第2話
第2話
大学キャンパス、五号館四階の第二講義室。窓の外では桜の花弁が時折まだ舞い落ちていて、午後二時の陽射しが、板書の白墨を妙に柔らかく光らせている。民法総則の休講が回避になったことを、俺は昼前のLINEで知った。代講の准教授は、眼鏡のフレームを親指で押し上げながら、錯誤と詐欺の違いをしきりに説明していた。
「——なので、動機の錯誤は原則として、表示されなければ」
俺は、ノートの端に水滴に似た染みをひとつ落とした。インクじゃない。背中の縫合部の、一番きつく引っ張られている糸のあたりから、ガーゼを越えて染み出してきた何かだ。講義用シャツの内側で、それが皮膚の上をゆっくり滑り、ベルトの内側に吸われていく感覚があった。隣の席の女子がちらりと横目で見て、またルーズリーフに視線を戻した。何も聞かれなかった。それで、助かった。
通学鞄の中では、ジップ付きのビニール袋に入れた呪符が六枚、英語のテキストと新書の間に挟まっている。ペンケースの一番下には、祖父の形見の短い檜棒。マーカーや蛍光ペンと同じ顔をして、そこに眠っている。俺が鞄を持ち上げるたびに、ペンケースの底でそいつは微かに鳴る。乾いた、木と紙のぶつかる音。講義室の誰にも聞こえない音だ。
准教授が、黒板の左端に「94条2項類推」と書いた。俺はそれを写しながら、今朝自販機の前で鷹見先輩に傷口を叩かれたときの振動を、まだ皮膚の下で覚えている自分に気づいた。ボールペンの先で、氏名欄の「雨宮悠吾」という四文字を、もう一度、濃く、なぞった。
チャイムが鳴る前に、俺は荷物をまとめた。正面玄関を出て、地下鉄で桜田門まで十七分。定期の改札を抜けるときの、ICチップの軽い電子音。それが、昼と夜の切り替えスイッチだった。
桜田門外、地下三階。黒耀課詰所に着くと、受付の羽鳥さんが顔を上げないまま、ファイルを一冊、カウンターの端にすべらせてきた。
「これ、書いて出して」
ファイルの背表紙には、手書きで「7」とだけ書いてある。マジックインクが少し掠れて、「5」の上に書き直された跡があった。前任の五号が、いつから「7」に書き換わったのか、俺は知らない。訊いたこともない。横に積まれた別のファイルには、「鷹見」「黒木」「東堂」と、ちゃんと名字で背ラベルが刷られていた。同じ棚に、同じ厚みで、俺のだけが手書きだ。
長机に座って、ボールペンを握った。一枚目——損耗予測表。予想される裂傷部位、骨折確率、霊障後遺症の発症見込み。項目の隣には、すでに前回までの実測値が青字で入っていた。俺の数字だ。背中の裂創は「想定内」、肋骨の罅は「予測域上限」。ペンを走らせる手が一瞬止まった。予測の枠の外側へ、俺は一歩も出ていない。枠の内側で折れ、枠の内側で裂け、枠の内側で縫われている。そのことが、紙の上の青い数字から、妙に静かな声で俺へ返ってきた。
二枚目——医療費前払い同意書。討伐任務中に発生する治療費について、本人の口座から自動引き落としを認める書面だ。保険は効かない。霊障は、表の医療統計に存在しないことになっているからだ。額面の欄には、前月分の金額が印字されていた。大学の後期学費より、すこし多い。
三枚目。遺品処理依頼書。署名欄の上には、もう祖父の名前が故人として抹消処理されている。下に、母の名前が書き込まれている。連絡順位、第一。俺の死を最初に知らされる人間が、母だということだけ、俺は自分で決めていた。あの人に、番号で通知が届かないように、「雨宮悠吾」とフルネームで書き添えて、赤線で念押しをしておく。ペン先が紙の繊維に少し引っかかって、母の「み」の字が、かすかに歪んだ。
「七号」
背後から、黒木課長補佐の声がかかった。振り向くと、彼はコーヒーの紙コップを片手に、もう片手でタブレットを差し出してきた。
「次の作戦概要。読んで、了承にサイン」
タブレットの画面には、新宿地下三層の構造図が映っていた。旧都営線の未成トンネルを流用した、黒耀課の封鎖区画。第七階位《屍喰鬼》の巣が、最奥に出来上がっているらしい。参加者欄には、鷹見淳一、黒木誠、実験体番号7、の三名。俺以外の二人には、顔写真と氏名ルビが付いている。俺の欄には、写真の代わりに、計測符のシリアル番号だけが載っていた。
「屍喰鬼、第七階位ですか」
俺が訊くと、黒木は紙コップに口をつけて、少し笑った。
