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氷湖の参謀——裏切られた辺境伯嫡男は敵軍の影で祖国を再興する

第1話 第1話

第1話

第1話

氷の棘が頬を刺した。

湖面を渡る風に、アルフェン城の石垣から削り落ちた霜が巻き上がり、ヴァイス・アルフェンの頬を切り裂いていく。十八の春、天暦三百十二年、凍月二十七日——初陣の朝。帝都の北辺、ラウネ湖畔。湖面はまだ厚さ四尺の氷に覆われ、岸辺の葦原だけが先に春を知って黄金色に揺れていた。

「嫡男、鎧を」

父、辺境伯ゲルハルト・アルフェンの声は低く、湖面を渡る風に紛れることなく届いた。灰色の髭に霜が張りつき、鉄の鎧の肩当てに先代から伝わる狼の刻印が鈍く光る。父の隣に控えたのは腹心ギュンター。ヴァイスが六つの頃より木刀を握らせ、九つで初めて鹿を仕留めさせた男だった。その手が、今朝はうやうやしく新しい鎧を捧げ持っている。

「十八年、よう育った」

ギュンターの声は、いつも通り温かい。ヴァイスは頷き、一歩前へ出た。鎧の冷たさが、まず手のひらに伝わる。次に肩に、次に胸に。鉄の匂いと、磨き油の微かな甘さ。革紐が腋の下で軋み、胸当ての縁が鎖骨に当たって薄い痛みを残す。息を吐けば、口元で白い煙が鎧の表面に触れ、すぐに霜となって消えた。胸当ての内側に彫られた家訓の文字を、ヴァイスは指先でなぞった。

——民を守る盾たれ。

「読めるか」

父が問う。

「読めます」

「声に」

「民を守る盾たれ」

自分の声が、氷湖に吸い込まれていく。ヴァイスは湖面に一歩近づき、氷の上に映った自分の姿を見下ろした。鉄の肩当て、狼の刻印、父と同じ灰色の瞳。だが、まだ髭もない。頬の皮膚は、剥き身の葦のように青白い。

(これが、俺の始まりか)

寒気が胸板の内側まで染み入り、ヴァイスは無意識に息を止めた。十八の身体は、祖父と父の名に押し潰されそうになる。

父が雪を踏んで城へ戻っていくと、ヴァイスはギュンターと二人、湖畔に残された。結氷の銀色が、男の頬の古い刀傷を照らしている。三年前、南方ゼルダインの斥候を追って負った傷だった。傷跡は耳の下から顎の付け根まで、細く、白く、皮膚を裂いた川のように走っている。

「若。緊張されておいでか」

「……父上の鎧と、重さが違います」

「当然でしょうな。若の鎧はまだ、血を吸うておらぬ」

ギュンターは湖を見やった。氷の上に、鳥の影一つない。遠く対岸の黒い森の梢が、風に撓み、低い唸り声に似た音を返してくる。その音に、ヴァイスは幼い頃から馴染んでいた。父に連れられて冬の狩りに出るたび、この森は同じ声で自分を呼んだ。

「ギュンター。南境の情勢は」

「ゼルダイン帝国は、先王崩御の隙を衝いて北進するものと目されております。王都の宮廷は二派に割れ、宰相閣下は病に伏せり、我ら辺境に回せる援軍はありませぬ。今宵の軍議にて、辺境伯様は北の諸侯に檄を飛ばす心算でしょう」

ヴァイスは頷いた。初陣といっても、本格的な会戦ではない。国境を荒らす賊徒まがいの偵察斥候を討伐する、小さな出撃だ。だが父は、その小さな戦を息子に教えるために、あえて先延ばしにしてきた。十五で初陣を迎える貴族も多い中、十八は遅きに失するほどである。

「若。もし、もしもの話でござるが——」

ギュンターが一歩、距離を縮めた。靴の底が氷の破片を踏み、硝子を砕くような音を立てる。

「戦場で判断に迷うたときは、まず民を見るのです。兵ではない。将ではない。民を」

ヴァイスはその言葉の重みを、息の白さと共に受け止めた。ギュンターの声には、いつにない慎重さがあった。鉄の匂いに、わずかに汗の塩が混じっている。普段なら朝の湖畔に立つこの男から、汗の匂いなど立たぬはずだった。ヴァイスは鼻の奥で、その違和に小さく引っかかりを覚えたが、すぐに打ち消した。自分もまた、鎧の内で汗をかいている。初陣の朝とは、そういうものだ。

「……心得ました」

「良い返事を」

ギュンターは笑った。狼の牙のような、人懐こくも鋭い笑みだった。ヴァイスが幼い頃から、この笑みを何度見ただろう。転んで膝を擦りむいたとき、初めて弓で的を射抜いたとき、婚約者エレナと初めて並んで立ったとき。

