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欠格者の銀紋――査定を書き換える

第2話 第2話

第2話

第2話

後ろの男の指が、俺の肩に触れた。

制服の布越しに、体温より低い指の冷たさ。それが触れた瞬間、右の人差し指の付け根で熱が跳ねた。皮膚の下を走る銀の線が、三本から五本に増えていた。湯を沸かす寸前の、音になる前の気泡の震えに似ている。

「動くな」

前方の男が言った。吐く息の白さが、俺の喉元まで届きそうな距離に近づいていた。背広の襟に国家査定機構補助員のバッジ。だが上着の裾から下がっているのは民間の取立てが使う短い呪具――黒い革袋に入った、鉛玉の詰まった錘。殴るためではなく、術式を物理で押し潰すための道具だ。

「欠格税と別の『義務』がある。聞いたこと、あるか」 「……ない、です」 「欠格者相当分負担金。去年の十月に新設された項目だ。知らないのは、お前が制度から除外されてるからだよ」

男の口元が歪む。俺は黙って三人の位置を目で確かめた。前に二人、後ろに一人。路地の幅は二メートルもない。逃げられる角度は、後ろの男の右側、ゴミ箱と室外機の間の三十センチだけ。走れば膝が擦れる。擦れても、逃げる。そう決めた瞬間――

前の男の手が、俺の襟を掴んだ。

布が首の後ろで引き絞られて、シャツのボタンが喉仏の下で食い込んだ。呼吸が一拍だけ詰まり、視界の縁が一瞬黒く滲んだ。逃げる、と決めた手順が、頭の中で順番を失って散らばった。

路地の奥、蛍光灯の切れかけている方角から、ひとつの靴音が近づいてきた。一定のリズム、木の床を叩くような、底の硬い音。湿気を吸ったコンクリートの上で、その靴音だけが乾いていた。

「若いもんが、狭い路地で三対一か」

声は枯れていた。喉の奥で紙を擦ったような、乾いた低さ。

四人とも、同時にそちらを向いた。

白髪の老人だった。身長は俺より低い。背広ではなく、濃紺の作務衣に古びた雪駄。左手に油紙で包まれた細長い包み。髪は真っ白で、後ろに束ねている。顔の皮膚は浅黒く、皺の一本一本が深く、その皺のどこかに目が埋まっているような、そういう立ち方をしていた。

「爺さん、退いてろ。関係ない」

前方の男が、空いた方の手を振った。袖口から、薄い青の線が伸びる――初歩の拘束術式だ。札を介さずに発動できる型、査定機構補助員の標準装備。青い線は老人の足元めがけて走り、地面を這い、その踝に絡みつこうとした。

老人は包みを持っていない方の右手を、胸の高さに上げた。

指を一本、立てる。ただ、立てただけだった。

その指先に、青い線が吸い寄せられた。糸を手繰るように、空中で一度巻きつき、次の瞬間、ほどけた。織物の縦糸を横から引き抜いた時のような、連続する微かな音。青かった線は、ただの埃のような粒になって、路地の空気に溶けた。発動から消失まで、三秒。粒が落ちきった後、老人の指先には何も残らなかった。汗の一滴も、術の余韻も。襟首を掴まれたままの俺の喉の奥で、息が一度、勝手に飲み込まれた。

「……は?」

男の声が、裏返った。

「札もなしに、拘束をほどく? 馬鹿言え、第三階梯の術式だぞ」 「札、ねえ」

老人は呟いた。

「札ってのは、要は手順書だろう。手順を読み替えるなら、札の上に別の札を重ねるより、元の手順を先に崩した方が早い。その方が、紙の無駄も出ない」

その言い方は、教師が算数の計算方法を生徒に説いている時のそれに似ていた。老人は俺を見ない。三人の男の方も見ていない。自分の指先だけを見ながら、喋っている。語尾が、塾講師が黒板を叩く時のように、淡々と短く区切られていた。

「お前、何者だ」

後ろの男が、俺の肩から手を離して、老人の方へ踏み出した。その踏み出す歩幅が、急に不自然に短くなった。靴底が地面から離れない。まるで、踏み出す動作そのものが、後ろから手順を巻き戻されたような不連続。アスファルトの粒に靴底が貼りついたかのように、男の膝だけが前に出ようとして、空中で止まった。

「世の中には、二種類の人間しかいない」

老人の指が、今度は二本立った。

「手順を書く側と、手順をなぞる側だ。お前さんたちは後者だから、手順を先に崩されると、次の動作に進めない」

前方の男が、錘を取り出した。

黒い革袋。鉛玉が詰まっているのが、袋の重みで分かる。これが術式相手ではなく、肉体に振り下ろされるなら、老人の細い腕は一撃で折れる。俺は反射的に一歩踏み出そうとした。何を、と自分でも分からないまま。守るのか、止めるのか、それすら頭の中で言葉にならなかった。ただ、あの作務衣の背中に錘が落ちる絵だけが、先回りして見えていた。

