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黒曜再臨──伝説の剣、三年越しの帰還

第2話 第2話

第2話

第2話

──残影斬。

スキル名を心で呟くと、腰の鞘から旧式の片手剣が抜ける。三年前のモーション、三年前の抜剣角度。指に馴染む重量。0.9キロ相当の慣性が、肩甲骨の裏側を軽く引いた。鞘走りの音が、耳の奥で金属片をひと撫でするみたいに残る。懐かしい、という感情のラベルを貼る前に、身体の方が先に思い出している。

チュートリアル跡地の石畳は、相変わらずつるりとした感触だった。篝火の油の匂い。遠くで、新人プレイヤーが魔法を試し撃ちしている破裂音。その音に、俺の鼓動が勝手に同期する。頭上の空は、三年前と同じ、少しだけ紫を混ぜた黄昏色のままだった。運営はこのエリアのスカイボックスだけ更新し忘れているのか、あるいは意図して残しているのか。どちらでもよかった。どちらでも、俺の過去はここに置き去りにされている。

視界の右端、半透明のウィンドウはまだ消えない。

《熟練度継承:LEGACY──検出》 《固有フラグ:解錠準備中》

「とりあえず、試すか」

目の前に、初期ダンジョン入口から迷い出てきた低レベルスライムが一匹。討伐推奨Lv3。俺のレベル表示は、三年前のまま82で凍りついている。完全にオーバーキルだ。だが確かめる相手としては、これ以上ないくらい都合がいい。

踏み込む。左足で石畳を蹴り、右足で地面の縁に引っかけ、上体をひねる。三年前の俺が五千回以上繰り返した体重移動。ブランクはある。ある、はずだった。なのに、身体は勝手に最短経路を選んだ。膝の裏の腱が、ゲーム内アバターの骨格に張りを返してくる。呼吸のタイミングまで、三年前の癖に引き戻される。吐き切った直後に踏み込む、あの、自分だけの型。

剣先がスライムの核を薙いだ瞬間、世界が一拍、止まった。

視界が白くフレーム落ちする。そしてスライムが二体、同時に斬られていた。

一体は、確かに俺が斬った本体。もう一体は──俺の残像。俺の足跡の上に、半透明の過去の俺が、同じ剣筋で斬り下ろしていた。

「……は?」

残影斬は、こんなスキルじゃない。

本来は攻撃後に自分の分身が一拍遅れて同軌道を追撃する、微妙にDPSが上がる程度のスキルだ。三年前の下方修正で実用度は地に落ち、今どきのプレイヤーはまず取らない。死にスキルの代名詞だった。

それが──三体目の残像を、さらに重ねてきた。

半透明の俺が、さらに半透明の俺を生んで、三人分の剣筋が同じ軌道を描き切る。最後の残像が消える瞬間、石畳の目地に薄い光の筋が走り、すぐに掻き消えた。刃筋の記憶が、世界にうっすら刻まれる感覚。三年前、仕様変更前の掲示板で誰かが「残影斬は三段目から本番」と書いていたのを、俺は今更のように思い出した。

スライムが光の粒子に変わっていく。獲得経験値の表示が走り、その横に、見慣れないログが流れた。

《継承:残影斬 Ver.1.7.3(旧バージョン)──固有技として登録》 《旧パッチ挙動を保持したまま、現環境に再適合されています》

俺は剣を下ろした。

旧パッチ挙動。三年前の、下方修正される前の。

指先が冷えていく。さっきコンビニを素通りしたときと同じ、血が引く感覚。ただし今度は、その先にぴりっとした熱がある。背骨の根本、尾てい骨のあたりで、何かが小さく燃え始めていた。口の中が乾く。奥歯を噛むと、仮想の唾液のはずが、リアルの喉で一度飲み下す音がする。ポッドの中の俺と、石畳の上の俺が、同じタイミングで息を整えていた。

俺は石畳に膝を落として、スキル欄を開いた。

三年前に取得した旧式スキル、全三十二種。そのすべてに、緑色のアイコンが点っている。《LEGACY》の三文字。タップすると、それぞれにサブログが走った。

《雷翼歩 Ver.1.2.0──固有技保持》 《氷柱突 Ver.1.4.1──固有技保持》 《二段抜刀 Ver.2.0.0(旧)──固有技保持》

下方修正される前の仕様が、全部そのまま、俺のアカウントに貼り付いている。一つずつ、指でなぞる。雷翼歩は移動中の硬直が短かった頃の仕様。氷柱突は貫通判定が残っていた頃の仕様。二段抜刀に至っては、二段目の威力が今の三倍近くあった頃のまま。どれも、一度ナーフされて、二度と戻らなかった。戻らないはずだった。

