第3話
第3話
端末がまた震える。神楽、の二文字。一行だけ。
──生きてる。先輩の方こそ、本当に戻ってきたんですか。
俺は返信を打たなかった。かわりに、噴水の縁石から尻を剥がす。布越しの石のざらつきが、離れる瞬間にチリッと太腿を引っ掻く。アバターなのに、生地と石の摩擦まで丁寧に再現されている。三年前のヴィラ・ルーンは、もっと粗い石だった気がする。あの頃の縁石は、座るだけで装備の耐久値を削るような、ほとんど悪意に近いテクスチャだった。いまの石は、指先で撫でると微細な結晶の粒がひとつずつ起伏として返ってくる。グラフィックは更新されていて、俺の感覚だけが旧仕様に置き去られている。
広場から北に抜ける街道は、昼ならキャラバンの列で詰まる道だ。いまは夕刻の手前、人の流れがいちど薄くなる時間帯だった。歩き始めて三歩で、俺は変化に気づく。ヴィラ・ルーンの城門をくぐるまで頭上を埋めていた予測ラインの数字が、街道に出た途端、一斉に薄くなった。道の両脇のシダの陰から、低レベルのゴブリンが一匹覗いている。頭上に《予測:後退(79%)》。Lv82の圧に怯えているのが、数字で見えている。ゴブリンはすぐに藪へ消えた。葉擦れの音が、俺の右肩のあたりで一度だけ跳ねて、街道の奥へ逃げていく。かつての俺なら、抜剣しながら振り向いていた距離感だ。いまの俺は、ただ、薄くなった数字だけを目で追っている。
街道の石畳は、一歩ごとに色が変わる。青みがかった花崗岩、赤茶けた煉瓦、色褪せた石灰岩。三色の継ぎ目を踏みながら、俺は一つだけ考えていた。煉瓦の継ぎ目は三年前より確実に狭い。タイルの貼り直しが入ったのか、それとも俺の歩幅のほうが縮んだのか。
神楽を呼びつける前に、確かめるべきことが一つある。
今の俺が、今の環境で、ちゃんと戦えるのか。
緩やかな下り坂に差しかかったところで、足が勝手に止まる。
道の真ん中に、人影。
銀髪。細身の片手剣。肩口に刻まれた家紋は、動画で見たばかりの紋章──三年前、俺が首を刎ねた男のもの。夕陽を背負った輪郭が、街道の真ん中で切り抜かれている。風が一度、彼女の髪の先端をほつれさせ、銀の糸が赤い空を一瞬だけ引っ掻いた。
頭上には、数字が、ない。
他の全プレイヤーに貼り付いていた予測ラインが、彼女の頭の上だけ、真空のように空白だった。背景の空がそこだけ、ぱきっと切り抜かれているみたいに見える。視界のUIが、彼女の輪郭の内側だけを、読むことを拒否している。
「……おい」
声が喉に引っかかる。銀髪のプレイヤーが、ゆっくり顔を上げた。夕陽を真正面から受けて、細く目を閉じる。まつ毛の一本一本にオレンジの光が乗り、そして開いた瞳は、夜のプールみたいな青だった。
「黒曜さん。待ってましたよ」
彼女は、そう言った。
呼吸が一つ抜ける。待って、いた? ポッドの中の胸郭が、一拍だけ遅れて膨らむのが分かった。
俺が「黒曜」としてログインしたのは三十分前だ。チュートリアル跡地からヴィラ・ルーンまで、俺は誰にも名乗っていない。広場で端末を叩いたとき、フレンド欄に出ていた「黒曜」の三文字を、誰かが覗いていたはずもない。
「どうして、俺の名前を」
「ログですよ」
彼女は剣の柄に指をかけたまま、軽く肩をすくめた。銀の肩当てが夕陽を弾いて、ほんの一瞬、俺の網膜に残像を焼く。
「チュートリアル跡地で、旧バージョンの残影斬が発動したでしょう。あれ、運営のサブログを読める人間には通知が飛ぶんです。《LEGACY》の解錠アラート。私、そのアラート、三年間ずっと、自分の端末に転送してたんです」
三年間。語尾の三文字が、街道の石畳にぽとりと落ちる。俺の足元から、乾いた風が一筋、アリアの爪先のほうへ流れていった。
「あなたが戻ってくるのを、こっちでも待ってました。氷室アリアです。いちおう、いまのランク一位」
知っている。動画の中で、何度も剣を振っていた銀髪。《シロガネ・カルマ継承者》。動画では、彼女の踏み込みはいつも画面の外から始まって、敵の首筋で終わっていた。俺はそれを、食事の合間に何度も巻き戻して見ていた。