その一歩が踏み切れる前に、老人の指先が三本、四本、五本と順に立っていった。そのたびに、三人の男の体の周囲で、見えない糸がほどけていく気配があった。男たちの背広の袖、襟、胸ポケット、そこから伸びていた細い青や赤の線――査定機構補助員の身体強化術式、恐らく常時発動型の防護障壁。それらが、連続して、静かに、糸屑に変わっていった。

老人は指を握り、もう一度開いた。

前方の男が、錘を振り上げた姿勢のまま、膝から崩れた。意識を失ったのではない。立つための手順を、忘れさせられた、という方が近い。眼球は動いている。口も半開きで呼吸している。ただ、立つという動作の順番を、体が思い出せなくなっている。

他の二人も、次々と同じ姿勢で地面に座り込んだ。

「三十分もすれば、動けるようになる」

老人は俺の方へ初めて目を向けた。

皺の奥の眼球は、思っていたより澄んでいた。黒目の縁がはっきりしていて、年寄りの目に特有の濁りがない。値踏みでも憐憫でもない、ただ、こちらの輪郭を確かめる視線だった。

「ほどいたのは身体強化と、立つ手順の二つだけだ。痛みも傷も残さん。記憶は残るから、俺の顔を覚えられるのは困るが、まあ、爺の顔なんざ似たり寄ったりだろう」

俺は何も言えなかった。

路地の空気は、さっきまでと同じはずなのに、鼻の奥に届く匂いが違っていた。排気口の油の匂いが薄くなり、代わりに、古い紙と墨の匂いが微かにする。老人の作務衣から漂っているらしい。久瀬さんの店の蔵に似た匂い。安心していいはずのない場面で、その匂いだけは妙に懐かしかった。胸の奥で、強張っていた肺が一段、勝手にゆるんだ。

「藤代蓮、だったな」

老人が、俺の名を呼んだ。

「さっき、男が呼んでた。覚えてしまった」

俺は頷くだけで返事をした。喉が、言葉を出すための手順を、さっきの男と同じように一瞬忘れていた。

「ついてきなさい、とは言わん。ただ、あいつらの仲間があと十分でここに来る。この路地から出るなら、俺と同じ方向の方が生き延びやすい」

老人は踵を返した。

雪駄の音が、また、乾いたリズムで路地を戻っていく。俺は一度、地面に座り込んだままの三人を見下ろした。口が半開きで、目だけが動いている。その目が、俺を追いかけていた。憎しみでも、恐怖でもない、ただ、追えるものを追っているだけの視線。

俺は歩き出した。

老人は三本先の角を曲がり、裏通りへ入った。古びたアパートの外階段、塗装の剥がれた手すり、足元のマンホールの蓋にうっすらと霜。俺たちは二十歩ほどの距離を保って歩いた。話しかけてこないのが、ありがたい。距離の取り方が、警戒でも放置でもなく、こちらが追いつける速さに歩幅を合わせているのだと、後ろから雪駄の音の幅を聞いて気づいた。

大通りが見えたところで、老人は急に立ち止まり、振り返った。

作務衣の袖から、骨ばった指が伸び、俺の右手を掴んだ。掌を上に向けさせて、指の腹で、人差し指の付け根を軽く押した。銀の線が、今は消えているはずの場所。老人の指の腹は乾いていて、紙やすりのような薄い硬さがあった。長く何かを擦り続けた人間の指の硬さだった。

「……ここか」

老人は小さく唸った。眉のあたりが、深い皺をひとつ余分に作って戻った。

「世界がお前を遅らせてる、ってやつだな」

俺は、意味が分からなかった。

「遅らせてる、って」 「そう。お前の内側で、もう組まれ終わってる手順がある。だが、お前の掌に触れた途端、世界の方が先にそいつを巻き戻してる。三百十二回、板が黙ったろう」

なぜ、その数字を知っているのか。

俺自身が、誰にも口にしたことのない数字だった。久瀬さんにも、母にも、自分の手帳の隅にしか書いていない数字。背骨の真ん中を、冷たい指でなぞられたような感覚が走った。

聞き返す前に、老人は俺の掌を離し、先に歩き出した。雪駄の音が、路地の出口で、乾いた拍子のまま遠ざかっていく。俺は自分の掌を見た。人差し指の付け根に、消えたはずの銀の線が、今度は三本ではなく、一本だけ、静かに灯っていた。

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