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氷湖の参謀——裏切られた辺境伯嫡男は敵軍の影で祖国を再興する

第2話 第2話

第2話

第2話

本丸の鐘が狂ったように鳴り続けていた。ヴァイスは鎧の留め金を片手で噛みしめながら、回廊を駆ける。胸当ての革紐が脇の下で食い込み、鎖骨の縁を薄く擦った。松明の油煙の匂いに、鉄錆と、新しい血の臭いが混じり始めている。まだ戦は城内に届いていないはずだ——そう信じていたのは、回廊の角を曲がるまでの十歩だった。

中庭の石畳に、家令の屍が倒れていた。白髪の老人の背に刺さった矢羽根は、ゼルダインの緑。ヴァイスの喉の奥で、朝に湖畔で嗅いだ鉄の匂いが蘇り、舌の根まで痺れた。夜着の上から胸当てを掴み、革紐を一本だけ留める。あとの紐は、走りながら歯で噛んで引き絞った。

「父上——!」

広間の方角から、刃の打ち合う音。百は下らぬ響きだった。ヴァイスは剣の柄を握りしめ、石段を三段跳びに駆け下りる。

城門を見上げた。両開きの大門が、確かに内側から押し開かれていた。落とし格子の鎖が無残に切断され、跳ね橋は下ろされたまま凍土に突き刺さっている。門の外からは、雪原を黒く染めて騎馬が雪崩れ込んでくる。ゼルダインの緑旗、黄金の双頭鷲。先頭の騎士の楯には、白銀の蠍——帝国第二軍、ルキウス卿の紋章。

(八百——いや、千に近い)

広間では、父ゲルハルトが三人の帝国兵を相手に剣を振るっていた。灰色の髭に返り血が散り、左の肩当てが斧で裂かれている。石壁に並ぶ代々の狼の紋章が、揺らぐ松明に赤く染まって見えた。

「ヴァイス、下がれッ」

父の怒声が広間の天井を叩く。だがヴァイスの足は、すでに一人目の背中へ踏み込んでいた。剣を袈裟に振り下ろす。骨に刃が噛んだ手応えは、想像していたよりも鈍く、柄を握る指が痺れた。兵が崩れ落ち、鉄の匂いに獣じみた脂の臭いが重なる。生まれて初めて、人を斬った。吐き気が鎖骨の裏を這い上がった。

「父上、エレナ様は」

「西の楼閣だ。ギュンターが——」

父の言葉が途切れた。

広間の扉を蹴破って躍り込んできたのは、ギュンターその人だった。朝、湖畔で微笑んだ男の頬の古い刀傷が、松明に赤く照らされている。手には、アルフェン家代々の城門の鍵束。もう一方の手には、血に濡れた短刀。

「ギュンター——貴様ッ」

ゲルハルトが吠えた。ギュンターは答えず、ただ踵で石畳を一度踏んだ。その癖のある踏み方を、ヴァイスは昨晩、回廊の曲がり角で見た外套の男の足取りと重ねた。頭巾の下は、この男だったのか。

ヴァイスの背筋を、凍ったものが一息に降りた。八つの冬、木剣の握り方を教えたのはこの手だった。熱を出した夜、羊皮紙の冊子を枕元で読んで聞かせたのも、この声だった。三十年——父に次いで長く、城の空気を吸ってきた男。その足音が、昨夜の回廊を這っていた、と思うと、腹の底が冷たく陥没した。

「辺境伯様。永らくのご恩を」

ギュンターの声は低く、湿っていた。三十年仕えた声と同じ響きで、主の名を呼んだ。労りさえ、滲んでいた。それが、何よりも喉を塞いだ。憎しみよりも先に——なぜ、と尋ねたい問いが、口の端まで昇ってきて、ヴァイスは舌の腹を強く噛んだ。なぜ、と聞いてしまえば、返ってくる答えはきっと、聞くに堪えるものだ。だから、聞いてはならぬ、と本能が告げた。問いは、復讐の刃の切っ先を鈍らせる。

帝国兵が二人、父の背後に回り込む。ゲルハルトは息子に剣を突きつけて叫んだ。

「ヴァイス、エレナを! 城は落ちた、血を繋げ——!」

父の剣が一人の兵の首を刎ねた瞬間、もう一人の斧が、父の脇腹を深く抉った。鉄の鎧が、布を裂くような音を立てて砕けた。

父の膝が石畳に落ちる音は、存外に小さかった。灰の髭の奥、薄く開いた唇が、何か言葉を形作ろうとして、赤い泡に崩れていく。ヴァイスが見たのは、最後に口の端をわずかに持ち上げた父の、笑みに似た何かだった。——行け、と。視線だけで、そう告げていた。狼の紋章を映した瞳が、ゆっくり、松明の赤から外れて、石畳の灰色に沈んだ。

