沿いではなく稜線を使う。ならば川下は一日、安全だ。川下には確か、帝国領へ抜ける隊商路が横切る。そこまで辿り着けば、装備と食糧の両方に触れる機会がある。そこから先の策を決めるのは、装備を手にしてからでいい。

観察者は、計画を立てぬ。観察者は、次に観るべき場所へ歩く。

これもまた、コルヴィンの教えだった。教えたのは、いつか自分を殺す男だった。それでも、教えは間違っていない。教えと教えた者は別物だと、戦場が何度も刻み込んできた。

剥いだ胴鎧を一枚、川底の岩の窪みに沈めた。〈灰狼〉の焼印が入った鎧は、後で必要になるかもしれない。証拠として、あるいは生き残りを呼び寄せる印として。

ダレンの兜を拾い上げ、川下へ向けて歩き出す。一歩ごとに、焼け残った膝が軋む。二歩目、三歩目、十歩目。痛みは歩幅を縮めなかった。

代わりに、痛みは歩幅を数えさせた。左足、右足、また左足。数を繰り返すうちに、十年前、凍てついた村を逃げ出した少年兵の歩幅と、今の歩幅が重なって見えた。そのときも、背後では何かが燃えていた。

「……生かされた意味は、俺が決める」

声は誰にも届かなかった。川の瀬音と、岸辺の葦が擦れる音が、すぐに覆い隠した。

川筋が大きく曲がる。

右岸の石灰岩の崖が低くなり、水辺に一条の轍が現れた。幅の広い、重い積荷を運ぶ型――帝国軍の輸送馬車のものだった。

轍の深さが、積荷の重量を物語っている。木箱か、金属か。幅から察するに、四頭立ての重輸送車。この山中で、帝国がそれを動かす理由――思考の糸口が、焼け焦げた脳の襞に引っかかった。

轍は川の浅瀬で途切れ、上流に点々と黒い焦げ跡を残している。

ガイウスは足を止め、観察者の眼で地面を読んだ。馬の蹄は八頭分、複数の方向へ散っている。山賊の襲撃痕。だが、荷を積み替えた形跡はない。奪うべき主荷が、奪われずに放棄されている――ということだ。

ダレンの兜の顎紐を、ガイウスは掌で強く握り直した。

何が、帝国の馬車に積まれていたのか。山賊がそれを奪わずに逃げるほどの、何かが。

風が、川下からゆっくりと逆巻いた。南南東の煙の匂いに、硝煙に似た別種の匂いが、微かに混じった。

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