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欠格者の銀紋――査定を書き換える

第3話 第3話

第3話

第3話

老人の雪駄の音が、夜の湿った路地にくぐもって響いていた。

乾いた木の底が、湿気を吸ったコンクリートを叩くたびに、俺の靴底より半歩だけ先を行く。二十歩の距離。その距離が、追いつきも離れもしない一定の値で保たれていた。雪駄の音は四拍に一度、微かに詰まる。老人の右足の方が、左より半分だけ速い。昔、何かで膝を痛めた人間の歩き方だ。俺は歩きながら、そんなどうでもいい観察を続けていた。観察を続けていないと、手の中で灯り続けている銀の線一本のことを、考えないで済まないからだった。

右の人差し指の付け根。灯り方が、さっきまでと違う。熱の出方がゆっくりで、脈より少し遅い周期で明滅している。皮膚の下で、線そのものが呼吸しているように見えた。ポケットに手を突っ込んで隠そうとしたが、布越しに熱が伝わる。制服のポケットの綿が、ほんの一点だけ、体温より高い温度で湿っていた。

「──遅れてる」

前を歩く老人が、振り返らずに言った。

「お前の歩幅、四センチほど短い。体の方が、何かを後回しにしようとしてる時の歩き方だ」

俺は返事をしなかった。銀の線のことを指しているのか、後ろから響いてくる気配のことを指しているのか、判じかねた。判じかねているあいだに、後ろの靴音が、俺の迷いを超えて近づいてきた。

三人ではなかった。

四人分の足音が、二つに分かれて路地の両端を詰めてくる。

「爺さん」 「ああ、来たな」

老人が足を止めた。振り返った作務衣の裾が、一拍遅れて揺れる。その一拍のあいだに、俺の背後で、さっき座り込ませたはずの三人とは違う男の声が降ってきた。

「第二班だ。第一班が『立ち方を忘れた』と無線で言ってきた」

声は若く、前の男たちより落ち着いていた。

「爺さんの方は追わなくていい。そっちの小僧を連れて帰る。それだけで、今夜は終わる」

足音が距離を詰めてきた。俺が振り返った時にはもう、革靴の踵がアスファルトを鳴らす位置まで来ていた。先頭の男、背が高い。制服の胸に銀のバッジ、査定機構補助員の上位――主査官補の階級。胸の下、ベルトに吊るされた金属の筒。拘束用の具足ではない。刻印強制再付与器。掌に押しつけ、保持者のランクを一段下げるための、制式装備。

「Fランクをもう一段下げる、っていう命令だ」

男が、筒を抜いた。

「六ランク以下は法律上『人』として扱わない。分かってるな」

筒の先端が、俺の掌を狙って上がった。銀の線が、そこで熱を一段上げた。掌全体が、内側から湯に浸けられたような温度に沈んだ。脈の速さに、線の明滅が追いついてくる。四本、五本と線が増え、人差し指の付け根から掌の中央へ向かって、銀の網が広がり始めた。皮膚の裏側で、自分のものではない呼吸が、俺の呼吸に重なって動いている。吸う側は俺で、吐く側は銀だった。二つの呼吸の境目が、掌の中心で一度だけ、ぴたりと合った。

筒の口が、俺の掌のすぐ前まで来た。

その瞬間、俺は自分の掌を――筒の方へ、差し出した。

引くべきだった。逃げるべきだった。だが、皮膚の下の銀の網が、筒の金属の匂いを、鉄錆より少し甘い何かの匂いとして捉えた瞬間、体が勝手に先に動いた。掌が筒の口を覆い、金属に触れた。触れた瞬間、冷たいはずの金属が、一拍だけ皮膚より熱く感じられ、その次の一拍で、氷より冷たく沈んだ。温度の順番が、逆さまに入れ替わった。

「──」

男の声が、最後まで音にならなかった。

筒の内部で、鈍い振動が走った。俺の掌の下で、金属の表面に、細い銀の線が三本、吸い込まれるように伸びていった。線は筒の側面を辿り、彫られている刻印――国家査定機構の認証紋――の上を、撫でるように走った。走った跡で、紋の朱が、白く抜けていく。封印札が紙粉になった、あの時と同じ抜け方だった。抜けていく朱の粒が、俺の掌の皮膚に、ほんのわずかに熱い砂のように感じられた。その熱を、銀の網が、一粒ずつ数えるようにして呑んでいった。