「ちょうどいい相手だろ、お前の霊力測定には」
口元は笑っているのに、目の奥で、彼は俺の背中の縫合部を見ていた。縫い目の本数を、数えているような眼差しだった。
作戦会議室は、詰所の奥にある、窓のない六畳ほどの部屋だった。壁一面に新宿地下三層の立面図が貼られ、鷹見先輩はホワイトボードの前でマーカーのキャップを外したり付けたりしている。カチ、カチ、と小さく鳴るその音だけが、部屋に一定のリズムを作っていた。キャップが嵌まる瞬間の短い響きは、どこか診察室で聴診器を畳む音に似ていて、俺は無意識に、自分の呼吸を浅くしていた。
「——屍喰鬼の索敵範囲は半径二十メートル。音より匂いに強く反応する。血の匂い、内臓の匂い、それと——」
先輩はそこで一度、俺の方を見た。視線は俺の目より、襟の下の縫合部の高さで止まった。
「術式で損傷した、肉の匂い」
会議室の蛍光灯は、霊障区画のそれと違って、きちんと一定の明るさで点いている。それが、かえって気持ち悪い。ここで話されている内容と、光の落ち着きが、釣り合っていない。天井のスピーカーから細く流れる空調の音も、まるで通常業務のオフィスのそれで、机の上の湯呑みからは番茶の匂いすらしていた。その日常の匂いの中で、俺の胸は、明確に冷えていく。
「三方向から挟撃する。俺が正面、黒木さんが左翼、七号が右翼」
黒木が、地図の右翼に赤いマーカーで丸を打った。丸の内側には、旧保線用の行き止まりトンネルがある。一本道。退路を断たれたら、そのまま巣の中央へ押し出される構造だ。俺は、その丸の奥行きを、指で測った。十二メートル。詠唱ひとつで抜けるには、少し、長い。指先が地図の紙面をなぞると、インクの盛り上がりが爪にわずかに引っかかり、その小さな段差が、実地の段差を先回りして俺の身体に予告してくるようだった。
「質問は」
「右翼側の退路確認は、誰が」
俺が訊くと、黒木はマーカーをくるりと回して、
「お前自身だ。そのための計測符だろ」
と、言った。鷹見先輩は、ホワイトボードの方を向いたまま、こちらを振り返らなかった。背中越しに見えるのは、シャツの肩の縫い目と、そこに少しだけ残った、朝の桜の花弁の影のような白い粉——多分、白墨か、石膏の粉か、あるいはその両方だった。
——前の任務と、同じだ。
違いは、誰も俺の目を見ないことだった。貌喪いのときの黒木は、少なくともモニター越しに俺の瞳孔径を見ていた。今日は、誰も、俺の目を見ようとしていない。数字を見るために必要な視線が、もうここにはない。
会議の終わりに、黒木が紙コップをゴミ箱に投げた。縁に一度当たって跳ね、底に沈む乾いた音がした。
「二十一時、現地集合。装備は、各自のいつものやつで」
鷹見先輩が、出口のところで俺の肩を軽く叩いた。叩かれた場所は、縫合のすぐ上だった。彼は「頑張れ」とは言わなかった。ただ一言——
「任せたぞ、七号」
その「任せた」の重さを、俺は自分の鞄の中の、呪符の残り枚数で計算していた。九枚。祖父の形見を含めて、九枚。胴体を包む結界には一枚、足止めに二枚、斬式に三枚、保険が三枚。計算の余白はどこにもなかった。
二十時四十分、新宿駅東口。俺は上着の下に退魔札を配置し直し、通学鞄を背負い直した。駅前の広告ビジョンでは、見覚えのある俳優が新しい缶コーヒーを笑顔で勧めていて、街の音は、いつも通り、酔った学生と客引きの声で濁っている。
封鎖された工事用エレベーターの前で、黒木が無言で、カードキーを端末にかざした。扉が開く。中の空気は、ほんの少しだけ、湿って、甘い。
三人で乗り込んだ。下降ボタンを押したのは鷹見先輩で、押した指が、ほんの一瞬、動きを止めたのを、俺は見た。止めた理由を、彼は説明しなかった。
地下一層、二層、三層。数字の表示が落ちていく。胸の奥で、今朝講義室で染みた血の染みが、もう一度、ひとりでに熱を持ったような気がした。
三層に着く直前、黒木が、俺の右肩越しに、鷹見先輩と、一度だけ視線を交わした。鏡越しに、俺はそれを、見てしまった。
エレベーターの扉が、音もなく開く。 湿って甘い空気が、今度ははっきりと、鉄と腐肉の匂いに変わっている。 嫌な予感が、背骨を一段下から順番に撫で上げていく。 鞄の底で、祖父の檜棒が、また一度だけ、乾いた音で鳴った。