第3話
第3話
三枚目の朱紋が、裂けた。
乾いた和紙の音ではない。湿った皮膚を、爪で一息に割いたような音だった。俺の耳の奥で、鼓膜が薄く痺れた。お香の煙が、漆箱の口へ、引き潮のように吸い込まれていく。箱の中に、別の肺が一つ、生まれた。
「──伏せろ!」
伊織の声が飛んだ。俺の後頭部を押さえた掌が、そのまま俺を絨毯に押し倒す。ふわっと浮かんだ毛足の中に、俺の額が沈む。毛足に絡んだ誰かの髪の毛、絨毯用洗剤の薬品臭、その下の、古い血の匂い。視界はほとんど暗い。だが、頭上で、確かに、何かが、立ち上がった。
四十人分の呼吸が、一斉に止まった。
黒い、長い首だった。
視界の隅を、漆箱から伸び上がった影が、天井のダウンライトに向かって、ゆるゆると首をもたげていく。首の根元から、骨でできた腕が二本、箱の縁を掴んで、身体をひねり出した。胴体はない。首と、肩と、腕だけで、残りは黒く渦巻く霧。それが、室町の頃、幾万の兵を喰って首だけが残ったという、『喰骸』。
──本家の禁書で、名前だけ見た。
首は、演台のダウンライトを見上げ、口を、開いた。
口の中には、俺たち人間の顔が、十も、二十も、すでに詰まっていた。まだ目を開いている顔もあった。喰ったそばから吸収されていく、古い餌の残像たちだ。その中の一つが、俺の方を、確かに見た。
胃液が、喉の奥まで上がってきた。
「蓮、動くな」
伊織の声は、もう、上にいなかった。俺の背中から、彼女の重みが消えていた。絨毯の上で、俺は顔だけを横に倒す。
伊織は、演台と参加者席の、ちょうど境界に、立っていた。
伊織のコートは、すでに肩から落ちていた。白いシャツの袖が、肘までまくられている。彼女の両手の指が、空中で、俺には見えない速度で、印を切っていた。数珠のように繋がった五字呪、白峰家の秘術、俺が教本でしか見たことのない構式だ。
「──疾ッ」
短く、切れた声。
伊織の指先から、白い光が三本、槍のように射出される。喰骸の長い首を、三点同時に貫いた──貫いた、はずだった。白い光は、黒い霧の中に吸い込まれ、首の向こう側から、染み出るように、消えた。喰骸の首は、傷を持たないまま、ゆるりと、伊織の方を向いた。
「……嘘、だろ」
俺の口が、勝手に動いた。白峰家の五字呪を、吸った。上位妖というのは、こういう存在か。教本の、最後のほうのページに、朱で印だけがつけられていた等級。講義でさえ、名前以上は教えられなかった階層。その存在に、俺たちは、たった二人で、向かい合っている。指先が、じわり、と、冷えて、かすかに震えた。
喰骸の口から、低い唸り声のようなものが漏れた。それは音ではなく、空気の振動そのもので、会場の全員の鼓膜の内側を、直接、舐めた。振動が通り抜けた瞬間、前列の老人の顎が、外れて、絨毯に落ちた。顎だけが、落ちた。老人の身体は、まだ椅子に座ったまま、上の歯列だけで、何かを言おうとしていた。上歯と下歯の、失われた間を、赤黒い舌が、意味をなさない形に、ゆっくりと、動いた。助けて、だったのかもしれない。分からなかった。
会場が、悲鳴に変わった。
革張りの椅子を蹴倒して、四十人が一斉に出口へ殺到する。鉄の扉は、俺たちが入ってきた一つだけ。司会の男が、扉の方へ駆けようとして、その背中を、黒い霧が、横から薙いだ。男の上半身が、腰のあたりから、ゆっくりと、ずれた。切れたのではない。喰われた。霧の通った跡だけが、人の形に、綺麗に、消えていた。
血が、落ちるのに、一拍、遅れた。
「伊織さん!」
俺は絨毯から半身を起こした。伊織は俺を振り向かない。右手の指が、また別の印を組んでいる。九字、四縦五横、本気の白峰の術式。彼女の指先に、銀色の霊力が、渦を巻いて集まっていく。喰骸の首が、その銀色を、餌を見つけた獣のように、覗き込んだ。
「蓮、奥の柱の陰に走れ!」
振り向かない。
「でも──」
「三歩以上離れるなって言ったのは、今じゃない!」