これは、バグじゃ、ない。

バグならアイコンが赤くなるはずだ。運営側の例外処理として緑色を出している。誰かがこの状態を、意図して許している。

息を吐くと、吐いた息が自分の肩まで戻ってきた。アバターなのに、呼吸が重い。リアルの肺が、ポッドの中で同調している証拠だった。ヘッドセットのバンドが、こめかみの上で微かに締まる。

立ち上がる。もう一つの異常を確かめるためだ。

半透明のウィンドウ。他プレイヤーの頭上に漂っていた数値。

石畳を歩いて、チュートリアル広場の中央へ戻る。新人たちが十人ほど固まって、杖を振り回していた。歓声、感嘆、初心者特有の操作ミスの悲鳴。俺は広場の隅に立って、目を凝らす。

数値は、まだそこにある。

《予測:次行動 詠唱破棄(87%)》 《予測:次行動 後退ステップ(63%)》 《予測:次行動 仲間追従(91%)》

新人の一人が、杖を握ったまま迷っている。頭上の87%の数字に、視線を合わせたまま、俺は待った。三秒後、そのプレイヤーは本当に詠唱を途中で止めて、杖を振り直した。

──当たった。

別の一人。後退ステップ63%。やや遅れて、そのプレイヤーは半歩だけ後ろに下がった。

当たる。当たる。当たる。

十人分の行動を続けて読み切って、俺は指の震えに気づいた。アバターの指が震えるのは、リアルの手が震えているからだ。ポッドの中の俺の右手が、剣の柄を握る形のまま、細かく痙攣している。指先から肘にかけて、鳥肌に似た微電流が這い上がってくる。恐怖と歓喜の、どちらに振り切っていいか分からない種類の震えだった。

「……これ、仕様じゃ、ないよな」

声に出したとたん、半透明のウィンドウが一つ、追加で展開した。

《予測精度:過去戦闘データに基づく個別補正──有効》 《使用者タグ:黒曜》

黒曜。

三年前に捨てた名前が、システムログの中に、しれっと残っていた。タグの横に、使用時間の累積らしき数字がちらりと覗いて、すぐに畳まれる。俺が消したはずのログを、運営のどこかが保管していた。しかもそれを、今このタイミングで、俺の前に差し出してきた。

俺は踵を返した。

広場の出口に、隣町への街道が伸びている。初心者エリアの外。プレイヤー密度が上がるエリア。俺の目の前に、旧式スキルと他プレイヤー予測値という、二つの検証対象が並んでいる。どちらも、ここで独りで確かめ切れる代物じゃない。

石畳の目地を蹴る。走り始める。走法は三年前のまま、ただし動きに、現環境用のブースト補正が噛み合っていく感触があった。LEGACYの緑色アイコンが、足元に残光を引く。走るたびに、過去の俺の足跡が半拍遅れて石畳に焼き付き、そして溶けるように消えていく。影が二つ、三つと伸びて、追いついてきて、また俺に重なる。

街道を抜ける手前で、前方に立派な門が見えてきた。初心者卒業者が最初に訪れる宿場町、ヴィラ・ルーン。三年前にも、俺はここで最初のパーティを組んだ。

門をくぐった瞬間、視界の中で、一斉に数字が灯った。

《予測:次行動 会話継続(94%)》 《予測:次行動 露店接近(71%)》 《予測:次行動 PT募集掲示板閲覧(88%)》

目に映る全プレイヤーの、頭上に漂う行動予測。バグなら、こんな負荷は運営側が即座に落とす。落とされていない。俺だけの特権として、維持されている。数字は瞬きに合わせて微妙に上下し、視線が外れた相手のものは薄く、視線を合わせた相手のものは濃く、それぞれ階調を変える。まるで、誰を見るかで世界の解像度が勝手に切り替わるみたいだった。

広場の噴水の縁に腰を下ろして、俺は顎を引いた。頭の中で、一つだけ確かなことを並べる。

旧スキルは、旧仕様のまま生きている。 敵の動きが、数字で先読みできる。 そして、それを運営は許している。

「仕様だ。仕様で、俺に寄せてある」

口の中で呟く。頬の内側を、舌先で舐めた。金属の味はしない。だが、三年前、サーバー落ち直前の緊張を思い出す味だった。

噴水の水音に混じって、掲示板の方角から歓声が上がる。中央の大型モニターに、今朝のランク一位防衛戦の告知が回っていた。《シロガネ・カルマ継承者 vs 挑戦者募集中──本日二十一時》。

俺は端末を呼び出した。フレンド機能、最後に残った一人の連絡先に、短い文を叩き込む。

──神楽、生きてるか。今夜、少し付き合え。

送信ボタンを押す指先が、さっきまでの震えを、もう忘れていた。

視界の端、《LEGACY》の緑色が、微かに強く点滅する。俺の旧データが、次の検証相手を、静かに待っていた。

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