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氷湖の参謀——裏切られた辺境伯嫡男は敵軍の影で祖国を再興する

第3話 第3話

第3話

第3話

葦の穂先が、頬を削った。

ヴァイスは氷水を吐き出し、仰向けの身体をわずかに横へ転がした。鎧の胸当てに溜まった水が、首筋を細い滝となって流れ落ちる。皮膚は凍えきって、流れの熱ささえ感じない。唇の端に、血と湖水の混ざった唾が粘土色の泥へ垂れた。鉄錆と腐葉土、そして焼けた樹脂——風下から流れ込む煙の匂いが、舌の奥にまで入ってくる。

(……生きて、いるのか、俺)

腹の底で自問する。指先から爪の先まで、一本ずつ意識を辿る。動く、動く、痺れているが動く。右太腿を貫いた矢は、流される間に折れたらしい。矢柄の半分だけが肉に残り、鉄鏃の熱が腿骨の奥で鈍く脈を打っている。背に刺さった一本は、湖底の石か流木に擦れて根元から抜けていた。代わりに、肩甲骨の下の穴から、湖水と血が交互に染み出してくる。呼吸のたび、その穴が小さく口を開けるのが分かった。

ラウネ湖の北岸——湖畔から三百歩は流されたか。夜はまだ明けていない。東の空は黒々と重く、ただ南、燃え落ちる城の橙色が、湖面に細く糸を引いてここまで届いていた。朝、家訓を誓った岸と、葦原一つ隔てた対岸である。朝、あそこで父に肩を叩かれた指の跡が、まだ鎧の肩当てに残っているような気がした。

両肘に力を入れる。折れていない。左膝も動く。脛当てが泥に食い込み、動かすたびに乾いた血が皮膚を引き攣らせた。右足は、踵を地に下ろすたびに熱い鉄串で内側を抉られるようだったが、歩ける。ヴァイスは胸当ての裏に手を差し入れ、銀の鎖の留め金が肋骨に食い込んでいるのを確かめた。切れていなかった。それだけで、息が戻った。

鐘の音は、もう湖を渡って来なかった。代わりに、葦原の向こうから、別の音が近づいていた。

荷車の軋み。蹄の鈍い響き。乾いた凍土を踏む、数百の靴音。

ヴァイスは伏せた。

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葦の根元に腹這いで身を隠し、耳を澄ませた。敵は湖北の本道を北上していた。本隊ではない。補給の後詰め——糧秣と矢束を運ぶ荷駄の列だ。松明の粗末な間隔、歩調の揃わぬ足音、指揮者らしき者の怒鳴り声が、列の中央と後尾からまばらに上がる。千人の軍勢の前で、ヴァイスが幾度も父から教わった、補給隊の足音であった。

(……点呼を取る)

父の声が、頭の奥で甦る。——補給は千の兵を生かし、千の兵を殺す。だから必ず、道の途中で数を改める。

腹這いのまま、ヴァイスは葦原の縁を北東へ這った。右腿の傷が凍土に擦れるたび、歯の奥で小さく呻きが漏れる。噛みしめた唇が、氷水で切れた箇所から新しい血の鉄の味を舌に送った。五十歩ほど進んで、葦が途切れた湿地の泥溜まりに、黒い塊が見えた。

甲冑を着けた、帝国兵の屍。

矢が腰と喉を貫いている。味方の流れ矢にやられたか、偵察に出て溺れかけた末の凍死か——顔は青黒く、唇が剥がれて黄色い歯が覗いていた。開いたままの瞼の裏で、瞳はすでに蠟のように濁り、松明の遠い赤さえ映さない。ヴァイスは近づき、まず息を確かめた。鼻腔に耳を寄せ、鎖帷子の首元に掌を当てる。ない。肋骨の動きも、指先の震えも、何一つ。次に鎧を検めた。ゼルダイン帝国、雑兵の鎖帷子。胸には蠍の紋章ではなく、緑の麻布に黒の「参」の字——第二軍三番隊、補給付の雑兵。背の矢羽根は味方の白鷲。流れ矢、と断じる。

(……ちょうどいい)

ヴァイスは、自分がそう呟いたことに一瞬吐き気を覚えた。幼き日、庭で傷ついた雀を拾い上げたときは、それだけで半刻泣いたことがある。雀の胸の、指の腹に伝わった小さな鼓動の温度を、今でも覚えている。その両手が、いま凍った屍の具足の留め金を外している。指先が冷たく痺れているのは湖水のせいか、己が変質したせいか——判じる暇すら、許されなかった。

屍の鎧は、父のものより一回り小さく、肩で鋲が軋んだ。ヴァイスは自分の胸当てを外した——アルフェン家狼の刻印が松明の遠火に一瞬照らされ、ヴァイスは瞼を伏せた。指が震えて、何度か留め金を取り落とした。狼の胸当てを、葦の根元に深く埋めた。掌で泥を押し固め、その上に折れた葦を散らす。家を葬るのに、墓標も祈りもない。腿の矢柄は、折り残しを歯で噛み、革帯で強く縛って止血する。鎖帷子の内側に残る屍の臭い——死の匂いは、甘い酸味と、鉄と、糞尿が混ざったものだった。それが自分の皮膚の匂いと入れ替わる瞬間、ヴァイスは舌を噛み、声を殺した。