「——ちちうえッ」

ヴァイスの喉から漏れたのは、十八の声ではなかった。八つで母を亡くした夜と、同じ音だった。あのとき、寝室の暖炉の前に座らせてくれたのは、ギュンターの手だった。毛布の重みと、煮出した薬草湯の苦さ。その記憶が、この広間の空気のどこにも溶け込まず、異物のように喉に詰まって、涙のかわりに熱い塊を押し上げた。

西の楼閣への回廊は、すでに炎に呑まれていた。屋根裏から燃え落ちる梁の熱が、頬の皮膚をじりじりと焼く。煙の甘い樹脂の匂いと、絹が焦げる独特の苦い臭気。ヴァイスは袖で口を覆い、階段を駆け上がった。

楼閣の扉は、蹴破られていた。床に散らばる婚礼衣装の絹。壁際に倒れた侍女の亡骸。寝台の白い敷布には、朝に彼女が差し出した薬草の束が、まだ小さく残っていた。冬を越した薔薇の乾いた花びらが、枕元に散っている。部屋の中に、彼女の匂いだけが、湯気のように置き去りにされていた。そして、窓枠にひっかかった——小さな銀の鎖。

ヴァイスはそれを拾い上げた。指先に、朝と同じ冷たさ。だが、鎖の留め金はねじ切られていた。窓から身を乗り出せば、跳ね橋の向こうを、黒い馬車が走り去っていく。車輪が凍土を削る音に混じって、絹を裂くような女の悲鳴が、一度だけ。

(エレナ——)

ヴァイスは窓枠に爪を立てた。掌の皮が裂け、石に血が滲む。その痛みを喉の奥まで押し下げ、彼は踵を返した。

階段を駆け降りる途中、背後から矢が飛んだ。一本目は肩を掠め、二本目は左の太腿を貫通した。熱い鉄串を刺されたような痛み。歯で唇を噛み、血の鉄の味を舌の根に感じながら、ヴァイスは走り続けた。石段を一段踏むたび、太腿の肉が内側で裂ける音がした。血が長靴の中に溜まり、踵を運ぶたびに小さな水音を立てる。視界は端から白く霞み、松明の光が二重に揺れた。それでも膝は止まらなかった。止まれば、父の最期の目が意味を失う。走れば、父はまだ、生きている側にいる——息子の身体の中に、辛うじて。裏門を抜け、湖岸を目指す。湖岸の森まで延びれば、北の諸侯の領地へ繋がる。家訓が胸裏で反芻された——民を守る盾たれ。盾は折れてはならぬ。折れるくらいなら、沈んで、また浮かべ。

ラウネ湖の氷上に躍り出たとき、三本目の矢が背に突き立った。鉄の矢尻が肩甲骨の下を貫き、胸の奥で鈍い熱の塊に変わる。一歩、二歩——足の感覚が消え、膝から氷の上へ崩れ落ちた。

氷は、朝見たときより薄かった。

蹄の響きと、炎の爆ぜる音。振り向けば、城は赤く、天を焦がしていた。狼の紋章が掲げられていた胸壁が、黒い骨格へと崩れていく。ヴァイスは、剣の柄で氷を叩いた。一度、二度、三度。

鍔元が指の腹を削り、氷の表面に幾重もの白い亀裂が走った。その音は、婚礼の晩に彼女が奏でた琴の、最も低い弦の響きに似ていた。三度目に、ヴァイスは残った体重のすべてを載せた。

氷が、割れた。

冷たさと痛みの境が、もうわからなかった。水は予想より深く、鎧の重さが、両肩を下へと引きずっていく。息を止めることすら、忘れた。

沈みながら、ヴァイスは仰向けに身を返した。

氷の膜の向こうに、燃える城が見えた。赤橙の光が水の層で幾重にも屈折し、揺らぎ、歪んで、湖底まで届いていた。朝、自分の姿を映したのと同じ氷面に、いまは祖国が焼け落ちる光が広がっている。酸素が足りぬ肺が締まり、耳の奥で心臓の音が遠ざかっていく。

(父上——エレナ——)

口の中で血の鉄の味が、湖水の冷たい甘さに溶けていく。胸当ての裏で、エレナの銀の鎖の留め金が、皮膚に食い込んで離れなかった。

ヴァイスは目を閉じなかった。焼ける祖国の光を、瞼を閉じずに見続けた。

水の流れが、彼の身体を湖北の方角へ静かに押し流し始める。鎧の重さに抗えぬまま、ヴァイスは意識の縁で、ひとつひとつ、歯の奥に噛み締めた。

ギュンターの踵の音。紙包みを受け取った外套の男。城門を開けた鍵束。父を斬った斧。エレナを乗せた黒い馬車。帝国第二軍、白銀の蠍——ルキウス。

——全てを、覚えていろ。

焼け落ちる城の赤光が、氷膜越しに細く、遠く、揺れて、消えた。湖底から北岸の葦原まで、距離はまだ三百歩。息の残量、あと数秒。その数秒を、ヴァイス・アルフェンは、復讐の設計図を描くために使った。

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