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反転の陰陽師

第2話 第2話

第2話

第2話

鉄の扉を抜けた先は、俺の予想より、はるかに広かった。

地下二階、かつて風俗店だった痕跡を黒いビロードで覆い隠した長方形の部屋。天井の配管は塗装で潰され、ダウンライトだけが落ちている。床は足音を吸う毛足の長い絨毯。中央に小さな演台、その周囲に楕円形に並べられた革張りの椅子、およそ四十席。すでに三分の二が埋まっていた。

伊織は受付らしき小机で、名刺大の黒い札を二枚、音もなく滑らせた。銀の象嵌で「白峰」と彫られた札。受付の初老の女は、俺の顔を見もしない。伊織の影は、顔を持たないのが礼儀だ。

「奥から二列目、左」

伊織が低く言う。俺は三歩離れず、半歩下がった位置を保つ。席についた瞬間、背もたれの革の冷たさが、コート越しに尾骨を刺した。思わず息を詰めた。革の下に仕込まれた何かの、かすかな薬品臭が鼻の奥に届く。座面にも、前に座った人間の体温が残っていない。この椅子に座る者は、誰も長く座らない。そういう会場だ。

会場の匂いは、甘い。腐った杏に、お香と安い香水が上掛けされ、その下に、鉄と獣脂と、もう一層、皮膚のざわつく匂いが這っている。俺の鼻腔の奥で、唾液の出る場所が勝手に痺れた。嗅覚器が敵を前にした獣のように、勝手に警報を鳴らしている。喉の奥で胃液が軽く跳ねた。子供の頃、初めて葬儀場に連れていかれた日の感覚に近い。死に覆いを被せた甘さ。

「……伊織さん、お香、封印紋の補強用のやつです」

「気づいた」

伊織の声は、低い位置で潰されていた。唇だけを動かす話し方。俺も、同じ高さに声を落とす。

「補強しなきゃ保たない封印、ってことですよね」

「そうだ。だから、俺たちが呼ばれてる」

俺は椅子の肘掛けを握った。革の縫い目が指の腹に食い込む。護衛任務の本当の意味が、今、ようやく背筋に落ちてきた。買い手と売り手の喧嘩を仲裁する護衛じゃない。封印が保たなかった時のための、処理班だ。消化器であり、遺体袋であり、事後の口止め。俺の掌に滲んだ汗が、革に黒い染みを作っていく。伊織の横顔は、それに気づいているのに、見ないふりをしている。気づいて、触れない。それが彼女の優しさの形であることを、この半年でようやく俺は理解しはじめていた。伊織の睫毛の影が、頬の上で、ほんの一度だけ揺れた。

演台の奥の扉が開き、司会の男が出てきた。タキシード、黒縁眼鏡、左手に白い手袋だけ。右手には竹の木槌。手袋が片方だけなのは、呪物を素手で扱う儀礼だろう。俺の鼻は、その白い布地からも、ごく薄く、死者の粉のような匂いを拾った。

「──第三百十二夜、金龍会、呪物頒布、開始致します」

数字がやけに具体的で、俺の胃が小さく縮んだ。三百十二回も、この部屋は開かれている。三百十二回、誰も表沙汰にしなかった。ということは、三百十二回分の事故や死や失踪が、この毛足の長い絨毯の下に、静かに吸い込まれている。

最初の競売品は、小さな桐箱から取り出された銀の簪だった。明治期の花街、遊女が客を殺した念のこもった一品。封印紋は箱の内側に、朱で三重。俺の鼻は、この簪からは、焦げた砂糖と、ほんの少し鉄錆の匂いしか拾わない。念は古く、角が取れている。憎しみが風化して、ほとんど湿った悲しみになっている。

「……これは、大丈夫です」

伊織に耳打ちする。伊織は顎だけで頷いた。肯定でも否定でもない、記録だけの頷き。

二点目、江戸後期の人形。三点目、戦時中の従軍手帳。四点目、室町の仮面。俺は一つずつ、匂いを嗅ぎ分け、伊織の耳元に短く報告していく。人形は樟脳と古い血、手帳は湿った泥と、若い男の焦げた骨。仮面は、漆の下で何層もの念が重なっていたが、いちばん表面の層は、笑いながら死んだ演者のもので、むしろ穏やかだった。三点目の手帳だけは、鉄の匂いが強めで、俺は「弱いです、補強がいります」と告げた。伊織は、ただ記憶するように、一度瞬きをした。その瞬きの長さが、俺の報告を永遠に覚えておくための時間のように感じた。まばたきのあと、彼女は胸元から細い銀筆を出し、膝上の黒革の手帳に、一度だけ短い線を引いた。線の長さで危険度を刻んでいるのだと、あとで知った。俺の言葉は、伊織の手の中で、帳簿の一行になる。