屍の頭巾を引き下ろし、顔の半分を覆う。屍の剣帯から、欠けた鉄剣を抜いて腰に差した。父の銘入りの剣は、銀の鎖と共に、胸当ての布の裏——いや、屍の具足の裏側に、そっと忍ばせた。手触りだけが、かつての自分を繋ぐ唯一の綱であった。

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本道に出た。

補給隊の後尾は、ちょうど葦原の端をかすめるように過ぎていく。ヴァイスは足を引きずり、列の最後尾の荷車の後ろに追いついた。荷車の縁に、割れた黒麦の粒が零れて凍り付いている。遅れ兵を装う。血と湖水に濡れた鎖帷子は、篝火の遠さが隠してくれた。

「おい、どこの隊だ」

声が飛んできた。列の側面を馬で往復する、赤い肩章の下士官。灯火が、男の顎鬚を黄色く照らしている。

ヴァイスは、湖水でひりついた喉を一度、低く鳴らした。口の中で舌を転がし、貴族の響きを泥で塗り潰していく。

「三番、補給付、末尾」

声は掠れていた。掠れていて、良かった。貴族の発音は、湖水と血に削られて、平民の訛りに近く歪んでいた。下士官は一瞥して、馬上から鞭の柄で荷車を叩いた。

「水に落ちたか」

下士官の馬が鼻を鳴らし、湯気のような白い息を吐いた。

「湖岸の斥候で、氷を踏み抜きました」

「馬鹿め、湖の氷はもう薄い頃合いだ。歩けるか」

「歩けます」

「歩けるなら、列に戻れ。点呼は次の辻だ」

下士官は馬の腹を蹴り、前方へ走り去った。ヴァイスは、喉の奥で息を止めていたことに、そのとき初めて気付いた。鎖帷子の内側で、心臓が肋骨を打つ音が、自分の耳にだけ大きく響いていた。鎖帷子の重みが、肩から腰へと、少しずつ自分のものになっていく。

列は進んだ。半刻ほど歩いた辻で、補給長らしき老兵が石の上に立ち、木札を手に名を読み上げはじめた。声は嗄れ、吐く息が白く宙に散る。ヴァイスは、目だけで前の兵の背中を追った。五人前、三人前、二人前——。一歩ごとに、右腿の傷が革帯の下で脈を打ち、歯の裏側で鉄の味がにじむ。屍の兵の名は、分からない。鎖帷子の内側に縫い付けられた麻の布切れに、炭で書かれた三文字が読めた。指先で擦ると、炭の粉がわずかに剥がれ落ちた。

「ヨルク」

老兵が名を呼ぶ。

ヴァイスは一瞬、父の顔を思い出した。父が少年の自分に、初めて他人の名で呼ばせた稽古のこと——「兵の名は軍の命綱だ、嫡男。一人でも忘れたら、お前はその夜、寝るな」。

「ヨルク」

老兵が再び呼んだ。苛立ちの色が混じる。

ヴァイスは、鎖帷子の下で一度だけ、父の位牌に頭を下げた。許しを乞う祈りではなかった。赦されぬことを、承知で盗る——その誓いだった。

「——ここに」

声が、夜に落ちた。掠れた平民の訛りを、喉の奥で一度捏ねてから押し出す。老兵は顔を上げもせず、木札に印を刻み、次の名を呼んだ。ヴァイスは、列の中央へ吸い込まれていく。

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荷車の車輪が、凍土の轍を削る音が、足の下に続いていた。

列は北へ——ゼルダイン第二軍の本営、旧アルフェン領を抜け、帝国側の駐屯地へと向かう。ヴァイスは、列に紛れて歩きながら、頭巾の下で目を閉じた。閉じた瞼の裏に、朝の湖面が映る。氷の上に立つ、鎧を賜ったばかりの自分の姿。その肩に、今、別の男の名が載っている。肩はまだ、その重みの所在を覚え切っていない。

(ヨルク。ヨルク・何某。ゼルダイン第二軍、補給付、雑兵)

噛み締めるように、胸のうちで唱える。一度、二度、三度。舌の上に文字の形が馴染むまで、息を合わせて反復する。この名は、これから幾日か、幾月か、自分の舌に張り付く。その間、ヴァイス・アルフェンは湖底で死んでいる——民にも、父の亡骸にも、さらわれた婚約者にも、そう信じさせておく。婚約者の、雪の朝に差し出された白い手のひら。その温度だけは、この鎖帷子の内側で、まだ消さずに置いておく。

夜気に、松明の煤と、荷車に積まれた黒麦の匂いが混じっていた。車軸の軋み、前後の兵の咳、遠くで誰かが低く口ずさむ帝国の行軍歌——音の群れが、薄い膜のようにヴァイスを包んで運んでいく。ヴァイスは、その匂いの中を黙々と歩いた。歩きながら、復讐の設計図の最初の一線を、胸の内で引いた。

——敵陣の最奥まで、運ばれていけ。

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