第1話
第1話
霊障区画B-4、新橋ガード下の廃ビル三階。割れたガラスの向こうで、街灯の青白い光が俺の靴先だけを切り取っていた。空気は、雨の降る前の鉄臭さと、どこか甘く腐った果実のような匂いが混じっている。床には、割れた配線と古い雑誌の山が積もっていて、一歩ごとに、誰かの乾いた肺のような音を立てた。 耳の中で、本部の声が乾いた機械音のように鳴る。 「実験体番号7、敵性存在の誘引を継続。データ収集中」 敵性存在——第五階位、《貌喪い》。顔のない女の形をして、人間の声色を完璧に真似る妖異。さっきから、背後で同期の声を器用に繰っている。 「悠吾、助けてくれ、怪我してる」 振り向きそうになる神経を、太腿を思い切りつねって止めた。爪が、ジーンズの上からでも皮膚を抉る感触があった。こいつは、そうやって人間を振り返らせて、首から上を食う。術式テキストには、そう書いてあった。 「七号、回避行動に移るな。被弾データが欲しい」 モニター越しの声に、知っている名前が混ざった。鷹見。俺の直属の先輩で、今朝、学食で隣に座って「単位どうよ」と笑ったばかりの男だ。彼が飲んでいた味噌汁の湯気と、並んだ安っぽいカレーの匂いが、どうしてかこの瞬間に蘇ってくる。割り箸を割る乾いた音までが、耳のずっと奥で鳴り直した。 当たれ、と。彼は俺に、当たれと言っている。 俺は鞄から退魔札を三枚抜いた。指先が震えている。怖いからか、単に霊力切れかは、自分でも判らなかった。紙の縁が、汗で湿っていた。三枚それぞれに、祖父の癖のある墨跡が走っている。角の跳ねた「斬」の字、少し丸みを帯びた「呪」、わずかに掠れた「護」。指の腹で紙の目をなぞると、墨の繊維が皮膚の溝に引っかかる感触があって、その一瞬だけ、夏の縁側で祖父の背中の汗を眺めていた十歳の自分の位置に戻れた気がした。
札を一枚、自分の胸に貼る。《護衛・鏡返し》。効き目は二十秒、それ以上持たせれば霊力が切れる。 息を止めた瞬間、背中を氷の刃のようなもので撫で上げられた。シャツの繊維が裂け、鉄錆に似た血の匂いが自分の鎖骨から立ち上る。熱と冷たさが同時にやってきて、皮膚の神経が、どちらに反応していいのか迷っているのが分かった。 痛い。 その「痛い」も、俺はモニターに数値として流している。生体反応、霊力残量、心拍、瞳孔径。全部、腰に貼られた計測符が吸い上げて、地下三階まで電線で運んでくれる。いまこの瞬間、地下で誰かが俺の心拍を数字の列として眺めている。その事実が、傷口よりも深いところでひりついた。 発動体を立てた。檜の短い棒は、祖父の手の脂で飴色に染まっていて、握ると、子供の頃の線香の記憶が指先から立ち上がる。手のひらの真ん中に、祖父の親指の跡だけが少し窪んでいて、俺の親指はいつもそこに収まるようになっていた。 「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」 祖父に叩き込まれた九字切り。札が薄く光を帯びて、貌喪いの声真似が一瞬ひび割れる。その隙に二枚目を投げた。《呪縛・十字》——白い光が十字に走り、奴の胴を結界で絡めとる。奴の衣擦れのような音が、急に止まった。耳の奥で、自分の脈が一音遅れて追いかけてくる。口の中の水分が、さっきまで確かにあったはずの場所から、綺麗に抜け落ちていた。 「本部、救援を要請する。霊力残量、十七パーセント」 応答は、数秒遅れて来た。その数秒の間、俺は自分の呼吸音だけを聞いていた。 「七号、要請却下。現場の戦闘データが継続中」 喉の奥で、笑いに似た空気が漏れた。 「……却下、ね」 別の声が割り込んでくる。課長補佐・黒木。 「七号、君の仕事は生き残ることじゃない。記録を残すことだ」 その声の後ろで、誰かがくぐもって笑っている。給湯室でマグカップを温めながらでも、見ているんだろう。俺が札をすり減らす画面を。コーヒーの湯気越しに、誰かの命が数字で踊っているのを、彼らは退屈しのぎに眺めている。 貌喪いの十字が、弾けて散った。 奴は顔のない顔を、俺の正面まで持ち上げた。のっぺりした肉の表面に、今度は俺の顔だけが鏡像のように浮き上がる。目の下に深いくまを作った、疲れ切った大学三年の男だ。誰にも「大丈夫か」と聞かれない顔をしている。 「雨宮悠吾」 と、奴は俺の声で、俺の名前を呼んだ。 本部から、一度も呼ばれたことのない名前だった。 雨宮、と母が呼ぶときの、語尾をわずかに伸ばす間(ま)がある。悠吾、と祖父が呼ぶときの、喉の奥で一度鳴らしてから吐き出すような、低く煤けた響きがある。