胸中で婚約者の名を呼ぶと、ヴァイスの頬に初めて熱が戻った。十六の春、父同士の決めた許婚として城に上がってきた娘。まだ顔を合わせた日数は指で数えられる。だが別れ際、エレナが袖の内から差し出した銀の鎖は、今も胸当ての裏側で冷たい音を立てている。

「若、そろそろ城へ」

促されて、ヴァイスは湖に背を向けた。石畳の坂を上りながら、彼は一度だけ振り返り、氷上の自分の影に向かって低く呟いた。

「——盾、たれ」

その夜、本丸の広間で軍議は長く続いた。父ゲルハルトが地図の上に黒石を並べ、北の諸侯の持ち場を指で示す。シェーデン男爵には西の隘路を、ブラウン子爵には東の街道を、我らが本隊はラウネ湖の氷上を横断——。ヴァイスは末席で、父の指先と、男たちの目線の動きを追い続けた。地図の上で動く黒石の一つ一つが、数百人の兵の命であると、父は繰り返し息子に教えた。広間の炉では松の薪が爆ぜ、壁に並ぶ代々の辺境伯の肖像画が、揺らぐ灯火の中で束の間、眼を開けたかのように見えた。老将たちの呼吸音、鎧の鳴る音、古い羊皮紙を爪で押さえる乾いた摩擦音——それらすべてが、ヴァイスの耳の奥で重く沈殿していった。

軍議が解け、広間を辞する頃には、夜はすっかり濃くなっていた。回廊の蝋燭が揺れ、壁に彫られた狼の紋章を歪めている。

「少し、湯浴みをしてきます」

ヴァイスは家令にそう告げ、回廊の奥へ向かった。だが、足は湯殿ではなく、母が生きていた頃の小さな礼拝堂へ向かっていた。初陣の前夜、母の位牌に一言、詫びと挨拶をしておきたかった。

礼拝堂の扉を押す直前、ヴァイスは足を止めた。

回廊の曲がり角、城壁に穿たれた狭間窓の影で、誰かが誰かに紙包みを手渡していた。

一人は、ギュンター。

もう一人は——黒い外套の男。顔は頭巾に隠れて見えない。肩の線が痩せ、靴の踵が石畳を踏む癖が、城内の者のものではなかった。

ヴァイスは柱の陰で息を殺した。胸当ての裏、エレナの銀の鎖が、一瞬だけ冷たい音を立てたように感じた。心臓が喉元まで迫り上がり、こめかみの血管が鐘のように脈を打つ。鎧を着けぬ夜の身体は、剥き出しの不安そのままに震えた。

ギュンターは紙包みを受け取り、低い声で何か短く言葉を交わす。風の音に紛れ、大半は聞き取れない。ただ一つだけ——「城門」という単語が、辛うじて耳に届いた。

外套の男が身を翻し、城の裏手へ消えていく。ギュンターは一人、紙包みを懐深くへ仕舞い、灯りの途絶えた廊下を早足で去っていった。

ヴァイスは、柱の影から動けなかった。

(城門——?)

明朝の出撃に際する、補給の段取りだろうか。斥候への符丁だろうか。ギュンターは腹心である。父が最も信を置く男である。幼き頃より、ヴァイスに剣を教え、獣道を教え、民の守り方を教えた男である。

それでも、今宵の紙包みの受け渡し方は、なぜか普段と違って見えた。頭巾の男の歩き方は、城の者のものではなかった。朝、湖畔で鼻の奥に残った汗の匂い。あれは、初陣の朝の師の汗ではなく、もっと別の、追い詰められた者の匂いではなかったか——そう思い至ると、ヴァイスは自分の疑念そのものに怯えた。

ヴァイスは母の位牌への挨拶を忘れ、柱の影で立ち尽くした。胸当ての内側の家訓が、鉄を通して肌を冷たく刺していた。

自室に戻っても、眠りは訪れなかった。ヴァイスは鎧を枕元に置き、蝋燭の火を吹き消した。闇の中で、何度も寝返りを打つ。ギュンターの笑みを思い出せば、先ほどの紙包みの影が重なる。胸当ての裏のエレナの銀の鎖が、凍えるように冷たい。

(考え過ぎだ。父上は、ギュンターを信じておられる)

そう言い聞かせ、ようやく瞼を閉じた——そのとき。

遠く、湖畔の方角から、微かな馬蹄の音が混じり始めた。

一騎や二騎ではない。

——数百。

ヴァイスは跳ね起きた。鎧に手を伸ばしたその瞬間、本丸の鐘が狂ったように乱打され始める。

そして、中庭の方から、家令の絶叫が夜気を裂いた。

「城門が——内より——開いておるッ——!」

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