俺の足が、命令より先に動いた。絨毯を蹴る、革靴の踵が沈む、体勢が崩れる、それでも走る。演台の奥、古いコンクリートの太い柱、俺はその陰に滑り込んだ。背中を柱に叩きつけ、息を詰める。振り返った視界の中で、伊織の銀の霊力が、一気に解放された。
銀の鎖が、何十本も、床から天井へ、会場を縦横に走った。喰骸の首と腕を、同時に、七点で縫い止めた。鎖が、黒い霧を、初めて、確かに捕らえた。霧の中で、骨の腕が、軋んだ。
「勝てる──」
俺の呟きが、言い終わる前に。
喰骸の口が、一度、大きく、開いた。
口の奥の、古い餌の顔が、全員、同時に、笑った。
鎖が、内側から、弾けた。
銀の破片が、会場全体に、散弾のように飛んだ。破裂の瞬間、気圧が、耳の奥で、ぐっと、沈んだ。一つが、演台の角を削り、一つが、絨毯の革椅子を貫通し、一つが、伊織の左肩の、鎖骨の上に、深く、刺さった。
伊織は、倒れなかった。
銀の破片は、彼女自身が放った術式の欠片だ。自分の霊力で、自分が撃たれた。左肩から、白いシャツに、赤が滲んだ。じわ、ではなく、ぼたり、と、絨毯に落ちた。彼女は、それでも、右手で、次の印を組み直そうとしていた。
「伊織さん、逃げて!」
俺の声は、柱の陰から、みっともなく、裏返った。
伊織は、ほんの一瞬、俺の方を見た。振り向いた、ではない。視線の端で、柱の陰の俺を、確かに、捉えた。それから、笑った。口角の片側だけ。朝、屋上でペットボトルの蓋を閉じた時と、同じ笑い方だった。
「桐生蓮」
彼女は、俺の名字を、初めて、フルネームで呼んだ。
「撃てなくていい。嗅いでろ」
喰骸の黒い霧の中から、長い腕が、一本、伸びた。骨の指が、伊織の胸を、狙っていた。彼女は、避けなかった。避けないまま、右手の印を完成させ、俺の立つ柱の方へ、残った銀の霊力の全部を、撃ち込んだ。
伊織の銀が、俺の頭上を、音もなく、通り過ぎる。
その直後、喰骸の骨の指が、伊織の胸を、貫いた。
背中側から、彼女の白いシャツが、赤い布のように、裂けた。
時間が、止まった。
絨毯の毛足の一本一本、天井のダウンライトの埃、俺の瞬きの途中の睫毛、全部が、同じ速度で、止まった。止まった毛足の、その一本の毛先に、小さな埃が一粒、貼りついて、ダウンライトの光を、鈍く、跳ね返していた。止まった世界の中で、俺の耳だけが、奇妙に、よく聞こえた。伊織の唇が、俺の名前を、音にせずに、形だけで、呼んだ。
──れん。
骨の指が、引き抜かれた。
伊織の身体が、絨毯に、落ちる前に、天井が、落ちた。
伊織が、最後に撃ち込んだ銀の霊力が、俺の立つ柱の上の、古いコンクリートの梁を、正確に、切断していた。喰骸の首を巻き込みながら、巨大な瓦礫が、演台側の床を、縦に、斬り落とした。埃と、コンクリートの粉と、鉄筋の折れる音。喰骸の咆哮が、瓦礫の下から、くぐもって、響いた。
俺は、柱の陰で、動けなかった。
瓦礫の向こう側に、伊織は、倒れていた。俺と、彼女の間を、三メートルの、灰色の壁が、塞いでいた。地上への階段も、その壁の、向こう側だった。
「──伊織さん」
俺の声は、自分の耳にも、ほとんど届かなかった。
絨毯の上に、血溜まりが、広がっていく。
俺の革靴の爪先まで、赤は、ゆっくりと、確かに、届いた。毛足の繊維を一本ずつ濡らしながら、赤は、秒針のような規則正しさで、俺の方へ、近づいてきた。ネオンの赤ではない。本物の、鉄の匂いのする、人間の赤。伊織の赤。俺は、膝から、崩れた。掌が、血の溜まりに沈んだ。温かかった。まだ、温かかった。
「……嗅いでろ、って」
俺の口が、勝手に動いていた。
「俺は、嗅ぐことしか、できないって──」
胸の奥で、何かが、軋んだ。
撃てない、と、十七年、言われ続けた場所。本家の末席、出来損ない、と呼ばれた空洞。その空洞の、底の、さらに底。今まで一度も、自分で触れたことのない、硬い蓋のようなものが、血の温度に、ゆっくりと、反応した。
──かちり、と。
俺の肋骨の内側で、錠前が、外れる音がした。
瓦礫の向こうで、喰骸の咆哮が、もう一度、轟いた。