筒の末端、ベルトに繋がった部分で、かちり、と小さな音がした。

男の胸のバッジが、銀から、鉛色に変わった。

「な、何だ」

男が自分の胸を見下ろした。主査官補の階級章が、溶けたのではない。色そのものが、別の金属の色に書き換えられていた。バッジの縁に彫られていた細かい刻み目まで、鉛色に沿って改めて刻み直されたように、輪郭ごと別物に変わっていた。隣の男が、慌ててバッジに指を伸ばし、触れた指先を離した。熱くもなければ冷たくもない、ただ、そこに刻まれていた階級の定義だけが、抜けていた。指を離した男の喉が、唾を呑む動きで一度だけ上下した。

俺の掌の下で、筒の内部の刻印強制再付与器の機構が、ぷつん、と音を立てて止まった。

「ランクを、書き換えた」

老人が、静かに呟いた。

「概念の方に、直に手をかけた」

俺は掌を筒から離した。離した掌を見ると、銀の網が、今度はゆっくり、指の第二関節のあたりまで広がっていた。網の一本一本が、さっきまでより太い。糸ではなく、細い血管に近い。熱はまだ引いていない。引かないまま、皮膚の内側で脈を続けている。息を吐くと、その熱が指先から離れようとして、また戻ってきた。俺のものか、銀のものか、どちらのために俺の肺が動いているのか、一瞬わからなくなった。

筒を持っていた男は、後ろに三歩下がった。三歩下がった後、もう一歩下がろうとして、膝が笑った。震えたのではない。重心の取り方を、一瞬、体が忘れた。隣の男が、彼の肘を支えた。支えた男の胸のバッジにも、銀の線が一本、小さく走って、消えた。走った後で、その男のバッジも、色がひとつ鈍くなっていた。触れてもいない距離で、定義だけが伝染していた。

「撤退」

後ろの男が叫んだ。声の端が、ほんの僅かに裏返っていた。

「第二班、撤退。こいつは触るな。触ったら階級が落ちる」

靴音が、来た時より乱れた足運びで遠ざかっていった。一人が振り返り、もう一人が腕を引いて、引きずるようにして路地の角を曲がった。角を曲がる瞬間、先頭の男が、俺の掌の方ではなく、老人の顔を見ていた。憎しみでも恐怖でもない、名前を確認しておきたい時の目だった。報告書のどこに何を書くか、胸の内で先に書き出している目でもあった。

「……俺、何をした」

俺は、自分の声を初めて路地に落とした。喉の奥が乾いていて、音が思ったより掠れた。

銀の網は、指先から手首の方へ、今度はゆっくり引き始めていた。引きながら、消えていく。人差し指の付け根に、最後の一本だけが、呼吸を続けている。

「ランクの定義を、書き換えた」

老人は、俺の掌を覗き込んで言った。目尻の皺の奥で、瞳だけが夜より暗く落ち着いていた。

「札でも術式でもない。あいつの身分の根拠そのものを、お前の銀は撫でた。撫でただけで、上等の金属が鉛に落ちた。これは、拘束でも破術でもない。概念改変、という」

作務衣の袖から伸びた指の腹が、俺の人差し指の付け根に、もう一度触れた。紙やすりの硬さが、最後の銀の線を、静かに撫でる。撫でられた線は、触れられたことを嫌がるように、一度強く明滅した後、皮膚の下へ沈んだ。沈む直前、線の末端が、俺の骨の内側を、一瞬だけ細く震わせた気がした。

「三百十二回、板が黙っていた理由がこれだ」

老人は立ち上がった。

「お前の中には、最初から刻印があった。だが、板が検出しようとした瞬間に、お前の銀は、板の検出手順の方を書き換えていた。板の方が『検出する』という定義を失って、黙っていた。世界は、お前の存在を、うまく処理できていなかっただけだ」

俺は、何も言えなかった。

三ヶ月、ずっと、自分の側の欠陥として扱われていたものが、世界の側の処理不能として並び変えられた。その並び変えに、頭がまだついていかない。欠陥という言葉が、耳の奥で剥がれ落ちる音を立てて、しかしその下から出てきた新しい言葉には、まだ名前が与えられていなかった。

「この力」

老人は、路地の奥の、赤く点滅する交番の灯を、目で示した。

「表に出せば、国が動く」

雪駄の音が、また、乾いた拍子で歩き始めた。今度は、俺に追いついてほしい速さではなかった。老人の歩幅は急に大きくなり、作務衣の背中は、夜の路地の湿気の向こうで、遠ざかる前に一度だけ、振り返った。

「ついてくるか、帰るか、三秒でいい、決めろ」

俺は、掌を握った。爪の当たった皮膚の下で、銀の線の、最後の一本が、静かに熱を持った。

その熱に、俺は一歩、踏み出した。

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