奴の真似は、そのどちらでもなかった。誰でもない声で、俺の名前だけが、正しい輪郭のまま発音された。顔のない顔の奥に、俺の名前を覚えている何かがいる——その不気味さより先に、ただ「呼ばれた」という事実だけが、胸の内側に落ちてきた。 おかしなもので、そこで急に膝に力が戻った。腹の底が、熱い金属でも飲み込んだように、じわりと温度を持つ。 最後の一枚——《斬式・霜》。祖父が最晩年に組んだ、極端に冷える術式。札を指に挟み、凍らせた吐息を吹き込んで、白く曇った掌を貌喪いの胸にねじ込む。掌が触れた瞬間、奴の肉はぐずついた泥のような感触で、それが一瞬で結晶化していくのが、骨の芯まで伝わってきた。指先から手首、肘へと這い上がる冷たさは、痛みというより、自分の体が少しずつ札の続きに書き換えられていくような錯覚だった。 奴の顔が、内側から霜で覆われていく。俺の顔ごと、ひび割れていく。 「……悠、吾……」 それは、たぶん奴の断末魔ではなく、俺自身の幻聴だった。凍りついた肉塊は、粉のように崩れ、排水溝の闇へ吸い込まれた。 俺はその場に膝をついた。シャツの内側で、血が生温く腹まで流れている。
「七号、討伐確認。帰還せよ」 本部の声は、機械のメーターを読み上げるのと同じ抑揚だった。 桜田門外、地下三階。黒耀課詰所に戻ったとき、廊下の蛍光灯はいつもと同じ三秒周期で点滅していた。霊障区画と同じ規格の灯具を、本庁はわざわざ使っている。それが、前から気に入らなかった。光が落ちるたびに、現場と本部の境目が曖昧に溶ける。どちらも、同じ規格の檻なのだと言われている気がした。 医務室で、肋骨の罅と背中の裂創を縫われた。縫っているのは医官ではなく、若い事務員の女だった。麻酔は半量。「データ取れるから」というのが理由らしい。針が皮膚を通るたびに、背骨の内側で小さな火花が散った。俺は奥歯を噛んで、自分の唾液が鉄の味に変わっていくのを数えていた。 事務員の指先は、プラスチックの手袋越しでも冷たかった。彼女は俺の名札を見もしなかった。胸の作業タグには、手書きで「7」とだけある。マジックの線が少し滲んでいて、それが誰かの指の汗なのか、俺の血なのか、判別がつかなかった。 報告書を取りに詰所へ寄ったら、自販機の前で鷹見がブラックを啜っていた。今朝の学食と同じ顔だ。 「おつかれ、七号」 「——鷹見先輩」 「ん?」 「いえ、なんでも」 彼は笑って、縫ったばかりの傷の真上を軽く叩いた。わざとか、気づいていないのか。どちらにしても、俺の痛覚はもう彼にとって、既読のログに過ぎない。 「次の任務、朝には通達行くから。悪いな、連投で」 頷くしかなかった。頷いた振動で、縫合した糸が皮膚を引っ張り、また血が滲む気配がした。 出口へ向かう途中、壁の勤務表が目に入った。氏名欄が並んでいる。鷹見淳一、黒木誠、東堂美緒、羽鳥真琴。みんな、ちゃんと名字と名前がある。役職の横に、内線番号や、誕生月まで書き込まれている者もいた。 俺の欄だけが、「実験体番号7」。 蛍光灯が、また一度、落ちた。 暗くなった○・二秒の間に、ひとつだけ理解した。 ここは、俺を人間として運用していない。 ずっと、そうだったんだ。 体の芯に氷水を流し込まれたみたいに冷えて、同時に、腹の奥で小さな熱が灯った。怒りより手前の、もっと静かな何かだった。たぶんそれが、自分という輪郭だった。 右手を胸ポケットにやると、祖父の形見の最後の一枚が、まだ残っていた。紙の端が、体温でわずかに柔らかくなっている。祖父の皺だらけの指が、この札に最後の墨を置いた夜のことを、なぜか急に鮮明に思い出した。硯に残った墨の匂いと、祖父が「これはお前の最後の一枚だ」と言ったときの、少しだけ掠れた喉の音まで。
地下三階から地上へ直通で上がるエレベーターの中で、携帯が震えた。 本部からじゃない。大学の講義グループLINEだった。 「明日の民法、休講だってさ」 どうでもいい一行。俺は画面の中の「雨宮悠吾」という四文字を、長いこと見ていた。その四文字だけが、今日このビルの中で、唯一、俺を番号で呼ばなかった。 扉が開くと、桜田門外の空は雨の匂いを孕んだ黒に変わっている。 携帯が、もう一度震える。今度は、本部からだった。 【次任務通達:新宿地下三層・第七階位《屍喰鬼》討伐。参加者:鷹見、黒木、実験体番号7】 息を吐いた。白くはならなかった。まだ、四月だ。 ——次は、ここに帰ってこないかもしれない。 そう思った自分の声は、不安ではなく、どこか決意に似ていた。