彼女は剣を抜いた。鞘走りの音が、俺の耳の奥を撫でる。三年前、俺自身が何千回と鳴らした音と、ほぼ同じ周波数だ。継承、の二文字が、もう一度、脳の裏側を軽く蹴る。
俺は一歩も動かず、アリアの構えを見ていた。剣先の角度、膝の折れ方、重心の位置。すべて三年前の俺の型だった。それでいて、筋肉の鳴り方がほんの少し違う。踏み込みの直前、左足の母指球だけが、俺が絶対に置かない位置に据えられている。俺の型を踏襲しながら、俺の型の欠点だけを補った配置。三年間、誰かがこの型の穴だけを埋める作業をし続けていた、ということだ。
頭上に数字が出ないのは──俺の予測システムでは、この立ち方を読めないからだ。
背筋が、ぞっと粟立つ。ポッドの中の肩甲骨が、リアルで一度跳ねたのが分かった。呼吸がアバターの胸と同期しない。仮想の肺と現実の肺が、半拍ずれて別々に膨らんでいる。
アリアは剣を抜き放ったまま、切っ先を地面に垂らした。戦闘開始じゃない。あれは、申し込みの構えだ。
「正式な決闘申請は、システム経由だとギルドに通知が走ります」彼女は笑わずに続けた。「非公式でいきませんか。一対一、ロスト無し、ギャラリーは止めません。ここで一本、お願いします」
街道の両脇、さっきまで空気だけだった空間に、ログイン通知のポップ音が連続して鳴り始めた。ひとつ、ふたつ、五つ、十。視線を横に流すと、岩陰や木の上から、半透明の観戦モードのアバターが次々に実体化していく。視界左上に数字が走る。《ギャラリーモード:参加者41名》。48、63、92。街道の両側が、あっという間に人の壁になる。人垣の奥で誰かがスクリーンショットのシャッター音を鳴らし、別の誰かがヘッドセットに向かって早口で実況を始める気配がした。
「掲示板、もう回ってますよ」
アリアが淡々と付け足す。俺の端末で、未読通知が一気に雪崩れた。フレンド機能、76件。神楽からは、たった一行。
──先輩、逃げてください。
逃げる。その二文字を、俺は舌の上で転がす。乾いた金属みたいな味がした。
ここで退けば、黒曜は帰って来なかったことになる。残影斬の検証も、予測システムの謎も、全部、次の三年に持ち越しだ。受ければ、三年ぶんの鈍りと、実戦未検証の《LEGACY》を、ランク一位の前に晒すことになる。どちらを選んでも、痛みの形が違うだけで、痛むこと自体は避けられない。
俺は端末を閉じた。
右手を、腰の鞘に落とす。旧式の片手剣の柄が、掌にぴたりと吸い付いた。握り込むと、指の皮の奥で、三年前の豆の痕が軽く疼く気がする。リアルの俺の右手は、いまポッドの中で空を掴んでいるはずだ。なのに、仮想の柄の質感だけが、はっきりと現実よりも現実っぽい。
観戦者の誰かが叫んだ。
「マジかよ、黒曜ってあの黒曜か!?」
別の誰かが端末を掲げて配信を始める。視界の隅に、赤い録画マークが複数。アリアはそれを横目で確認して、小さく頷いた。逃げ場は、もう埋められている。
「一つだけ聞かせろ」
俺はようやく口を開いた。声は、思ったより低かった。三年間、ほとんど誰とも話さずに動画だけ眺めていた喉は、低音のほうに錆びていたらしい。
「なんで、カルマの紋章を背負ってる」
アリアの剣先が、石畳に触れる寸前で止まる。彼女は少しだけ首を傾けて、夕陽の残りを頬で受け直した。銀髪の内側で、青い瞳が一度だけ、俺の剣の柄へ視線を落とす。
「それ、勝ったら答えます」
返事は、一つしかなかった。
俺は鞘から剣を、ほんの数センチだけ引き抜く。刀身の根元が、夕陽を舐めて、赤く光った。観戦者のざわめきが一瞬で引き、街道に風の音だけが残る。砂粒が石畳の上を転がる微かな音まで、耳の奥にくっきり届く。
視界の右端で、《LEGACY》の緑色アイコンが、一つ、また一つ、静かに灯っていく。
三年ぶんの鈍りを置き去りにするか、三年ぶんの過去に沈むか。
剣の柄を握り直した瞬間、俺の中で、三年前の「黒曜」が、ゆっくりと目を開けた。