会場の札の応酬は、俺の知らない桁で飛び交っていた。三千、五千、八千、一億二千。声は誰も張り上げない。指先で札を立てるか、眉を軽く持ち上げるだけで、司会の男がそれを拾い上げる。金額だけが生き物のように部屋を這っている。札が立つたび、隣り合った老人たちの腕時計が、ダウンライトを受けて、冷たく瞬く。金も時間も、ここでは同じ重さで秤にかけられていた。

競売が進むにつれ、空調の温度が下がっていくのが分かった。霊力の濃い人間が複数、同じ部屋で息をしているせいで、室温が物理的に奪われていく。俺のコートの内側に、冷たい汗が帯になって張りついた。吐く息が、うっすら白い。四月の地下で、あり得ない温度だった。前の列の老人が、膝の上でゆっくりと手をさすっている。この場の異常を、誰もが体で知っていて、誰も口にしない。それが、この会場の作法だった。

六点目。

演台に、黒塗りの漆箱が運ばれてきた。両手で運ぶには大きく、係員が二人がかりで、布の掛けられた箱を演台に載せる。係員の足取りが、明らかに、前の五点とは違う。踏む絨毯が、急に薄氷にでもなったかのように、慎重だ。係員の額には、ダウンライトを反射する細かい汗が浮いていた。白手袋の指先が、箱の縁を握ったまま、ごくわずかに震えている。俺の視界の端で、前列の女が、膝の上で数珠を握り直した。その指の関節が、白く浮き上がっていた。布が外された瞬間、俺の鼻腔は、空気が変わったと悲鳴を上げた。

腐った杏ではない。腐った杏を、腐った肉で包んで、甘いお香で覆った、三重の匂い。封印紋の朱が、俺の目にはもう、薄いピンクに退色して見えた。目の錯覚ではない。この箱の中にいる何かが、外へ向けて、薄く、舌のようなものを伸ばしている。

「……伊織さん」

俺は、膝の上で拳を作った。爪が、掌の古い半月の跡を、また深く抉った。声を出すのに、自分の肺を一度絞るほどの力が必要だった。口の中が乾ききって、舌が上顎に張りついた。

「これ、もう割れてます」

「──どの程度」

伊織の声は、一段、低くなった。仕事の声だった。

「表の三重紋、二枚目までひびが入ってます。お香で誤魔化してるだけです。開けたら、百パーセント、中止──中止を、進言してください」

伊織の横顔が、ダウンライトの下で、一瞬だけ固まった。それから、ごく短く、息を吐いた。判断のための呼吸ではない。覚悟のための呼吸だった。

「……遅い」

その一言に、俺の背中を、冷たいものが一気に駆け下りた。うなじの産毛が、一本残らず、逆立つのが分かった。遅い、という二文字の中に、彼女がこの数分で計り終えた時間と、距離と、犠牲の数が、すべて詰まっていた。

司会の木槌が、軽やかに演台を叩いた。

「本日の目玉、室町末、応仁の陣にて封じられたる喰骸の残り首──鑑定結果、封印健全、開封不要の保証付き」

嘘だ。俺の喉から、声が漏れかけた。開封不要の保証、ではない。開封できないから、保証として売りに出している。売り手も、買い手も、それを知っていて、それでも札を立てるつもりでいる。金で危険を所有すること、それ自体が、この会場の快楽なのだ。

伊織が立ち上がった。俺の手首を、強く掴む。指の骨が軋むほどの力だった。

「中止を要請する。白峰家の名で」

会場が、ざわついた。革の椅子が軋み、札を扇ぐ音が止まる。四十人分の視線が、一斉にこちらへ向いた。値踏みするような、苛立った、そして、どこかで少しだけ、安堵した目。誰かが止めてくれることを、彼らも、心のどこかで待っていたのかもしれない。司会の眼鏡の奥で、瞳が、ほんの一度だけ揺れた。

「白峰様、恐れ入りますが、開催中の異議申立ては──」

その瞬間、演台の漆箱の蓋が、内側から、軽く、跳ねた。

朱の封印紋の、二枚目が、ぴきり、と乾いた音を立てて、裂けた。

俺の視界の中で、お香の煙が、一瞬、逆流した。空調ではなく、箱の内側から、何かが息を吸い込んだ。会場の四十人分の霊力が、ひとかたまりの餌として、中にいる何かに、今、認識された。

伊織の掌が、俺の後頭部を、強く床の方向に押し下げた。

「蓮、鼻を閉じろ」

甘い匂いが、百倍から、千倍に、膨らんだ。

漆箱の、三枚目の朱紋が、裂け始めていた。

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